サイボーグヤミ太郎
@ITIZO
第1話
サイボーグヤミ太郎
ヤミ太郎
京成立石駅の近く。空襲を逃れた地区で、背の低い建物が多く、ふとした隙間にスカイツリーが聳える。昭和とともに歳を重ねたような雑居ビルの一室で、近未来的な面接が行われている。
「オレ、改造されちゃってるんで。ハイブリットなんです。オレ、トー横通いしてたんすよ。そしたら、マッドサイエンティストの親父に、気に入らないからって改造されました。大学行かないんだったら、実験材料になれって、産学協同の研究所で改造されました。頭にAIチップ埋め込まれてたり、人工筋肉、人工骨格、内臓も。だから、クソ出ないんですよ。しょんべんしか出ません。しょんべんもただの水なんで、きれいなもんなんで、トイレ要らないっす。だから、クソしないことと、しょんべんがきれいなことです」
自分の長所を訊かれたヤミ太郎と名乗った青年は、そう答えた。
「はい……え、と……名前は? これにもヤミ太郎って書いてあるけど」
パンツスーツに、ブラウスの上は作業着を着た女は、テーブルの上の応募書類に視線を落として言った。
テーブルの上には、彼女がヤミ太郎に渡した名刺が置かれている。「株式会社サンクリーン 事業部長 梶原美波」それが彼女の肩書きのようだ。
「それです。脳いじられちゃってて、チップ入ってるんす。元の名前は、わかんないんす。名前書こうとするとそれしか書けません。口に出して言うのもっすね。性格悪い親父の嫌がらせです」
「そう……それから、確かに、うちは履歴書いらないよ。でも、名前と……ていうか名前もか……だし、年齢しかわかんないんじゃさ……」
「すんません。わかんないんす。あと、そっすね。目からビーーーーム!」ヤミ太郎の両目から細く赤い光が放たれて、テーブルの上の湯呑みの水面にあたり、チッと音をさせた。「すんません。これ、言わないと出ないんです。目からレーザー出せるっす」
女は、薄化粧の目を見開いて動けない。
「ああ、大丈夫っす。チップ入ってるんで、悪さできないようになってます。どういう仕組みかなんてわかりませんよ。オレがやったんじゃないんですから。でも、他にも機能あるっすよ。空飛んだりは無理っすけど。軽くサイボーグっす」
「……じゃあ、短所は?」
梶原美波は、ヤミ太郎に視線を向けつつも、どこにも焦点できずにいる。
「そうっすね。すぐダルってなるとこっすかね」
「ダル……はい。希望は、清掃員で間違いない? 単調な仕事だよ。それから、同僚も高齢者が多いし、若い子もいるけど、若い子は、みんな障害者だよ」
「はい」
「動機は? 何で? まだ、二十歳なのに、清掃?」
「俺の使命なんす。親父が『お前は、この汚れた世の中の掃除をしろ』って。冗談じゃないっすよね。でも、インプットされてるんす。逆らえないんすよ。だから、清掃員」
「なんか違うと思うけど……え、と、じゃあ、身分証明書とか持ってる? 免許証とかマイナンバーとか」
「ないっす。研究所から、逃げてきたんで。あと、二十歳ってのもだいたいそんなもんかな、と思って。ホントんところはわかんねっす」
「はい? それじゃ……」
雑居ビルの一室の小さな事務所に入って直ぐのパーテーションで囲われた中で、小さなテーブルを挟んで座る二人は、押し黙った。
ヤミ太郎は、なんとなく、白いテーブルの脚に視線をやった。その脚は、フラミンゴみたいな鳥の足になっていた。
「ああ、これ? ね、変でしょ? 有名なやつのパチモンみたいで……足だけ鳥でかわいそう。こんなところに置かれて。籠の鳥にもなれない。羽も生えてないとね……」
梶原美波は、会話の切り口を見つけたと思ったが、思うように広げられず、と言った様子で、また、黙った。
ヤミ太郎は、そんな様子の彼女に構う様子もなく、黙ったまま、彼女からの言葉を待つように、彼女に視線を戻した。
パーテーションの向こうで電話が鳴る。
「美波さん。部長。電話だよー」
「ごめん」呼ばれた梶原美波は席を立つ。「待ってて」
残されたヤミ太郎は、鼻から息を吐いて、白くてしゃれたテーブルの足の先から天面まで眺めた。くすんで艶のないリノリウムの古びた床に置かれた鳥足のテーブルは、場違いに洒落たものだった。彼は、清掃を請け負う会社に置かれた場違いにしゃれたテーブルを眺めて、その出自をなんとなく想像しているようだった。
2025
大江戸線の長いエスカレーターから、モップを持ってヤミ太郎が上がってくる。直ぐ後ろには、揃いの作業着を着た円背の男が手ぶらでついてきている。二人は、直ぐに隣の下りエスカレータ―に乗り換える。ヤミ太郎は、モップを足元のスカートガードに当てている。
「よくきたよな。うち、ちょっと変わってんのとか、足りないのとか、俺みたいな年寄りだろ。世の中人手不足って言うけど、おかげで俺なんかが、マシな仕事にありつけんだけどな。兄ちゃんは、若いのに何で?」
ヤミ太郎の後から、円背の男が話しかける。
「世の中綺麗にすんのが俺の使命なんすよ。自分も世の中の人手不足のおかげでありつけたんす」
「へえ、でも、若いのに使命なんて立派じゃねえか。頑張れよ。つっても、この仕事こんな調子だぞ。それから、まだ、仮採用の研修中だからな」
「はい」
二人は、大江戸線のエスカレーターで地下の深くへと降りていった。
新御茶ノ水駅の上り下り二本ずつ、計四本の長いエスカレーターの一番端のエスカレーターから、ヤミ太郎がモップでスカートガードを拭きながら上がってくる。
後ろには、高齢者に足を踏み入れたかどうかの男がついている。帽子から、半分は白髪の髪がはみ出ている。
男は、さっきから、昼飯を何にするかの話を続けていた。
「……つってもね。なんだかんだ言って、やっぱ、吉牛よ。一番美味いね。色んな美味いもん食ったよ。それこそバブル絶頂期経験してっから。あの頃は、仕事はいくらでもあるし、やればやるほどもうかったじゃん? 稼がなきゃだし、遊ばなきゃだし、忙しかったなあ。それが、今はこれよ。思うに、わけのわかんねえ波っつうか、力っつうかに乗せられてた口なんだな、俺みたいのは。だって、バブル弾けたら、何やってもうまくいかねえんだもん。何にもできなくてこのざまよ。あ、今度、あっちの端。兄ちゃんサイボーグなんだって? 色々出来んだ?」
二人は、反対の端の下りエスカレーターに乗り換える。
「目からレーザー出たり、腕力はあるっすね、あと頑丈だったり、あと、足早いっす。全力で六十キロくらいですかね。空飛べたりとかはないっす。でも、できないこともあるんすよ。自分の本当の名前もわかんなかったり、自分のこと誰だかもわかんないんす。しなきゃいけないことは、分かるんすけど、何がしたいかとか考えられないんす。記憶もないし」
「へえ……」
二人は、宇宙船の搭乗口を思わせるような空間を地下へと降りてゆく。
みなとみらい駅からの長いエスカレーターから、ヤミ太郎が上がってくる。視線は、スカートガードに当てたモップの先に向けられている。後ろには、高齢に見える揃いの作業着を着た女性がついている。胸の刺繡は、大金だ。
「もう、何も言わないで大丈夫でしょ? 若いから研修なんて一日でいいよね。何日もやらせんなって」
「まあ……」
「明日は? どこ?」
「ミッドタウンて言われてます」
「おう、いいね。若くて、何もなさそうだけど、こんな仕事でいいの?」
「そう見えるだけで、色々、ありありです。オレ、悪さできなくて、そうじゃないことは自由にできるんすけど。初めは、何もする気なかったんす。でも、掃除がやんなきゃいけないことなんで。で、ちょっとやってみると、気持ちいいわけじゃないですか? 暇だし、やることにしたんす。清掃を」
「へえ、変わってんだ。あたしゃこんな仕事して死んでくのゴメンだけどね。まあ、でもそこに向かってんな……この国は、年寄りにぶっ倒れるまで働かせる気だよ。世の中どんどん悪くなる。逃げ切れっかな」
二人は、長いエスカレーターから、短いエスカレーターに乗り継いでゆく。短いエスカレーターを降りる。明るくて人通りのあるコンコースをかすめて、直ぐに下りのエスカレーターに乗り換える。
「仕事も上がったり下がったり。人生も上がったり下がったり。死ぬ時は、明るいところで死にたいねえ」
「そっすね」
二人は、地下へ向けて、ゆっくりと滑り降りていく。
途中、壁面にシラーの詩が現れる。
樹木は育成することのない
Der Baum treibt unzählige Keime,
無数の芽を生み、
die unentwickelt verderben, und
根をはり、枝や葉を拡げて
streckt weit mehr Wurzeln, Zweige und Blätter
個体と種の保存にはあまりあるほどの
nach Nahrung aus, als zu Erhaltung seines Individuums
養分を吸収する。
und seiner Gattung verwendet werden.
樹木は、この溢れんばかりの過剰を
Was er von seiner verschwenderischen Fülle
使うことも、享受することもなく自然に還すが
ungebraucht und ungenossen dem Elementarreich zurückgibt,
動物はこの溢れる養分を、自由で
das darf das Lebendige in fröhlicher
嬉々としたみずからの運動に使用する。
Bewegung verschwelgen. So gibt uns die Natur
このように自然は、その初源からの生命の
schon in ihrem materiellen Reich ein
無限の展開にむけての秩序を奏でている。
Vorspiel des Unbegrenzten und hebt
物質としての束縛を少しずつ断ちきり、
hier schon zum Teil die Fesseln auf, deren sie sich
やがて自らの姿を自由に変えていくのである。
im Reich der Form ganz und gar entledigt.
フリードリヒ・フォン・シラー
Friedrich von Schiller
ヤミ太郎の目には、最後の一節だけが目に留まった。
「なんか、話しにくそうだったけど、そんなでもなかったね。あたし、キミちゃんだから、大金君子。キミちゃんでいいよ。呑兵衛おキミだよ。言っとっけど金はないよ。名前言うとみんな言ってくっから」
キミちゃんの声は、酒やけしたような声で、もう何杯か飲んでいるような口調だ。
「自分は、言いにくいと思うんで、太郎でいいっす」
ヤミ太郎とキミちゃんは、パシフィコ横浜を背にしてベイブリッジを見ながら、階段に座り昼休憩を取っている。
すぐそばの桟橋には、海上保安庁の船、その向こうには、海上自衛隊の護衛艦が見える。
「休憩はさ、ここって決めてんの。海なし県で育ったから、海みたいのよ。海。海は広いぜ、大きいぜ。太郎ちゃんは、何日勤務よ?」
「週五っす」
「やっぱ若いねえ。ていうか、サイボーグだもんな。でも、休むんだね」
「体力的には、大丈夫なんす。なんていうか、憂さが溜まってくるんです。そうすると悪さすることしか考えられなくなるんすよ。悪さできないんすよ。チップが入ってて。そうすると、自然に、何もできなくなって、休まなきゃってなるんす。休んでると憂さが溶けてくんで。なんで、人並みに休みはいるっす。夜も寝ます。なんで、週五希望っす」
「そうなんだ」キミちゃんは、膝の上で弁当の包みを開ける。「さあさあ、飯、飯」
「はい」
ヤミ太郎は、持っていた一リットルの牛乳パックを開けて飲む。
「ホントに、そんだけ?」キミちゃんは、ヤミ太郎が牛乳を二口飲んで海を眺めているのを見て言った。
「はい」
「金ねえのか?」
「いや。牛乳だけでいいんす。牛乳は、一日三リットル。一回一リットル。食べたっていいんすけど。食べたいとも思わないんで」
「へえ……しょうがないか、サイボーグだもんな」
「しょうがないっす」
「休みは」キミちゃんは、弁当を食べながら、隣に座るヤミ太郎の足下から顔に視線を流す。「休みの日は? 何やってんのよ? 楽しみは?」
「楽しみは……なんすかね。掃除すんと、スッとします。汚れてるとこ確認して、下調べして、掃除のやり方考えて、掃除するんす」
「掃除!? じゃあ、仕事じゃんよ。仕事でも掃除、休みでも掃除かよ。やっぱ、変わってんね」
「はい」
ヤミ太郎は、牛乳パックに口をつけて、喉を鳴らした。
宇宙船を思わせる見た目の水上バスが、深い青の波に浸かりながら、ベイブリッジに向かって過ぎていった。
掃除
ヤミ太郎のスニーカーの底からは、ゴムを焼いた匂いがしていた。
目出し帽をかぶったヤミ太郎の表情は見えない。
ヤミ太郎のスニーカーの下で歪んでいた顔が、溶けるように力を失った。
「ふん」
ヤミ太郎は、短く鼻のあたりで言って、仰向けに倒れた男の顔を踏みつけていた足を退ける。
「あ、ありがとうございます……」
周りの人だかりの内側にはいるが、ヤミ太郎から、距離を取っている大学生風のカップルの女の方が言った。
男の方は、ヤミ太郎のスニーカーがどかされて、街頭ヴィジョンの明滅を浴びる変形した顔を見て「うわ……」と声を漏らした。
「心配ない。生きてるよ。整形してやったんだ」ヤミ太郎は、ピクリとも動かない男の顔を覗き込んで、ボソッと言った。「もう、どっか行った方がいい。こいつの仲間がいると面倒だから。そこまで面倒見れない」
ヤミ太郎に言われると、彼氏は、細かく頷き、彼女の手を引いて足早に人ごみに消えていった。
ヤミ太郎は、距離を取ってスマートフォンを向ける人だかりを見回して、「掃除だよ」と小声で言った。それから、手すりに手をかけて、駅前デッキの下を覗く。バスとタクシーの列がちょうど途切れている。ヤミ太郎は、身軽に手すりを飛び越えて、人だかりの前から消えた。人だかりの中から、短い悲鳴や「あ!」と言った声が幾つか聞こえた。
ヤミ太郎は、外灯や車のライトに忙しく照らされるアスファルトに、ほとんど音をさせずに着地した。目出し帽を引っ張って脱ぐと、さっさと歩いていって、ガードレールを跨ぎ、まばらに人の行きかう歩道に入る。駅前デッキの上から、下を覗いた人たちの声が聞こえていたが、ヤミ太郎は振り返らなかった。
外国人だろうか、大柄な男が、片言の日本語で若い二人連れの女にしつこく声をかけている。二人が歩き去ろうにも、その前後にも男がいる。そちらの二人は、日本人に見える。
広くてタイル張りの歩道の端にあるベンチから、その様子を見ていたヤミ太郎が立ち上がる。ポケットから目だし帽を出して被り、ゆっくりと歩いて近づく。そのまま立ち止まらずに、二人連れの女の逃げ道を後ろで塞いでいる坊主頭の男を軽く蹴とばす。
「うおっ」
男はよろける。
「Hey! ナニ!」
それを見た外国人風の男がヤミ太郎に向かって言う。ヤミ太郎よりも頭一つ分身長が高く、体つきも筋肉質だ。
「オイオイ。なんかキメてる?」
「なんだよ。闇バイトの強盗さん?」
二人連れの女性の前に立ちふさがっていた太った男もヤミ太郎に半歩迫る。
「いいよ。行って」ヤミ太郎は、構わずに二人連れの女性に言う。
言われた二人は、すぐに駆け出す。
「ちょ!」
ヤミ太郎に蹴られた男が、二人を捕まえようと手を伸ばす。伸ばした手が、走り去る女性のバッグに手がかかる瞬間に、何かに叩かれて跳ね上がり、届かなかった。男は、ギャッというような声を発して手を押さえた。
「Hey!」
外国人風の男が、ヤミ太郎に詰め寄る。
「ドゥ イッ!」太った男は、日本語訛りで、おそらくDo itと言った。「この人元軍人さんだよ。ガタイの差わかってんの?」
ヤミ太郎の動きは見えなかったが、坊主頭の男が、痛みに手を押さえて動けないでいることにヤミ太郎が関与したことは明らかだった。
外国人風の男は、ヤミ太郎の肩を押そうとするが、ヤミ太郎の体は、微動だにしなかった。おそらくコンクリの壁でも押したような感触だったろう。
外国人風の男は、戸惑った様子でもう一度ヤミ太郎の肩を押すが、ヤミ太郎は、動かない。
「お前らだろ?」
「ああ?」
「最近、女の子まわしたろ?」
「はあ?」
「ってえよ。こいつ、何した?」
坊主頭の男は、痛みで血の気の引いた顔で手を押さえ、一歩下がった位置にいる。
太った男は、ずり下がったズボンをつかんでたくし上げた。
外国人風の男は、感触に動揺して、ヤミ太郎の肩に手を置いたまま、得体のしれない物を見るようにヤミ太郎を見て、動けない。
「お前ら汚れだよ。ゴミだ。キレイにしなきゃいけない。掃除だ」ヤミ太郎は、前に立つ外国人風の男の胸のあたりを見ながら、抑揚なく言った。「手、どけろ」
ヤミ太郎の肩に置かれたままだった太い腕が、男の体が一瞬浮き上がるほどの猛烈な勢いで弾き飛ばされ、勢い余って一周した腕が、隣の太った男の肩に勢いよく当たった。
外国人風の男が、もんどりうって抑えた腕は、肘の関節が逆に曲がっていた。
今度もヤミ太郎の動きは見えなかった。ヤミ太郎は、ただ、突っ立っている。
その後も、ヤミ太郎の動きは、眼で追うことが出来るものではなかった。身構えた姿勢のヤミ太郎が、ぶれて見えるだけだ。その周りで、三人の男たちは、打撃に弾かれていった。
あっという間に、三人の男が路上に転がった。三人とも腕は、本来の向きとは逆のくの字に曲がり、顔はあちこちで骨折しているようで、腫れ上がったり、おかしな凹み方をしている。
ヤミ太郎は、振り返って、背後にできていた人だかりを見回す。そのまま、動きを止めずに、向き直ると動かない外国人風の男の体をまたいで、向かいのビルの隙間の暗がりに入って、映画のワンシーンの様に、ものすごいスピードで、ビルの間を駆け登って消えた。
ヤミ太郎は、雑居ビルの屋上の看板の陰から、血を流して倒れている三人の男とその周りの人だかりを見ろしている。
「なんか……違うんだよな……」
ヤミ太郎は言いながら、目出し帽を引っ張って脱いで、髪をくしゃくしゃとやった。
電飾がヤミ太郎の背中を暗闇に浮かび上がらせた。
勧善懲悪
ヤミ太郎は、大型ショピングモールの長円形の吹き抜けの手すりに、クロスを持った左手を置く。
「あ、で、腕は伸ばしてね。見た目も大事。そ、そ。で、後は、ざーって拭いてく」
ヤミ太郎は、言われた通りに、手すりの上のクロスを持った左手をまっすぐ進行方向に伸ばして、歩き始める。
「山野内さんは、前の仕事は何を?」
ヤミ太郎は、歩き始めると、後ろについて歩いてきている身長百五十センチくらいで、でっぷりとした男に尋ねる。
「テレビマンだな。アニメとか、ヒーローもんとか、子供向けの番組のプロデューサー」
「え?」
「だろ? ギャンブルよ。借金こさえて、離婚してのお決まり持ち崩し定番コース。多いよ。あそこもおかしな業界だから」
近所の小学校が休みなのか、平日なのに子供連れが多い。
ヤミ太郎と山野内が会話を交わしながら、吹き抜けを一周してキッズスペースの前に戻ってくる。
「街の掃除っす。やんないと、憂さが溜まって、身体がグギグギで動かなくなるんすよ」
「へえ。ゴミ拾いとかしてんの? じゃ、次の輪っか」
ヤミ太郎と山野内は、隣の吹き抜けに移動する。
「ああ、いえ。違くて。なんか、映画とか漫画であるじゃないですか? ヒーロー的なやつが、圧倒的な能力使って、街の悪いやつぶっとばす的な。でも、なんて言うか、古いじゃないですか。もっと、こう、なんかないかなと思って。なんか違うなって」
ヤミ太郎は、クロスを右手に持ち替えて、さっきとは反対周りで手すりを拭いている。
「ああ……相談は、そこか。もう、その構図自体が古いのかもね。勧善懲悪的な」
「やっぱり。え、カンゼンチョウアクってなんすか?」
「あー、なんつうの、善と悪がはっきりしててさ、正義は勝つってやつ。昔は、それでいけたのよ。ヒーローもんはみんなそれ。アニメも。敵役に悪い事させて、泣く人間がいて、それを強いヒーローが助けてればオッケー。でも、今は、敵役もヒーローで、人気出たりすんでしょ? ガンダムくらいからなのかな? ちなみに、どんな感じでやったのよ? その、掃除」
「はい……」
ヤミ太郎は、山野内に昨夜の件を話した。ざっと話すと、もっと詳しくと言われ、昨夜の行動や言動まで、できるだけ詳細に話した。
「うわー、古いよ。古い、古い! カップル助けて? シュッと消えたり? 絡まれてる女子逃して、ボコってビルの上から? 眺める? 哀愁漂っちゃってんじゃん。そりゃ、俺たちの年代よ」
「そうっすか?」
「それにさ、きりがないじゃん。そんなの。そんな奴次から次に湧いて出てくんだから。つっても掃除って、そういうもんか、この仕事もそうだもんな。汚れもゴミも次から次から湧いて出てくるもんな。きりがないよな」
「はい……」
「その改造はさ、親父さんにやられたんだよね? 親父さん俺と同年代?」
「たぶん……」
「それだ。そりゃ、辛いよね。親父さんの思想が入ってんのよ。きっと、頭に入れられたチップにさ。ジェネギャだよ。そこで、葛藤が起きてんのよ」
「葛藤……」
「そうそう、太郎ちゃん世代はさ、そういう、ほら、勧善懲悪も聞いたことなかったりするわけじゃん? 敵役にもちゃんとバックグラウンドがあって、なんでそうなったかの理由があって、共感できる魅力があったり、もち、主人公も単純な善じゃなくて闇抱えてたり、カオスな世界線でしょ?」
「そう……なんすか……?」
「あれ? ちゃんと持ち替えて、反対周りしてんね。スジがいいよ。そ、そ、8の字が基本ね」
「はい……で、なんか、案あります?」
「ちょっと考えてみるよ……まあ、でも、それがあったら、もっとテレビマンで成功してたよな~」山野内は、最後の方を自嘲気味に歌うようにして言った。
二人は、下の階に移動していた。
伸ばした手にクロスを持って手すりを拭くヤミ太郎と後ろをついて歩くでっぷりとした山野内。揃いの作業着を着た二人は、上の階で行った作業を同じように続ける。上の階で二人を見て、降りてきた客は混乱するかもしれない。
「太郎ちゃんは違うけどさ」山野内が、話し始める。「うちの会社は、あれな子が多いでしょ? 教えた時はちゃんと一階から四階まで、できたのにさ、いざ、一人になったら、ずっと同じ階で8の字ぐるぐる。無限回廊よ。ちゃんと教えたのか? って。まいっちゃうよな」
ヤミ太郎は、黙って聞いている。
ヤミ太郎が、吹き抜けの対岸を見ると、子供たちが並んで、さっき拭いたばかりの手すりにぶら下がるようにして遊んでいた。
ヤミ太郎は、小声で、「真面目なんすよ」と言った。
「え?」
「ああ、いや……」
「あのさ、いっぱい撮られてんでしょ? バズってんじゃない?」
「ああ、いえ。機能があるんで、ジャミングっていうんですか? 違うかのかな。半径百メートルくらいなのかな。撮れなく出来るんす」
「ほー……あ、ちょっと早くなってんな。もう少しゆっくり歩こうか。早く終わり過ぎちゃうし、逆にちゃんとやってないように見えちゃう」
「はい」
山野内に言われて、ヤミ太郎は、歩く速度を緩めた。
「なんかさ、太郎ちゃんて、兵器だよな。軍事用じゃね? 後で、レーザー見してよ」
ヤミ太郎は、自分の意思なのか、チップのせいなのか、何も答えなかった。
面談
「ヤミ太郎君て真面目?」
「え?」
ヤミ太郎は、座るなり梶原美波に言われて、面食らったように言葉に詰まる。場にそぐわない脚が鳥の足になっているしゃれたテーブルに視線を落とすよりほかなかった。
「なんか、最初は、ほら、面接のとき、話し方とか、チャラい印象だったけど、実は真面目なんじゃないかなって」
「いや……」
「なんか、面接のときもさ、一生懸命悪ぶって見せてる感じだったよね。今、思うと」
「そうっ……すか……」
「研修中の態度も真面目で、働きぶりとかは、とにかく真面目で、挨拶もちゃんと出来てるし、コミュニケーションも取れてて……本当に、トー横通いなんてしてた? うちも人手不足深刻で、このままだとあたしも現場に入らなきゃいけないくらいだから、ぜひ、入ってほしいけど。後は、身元なのよ。名前も住所もわかんないんでしょ?」
「はい。すみません」
「本採用するには……ていうか、今もなんだけどね。必要なのよ。困ったね……うちみたいな業種って、厳しいのよ。逆に」
梶原美波も場違いなテーブルに視線を落とした。
「何とか……します」
「うん……あ、でも、犯罪系は……あ、そっか、悪さ、できないんだもんね。じゃ、よろしくね。あと、本人名義の口座もなんだよね」
梶原美波は、ヤミ太郎が出て行った後も、パイプ椅子に座っている。テーブルから研修報告書を手に取って、心情を表すように首を横に傾けた。
トー横
「すみません。トー横に行きたいんですけど、教えてもらえますか?」
「……え? 新宿……の? こっからだと――
「すみません。トー横ってどっちですか?」
「え? スマホ持ってねえの?」
「すみません。トー横って――
ヤミ太郎は、同年代の若者に訊きながら、トー横にたどり着いていた。
「すみません。トー横ってどれですか?」
「ここ……」
怪訝そうな顔で言われたヤミ太郎は、辺りを見回す。
ビルに囲まれた広場に柵が巡らされ、広々とした空間ができている。その周りを人が行き交っている。正面の大型スクリーンには、ゴジラが映し出されている。行き交う人の半分くらいは、外国人観光客だろうか。
目的を失ったヤミ太郎は、夜の喧騒の中で立ち尽くすしかなかった。
迷路
渋谷にある迷宮のようなビルの廊下をヤミ太郎と梶原美波が歩いてくる。
ヤミ太郎は、ダスターモップを押しながら歩いている。その斜め後ろに、梶原美波がついている。早朝のオフィスビルは静まり返り、ダスターモップが床を滑る音が聞こえている。
「トー横ってなんすか?」
「え? トー横通いしてたんでしょ? そこ右」
ヤミ太郎は、角を右に曲がる。
「だと思うんですけど……思い出せないんですよね。トー横通いしてて、それで、親父に大学行かないでそんなことしてるならって、言われて……」
「でしょ? どんなとことか、何してたとか、覚えてないの? 今度左」
ヤミ太郎は、突き当りを左に曲がる。
「はい……なんで、改造されたかって考えると、自分がトー横通いしてたからって、思うんですけど、じゃあ、トー横って何ってわかんないんす。なんかの店とか、ビルとかだと思ってたんすけど」
「へえ……その階段上がるよ」
ヤミ太郎は、階段を上がる。
「何にも思い出せなくって……」
「うーん……あ、右。あとは、突き当たりまでね。そうなんだ……トー横ってさ――
ヤミ太郎は、梶原美波から、トー横について、一通り聞かされた後、「そこに行ったら、何か自分のこと知ってる人に会えるんじゃないかって、思って行ってみたんですけど……」と、なんの手がかりもなく無駄足だったことを話した。
「なんだ行ったんだ。そっか、ちょっと前なんだろうね。ヤミ太郎くんが行ってたのは、今は、違う場所に集まってるみたいよ。キッズは」
「行き止まりっす」
ヤミ太郎は、ちょうど行き止まりの非常口のドアに、ダスターモップを当てた。
「じゃあ、Uターンして、戻ります。反対側拭いてく」
ヤミ太郎は、向きを変えて歩き出す。一旦途切れたダスターモップが床を滑る音が、再び、廊下に響いた。
渋谷に建つ迷宮のようなビルの防災センターは、狭かった。
「愛(あい)凪(な)は、これ、見て、どこかわかんの?」
梶原美波は、警備員の制服を着た女性に話しかける。愛凪と呼ばれた女性は、制服のベレー帽がよく似合っている。
「わかるよ。ちゃんと」
愛凪は、タイピングしていたノートパソコンから、壁の天井近くに並ぶモニターに視線を移す。一つのモニターには、八つの画像が映り、モニターは、四つあった。
「さすが。でもさ、映画とかであんじゃん。録画した画面に変えられちゃったり、全然違う場所の映像になってたらわかる?」
「あー、わかんないかもね。見てない時にやられたら」
「迷路でしょ?」
梶原美波は、モニターを見上げたまま、隣のヤミ太郎に言った。
「はい。自分が、どこにいるかわかんねっす」
「立体迷路よ」
窮屈な防災センターには、モニターに向かって机が三つ、一列に並べられている。三人並んで座り、ヤミ太郎と梶原美波は休憩をとっている。梶原美波と愛凪と呼ばれた警備員は仲がよいらしく、「この現場は、いつもここで休憩させてもらうの」と梶原美波はヤミ太郎に言っていた。
「案内してくれる人なんていないしね」
「あなたの行き先は、あっちです、こっちですなんて案内なんてないし」
「この先だと思って進んだら行き止まりだったり。着いたと思ったら、行きたい場所と全然違う場所だったり」
「みんな迷うよ。迷わない人なんていないんじゃない?」
「迷ったらさ、戻ってやり直す。何度やったか」
「そっすね」
ヤミ太郎は、数秒おきに画面の切り替わるモニターを見上げていた。
研究所
東京都基礎情報隊黒犬ポーポー三丁目基地トーヨコ五角
ヤミ太郎は、文具売り場の試し書きコーナーの色とりどりの渦巻きたちの上に、重ねて書いてじっと眺めた。そして、研究所、と続けて書いた。
ヤミ太郎は、三色ボールペンを仲間たちのもとに戻して、リサイクルショップで安く買ったベースボールキャップを目深に被り直した。
ヤミ太郎は、地下鉄を降りる。
上り方向に向かってホームを歩く。ホームの端にある階段を上る。階段を上ると左手にある改札を出る。改札を出たら、まっすぐ歩いて、右の方の階段を上る。見上げた先の狭い夜空は、薄ぼんやりと暗いだけで、星は見えなかった。地上に出たら、ぐるっと回って、しばらくまっすぐ歩く。繁華街を離れて静かになってくる。地下から顔を出した首都高を跨ぐ交差点を渡る。ベージュのビル、白いビル、そして、黒いビルが二つ並ぶその間の道を曲がる。その先に、自分が改造を施され、逃げ出した産学協同の研究所があるはずだ。ヤミ太郎は、目深に被ったキャップに触る。歩きながら、もう何度同じ動作をしただろう。
並んだ黒いビルの間の信号のない横断歩道を渡る。
ヤミ太郎は、横断歩道を半分まで渡ったところで、俯いた顔を僅かに横に向けて、通りの奥を覗いた。そして、前に戻しかけた顔をもう一度横に向けて、歩く速度を緩めて、渡りきる前に立ち止まった。
ヤミ太郎は、立ち止まり、もう完全に体を横に向けて、通りの奥を凝視している。
ヤミ太郎の中で、数秒ごとに切り替わるモニターの画像のように、風景が切り替わってしまった。
二つ並んだ黒いビルに挟まれた通りのその先には、研究所の門が待ち構えているはずだった。しかし、そこに研究所の門はなく、ただ、ビルの連なりが続くだけだった。
ヤミ太郎は、止まれの標識の横に立って、ぐるりと辺りを見回した。
ヤミ太郎は、自分の中の画像を頼りに、もう一度地下鉄のホームからやり直す。改札も出口も、首都高を跨ぐ交差点も、ベージュのビル、白いビル……間違いがない。ヤミ太郎の中のどの画像も実際の景色と合っている。研究所から逃げ出したのも夜だった。逃げ出した道を逆に辿ればいい、ただ、それだけのはずだった。
二つの黒いビルの間の細い道が大通りにぶつかる場所に立つ、止まれの標識の横で、振り返って見た、その最後の画像だけが、切り替わってしまったように、合わない。
ヤミ太郎は、黒いビルの間の通りを歩き続けたが、研究所の門には、たどり着くことはなかった。それから、黒いビルを中心に、歩き回った。
「この辺に、そういうのはないね」
歩き回って見つけた四軒目のコンビニで、ようやく日本人の店員に巡り会えたが、深夜のコンビニのレジでお釣りと一緒に返ってきたのは、面倒くさそうな返答だった。
「びっくりした! どうやって入ってきた?」
「ハイブリットなんで……」
ヤミ太郎は、目を丸くする愛凪に、ぶっきらぼうに答えた。
迷宮のようなビルの防災センターは、深夜も変わらず静かだった。
「そのパソコンで、色々調べられるんすよね?」
「え? できるけど、なんで? スマホとか持ってないの?」
「ないっす」
ヤミ太郎は、愛凪をまっすぐに見て答えた。
「まあ、立ってるのもなんだから、おかけください」
愛凪は、隣の机の上に置いてあった制服のベレー帽を取って被り、ヤミ太郎に座るように促した。
ヤミ太郎は、椅子に座りながら、天井の近くに並ぶモニターに目をやった。モニターの画像は、全てモノクロの画像になっていた。
「……うーん。なんか、研究所っていうか、大学の門ぽいな。それ」ヤミ太郎は、自分の中にある研究所の門の画像をできるだけ詳しく愛凪に話し、愛凪は、机の上のパソコンで、あれこれと検索をしてくれている。
「門に名前書いてなかった?」
「画像も夜で、暗くて見えないっす」
「あ、そ」愛凪は、検索をつづけながら、「普通さ、もっと、詳しく事情を話す、とか、突然すみません、とか、梶原さんのお友達なんですか? とか言って、世間話する、とか、するもんだよ」と、さっきから、隣で、自分が検索する様を押し黙って見ているヤミ太郎に言った。
「世間話……そういう機能ないっす」
「……ま……いいけど。困ってんだもんね」
「住民票いるんす」
「住所わかんないの?」
ヤミ太郎は、「東京都基礎情報隊黒犬ポーポー三丁目基地トーヨコ五角」と、平坦に答えた。
「なんじゃそりゃ?」
「オレにとっての住所っす」
愛凪は、ヤミ太郎をまじまじと見て、「住所も改造されてんの?」と言った。
「はい……たぶん」
「その研究所行ったら、なんかわかんの?」
「わかんないっす、けど……それしかないっす……行きたくはない……」
「……東京、大学、理系、門……ん、はいよ」
愛凪は、モニターに、大学の門の画像が並んだノートパソコンを、隣に座るヤミ太郎に向けて机の上を滑らせた。
「え? どうやんすか?」
「はい? パソコンだめ?」
「はい」
「こうやんだよ」
愛凪は、手を伸ばして、トラックパッドの上で二本指を滑らせた。
ヤミ太郎は、ぎこちなく二本指を使って、画面をスクロールさせていく。
「動かなくなったっす」
「指。一本になってんよ」
「あ……」
「美波さんのとこの子だから、特別だよ。貴重な居眠りタイム削ってんだかんね」
ヤミ太郎は、しばらく、スクロールを続けた。
「……あ!」
「あった? どれ?」
ヤミ太郎は、質素で古びたコンクリート製の門の奥に、杉木立が並ぶ画像を指差した。昼間の画像で、アングルも違うが、ヤミ太郎の中にある画像と一致するものだった。
翌日の研修は、半日で終わって、夕方前に着くことができた。
研修は、浅草の浅草寺のすぐそばのビル清掃だった。そこから、二時間ちょっとで着いた。最寄りの駅から歩いてみたが、初めてみる景色ばかりで、ヤミ太郎の中にある画像と一致する風景はなかった。
その大学は、関東平野の終わりの際で、緑と起伏が増え始めるちょうどその端っこにあった。門から真っすぐにキャンパスを貫いて伸びる道は、すぐに上り坂になっている。
ヤミ太郎は、離れた場所から窺っている。
コンクリートがカーブしてせりあがるように作られた門と、今は開いている黒いスライド式の重そうな門扉、その奥に連なる杉並木。確かに、あの門は、ヤミ太郎の中にある画像と一致する。しかし、周りの景色は、あまりに違い過ぎた。周りは、都心のビル街ではなく、住宅街で、門の前は道が横切っている。門の前はバス停になっていて、待っていた学生たちがバスに乗り込んでいく。
やはり、ビルが建ち並ぶ先に、あの門がある画像は、ありえない。
門から、少し離れた市民センターの角の石のベンチに座るヤミ太郎は、何かを振り払うように頭を振った。
ヤミ太郎は、足元のアリたちを見た。
不規則に動いているように見えるアリ同士が仲間と遭って、細かなやり取りをして、また離れる。また不規則な動きをして、仲間と遇って、を繰り返している……
ヤミ太郎は、顔を地面に向けたままで目をつぶる。ゆっくり息を吸い込んで、鼻から短く吐く。目深に被っていたキャップを脱ぐ。そして、何か意を決したように顔を上げ、立ち上がった。
信号が変わると、交差点を渡り、顔を上げて、門へつながる道を真っすぐに歩いてゆく。
ヤミ太郎は、キャンパスに入ると、学生でも、教員や職員らしき人でも、すれ違い行き交う顔をいちいち見ながら、杉並木をゆっくりと歩いた。
ぶつかる視線があっても、自然に逸らされる。不自然にヤミ太郎を見てくる視線もない。
キャンパスの中に建つ校舎は、新しい校舎と古い校舎が混在していた。どれもヤミ太郎にとって見覚えのないものだった。
ゆっくり歩いても、一時間もかからずにキャンパスを回ってしまった。
ガラス張りの学食の前を歩く。学食と言っても広く開放的でショッピングモールのフードコートの様だ。営業時間は過ぎてしまった様で食事をしている学生はいないが、おしゃべりをする学生たち、パソコンを凝視する学生がまばらにいる。
ヤミ太郎は、ガラスの向こうを窺いながら、できるだけゆっくりと歩いた。
ヤミ太郎に気を止めて視線を向ける学生はいない。
敷地の端にある石のベンチに座ると、傾いた陽が色づき始めていた。
ヤミ太郎は、一段下にあるバスのロータリーでバスが円を描くのを見ていた。
視界の端で何かが動きを止めているのを感じて、ヤミ太郎は、視線を向けた。
薄いピンクのYシャツにチノパンのいかにも大学教員と言った感じの男が立ち止まり、ヤミ太郎に視線を向けていた。
加来条一郎
ヤミ太郎は、石のベンチから立ち上がり、チノパンの男に向かって歩き出す。
チノパンの男は、通り過ぎようとした足を止めた半身のまま、ヤミ太郎を観察するように見ている。
「オレのこと……わかりますか?」
ヤミ太郎は、話しかけるには、まだ距離のある位置で足を止め、チノパンの男に尋ねた。
「あ……いや……はい」チノパンの男の視線には、ヤミ太郎を観察する視線に驚きが混じり始めていた。「あの、加来条一郎……さん……いや、ご親族……?」
ヤミ太郎は、一旦チノパンの男から視線を外してから、距離を詰めて、「オレのこと、見たことあるってこと?」と足を止めた。
近づくとチノパンの男のこぎれいな短髪には、大分白髪が混じっているのが分かる。
チノパンの男の視線は、驚きに支配されていた。
「君は……」チノパンの男は、言いかけて、「そっちで」と言って、ヤミ太郎が座っていたベンチを指さした。
ヤミ太郎は、チノパンの男が歩き出すのを待って、背後について歩いた。
チノパンの男は、石のベンチに座り、ヤミ太郎は、夕陽を背にして立ったままでいた。
「君は、私を……私に会いに?」
チノパンの男の視線は、また、観察する視線に戻っていた。
「いえ、あなたは、オレのことが分かるんですか?」
「君は、私の親友にそっくりで……というより、そのものだ。私のことは?」
「……わからない」ヤミ太郎は、首を横に振る。「ここに、自分を探しに来た」
チノパンの男は、ヤミ太郎の背後の夕陽に目を細めながら、ヤミ太郎を見上げた。
ナグル
ヤミ太郎は、警戒を解いていないのか、男とは距離を取って歩いた。
二人は、新しい校舎の研究室に入る。
研究室に来る間に、チノパンの男は、この大学の教員で、名栗恭二だと名乗った。
ヤミ太郎は、名栗恭二に、自分の記憶がなく、この大学の門だけが記憶にあったので、自分を知る人間に会えるかもしれないと思ってきたのだ、と有体に説明した。
名栗恭二の研究室は、壁一面は本を詰め込んだ本棚、その前に、テーブル、奥にはデスクが詰め込まれた、細長い部屋だった。
二人は、テーブルに向かい合って座る。違和感なく、研究室に呼ばれた学生と呼び出した教員に見える。
「加来条一郎という名前に聞き覚えは?」
「いえ」
ヤミ太郎は、静かに首を横に振って答える。
「私の親友に瓜二つなんだ。小学校、中学校と一緒で……」名栗恭二は、テーブルの上で組んだ手を規則的に動かしている。「でも、その……加来条一郎は、二十五年前に亡くなっている」
ヤミ太郎は、規則的に動く名栗恭二の手から、視線を上げて、彼と視線を合わせた。
「記憶がないって言ってたけど、ここの門の他に何か思い出せるものは?」
ヤミ太郎は、少し、考えるように間を開けてから、「住所」と言って、右手でペンを持つ仕草をした。
名栗恭二は、テーブルの上に置かれたボールペンの乗ったレポート用紙をヤミ太郎に向けた。
東京都基礎情報隊黒犬ポーポー三丁目基地トーヨコ五角
ヤミ太郎は、レポート用紙に几帳面な字でそう書いた。
名栗恭二は、その言葉の羅列をじっと見た。そして、大きく息を吸って、吐き「君は……」と言ったが、その後を続けず、ヤミ太郎を見つめた。
ヤミ太郎は、夕陽に目を細めて、名栗恭二を見つめ、「わからない……でも、君はナグルだ」ナにアクセントつけて、彼をナグルと呼んだ。「……君のことを知っている」
LEDの照明の研究室に、窓から夕陽が射しこんで二人の横顔を染めていた。
四十歳
梶原美波は、鳥足のテーブルに肘をついて、ヤミ太郎から渡された住民票に目を落とした。
「え? ちょっと、これ、誰の? 生年月日昭和じゃん。他人のじゃダメなんだけど」
「はい。本当に、オレのです。四十歳です」
「四十歳!? どういうこと? 二十歳って言ってたじゃん。どう見たって二十歳そこそこでしょ?」
梶原美波は、目を剥いてヤミ太郎と住民票を交互に見た。
ヤミ太郎は、自分の中の画像を頼りに行った大学で、自分のことを知る名栗恭二と出会い、名栗恭二の協力で、住民票を取ることが出来たことをかいつまんで説明した。ヤミ太郎は、加来条一郎について、そして、その父親について、もっと詳しく聞かされていたが、梶原美波には、話さなかった。
「なんで?」
「わからない……写真も見せられました。加来条一郎の……確かに、自分でした。戸籍もあって、住民登録? もそのままで」
「トー横通いしてって……」
「はい。あの愛凪さんに言われて、思ったんですけど、記憶も改造されちゃってんのかなって」
「はあ……」
「で、保険証とかも、名栗が取ってくれて、身元保証人にもなってくれるって」
「はあ……いつの間に技術は進歩してんのね。え、サイボーグってどういうこと?」
「ハイブリット……です」
「……ま、いっか。じゃあ、雇用契約書作ろっか」
梶原美波は、テーブルの上に置いていたクリアファイルから書類を取り出した。
雇用契約書を読み上げて一通り説明を終えると、梶原美波は、ヤミ太郎に向けて書類をテーブルに置いて、「ここにサインね」と言った。
「あ、書いてもらっていいですか? オレ、書けないんで」
「ああ、ああ、そっか、そっか」梶原美波は、書類の向きを変える。「加来条一郎ね」
「はい……」
ヤミ太郎は、自信無さげな表情になって、上目遣いに梶原美波を見た。
「なんか、雰囲気変わった? 太郎君……じゃなかった。加来君」
梶原美波は、パイプ椅子に背中を預けて距離を取り、ヤミ太郎の足から顔まで視野に入れて言った。
トーヨコと黒犬たち
殺風景なフローリングの部屋で、ヤミ太郎は、寝転がっている。寝転がって、天井を見上げている。顔の横には、スマートフォンが置いてある。
西日の入る部屋だった。
住んでいる場所を訊かれて、野宿だと答えると、名栗恭二は、収入が安定したら自分で払えばいいと言って、家具付きのマンスリーマンションを契約してくれた。
ヤミ太郎は、起き上がって、身体を傾け、カーテンに手を伸ばした。カーテンが西日を遮って、薄暗くなった部屋で、ヤミ太郎は、しばらく動かなかった。
西日の色が濃くなると、ヤミ太郎は、立ち上がって、簡単で小さな机に向かう。
机の上には、アルバムが一冊あった。
名栗恭二に、「これを見て思い出すんだ」そう言って渡された中学校の卒業アルバムだった。
ヤミ太郎は、机の上に無造作に置かれていたアルバムを几帳面に机の真ん中に置いて、じっと眺めた。そして、アルバムをめくる。
クラス写真のページで、めくる手を止める。
屈託のない笑顔の名栗恭二の二つ上の段に、やはり屈託なく白い歯を見せる加来条一郎の写真があった。
ヤミ太郎は、はじめに、それがアルバムに落ちた音で気が付いた。そして、頬を手で拭い、さらに止まることのないものを味わうと、身体を揺らして嗚咽した。
しばらく続いた嗚咽が収まると、ヤミ太郎は、窓に立ってカーテンを開けた。
夕陽は、ビルの向こうで、赤々と燃えていた。
ヤミ太郎は、不意に響いた耳慣れない音に振り返る。音の出所を探すように、嗚咽の名残を手で拭いながら、簡単な机と椅子しかない狭い部屋を見回す。
ヤミ太郎は、リズミカルな振動音を放つスマートフォンを拾い上げて、じっと画面を見て、慣れない手つきで画面の上で指を滑らせる。
「名栗。ナグルだけど――
ヤミ太郎は、改札に向かって人混みを歩く。
改札の向こうで、ヤミ太郎を見つけた名栗恭二が手を振った。その周りには、名栗恭二と同年代の三人の男たちが見えた。一人は車椅子で、両足とも膝から下がなかった。
「マジか……」
車椅子の男が、ヤミ太郎を見上げて、声を漏らした。
ヤミ太郎が四人の前に立つと、名栗恭二だけは、笑顔で、他の三人は、呆然とヤミ太郎の顔を見た。
二十五年前に葬儀で見送ったはずの友人が、二十五年の時間の経過をすっ飛ばして生き返ったように、そこにいるのだ。
「本当に、ジョーだ……」
ヤミ太郎は、四人の視線を避けて、目を伏せたかったが、そうすると、真ん中にいる車椅子の男と目が合ってしまう。視線を泳がせた後で、脇にそらすしかなかった。
ヤミ太郎は、何も話せない。
名乗ろうとすれば、「ヤミ太郎」としか言えない。自分のことを話そうとすれば、「トー横通いしてて――と話すしかない。今のヤミ太郎にとっては、どちらも適当ではなくなっている。
「ああ……行こう」
名栗恭二は、言いながら、思いを込めるように、三人に視線を配った。
名栗恭二に言われ、視線を受けても、ヤミ太郎を見たまま動けない三人だったが、「よし」と、車椅子の男が言って、車椅子の向きを変えると、ようやく動き出し、改札前の待ち人たちの群れから離れた。
「覚えてるやつ、いた?」
ヤミ太郎は、名栗恭二の問いかけに答えることなく歩き続ける。
「ガタイのいいのが、矢崎龍太郎で、リュウ。車椅子に乗ってるのは、中島源で、ゲンゲン。ノッポの眼鏡は、ノッピで、神戸憲文。小学校時代の五人組だ」
大通りの広い歩道を行く三人の後ろで、名栗恭二は、ヤミ太郎に尋ねた。
「いまのところ、記憶にも、記録にもない……」
「記録ってのは?」
「オレの中には、たぶん、記憶と記録がある。アルバムを見てて、なんとなく。記録は、はっきりとした画像で、記憶は、そんなにはっきりじゃなくて……感情が一緒で。具体的には何も思い出せなかったけど、『知ってる』『懐かしい』って、オレの中の自分が言って、想いが吹き出した」
「そうか……思うに君の記憶はクラッシュしてる。クラッシュしてバラバラになった記憶に、作り物の記憶が混ぜられて、モザイクになってるんだ」
三人と二人の五人は、駅から歩いて、テナントビルに代わって、マンションが増え始めた大通りのマンションとマンションの間の細い道に入る。
「え? ここ?」
「だろ? ほら、マンション建ったから、分かんなくなったんだよ」
「あ、ホントだ」
前の三人がそれぞれ言った。
角を曲がると、景色がふっと開けて公園が現れた。
「ジョー。化け猫公園だ」
リュウが振り返って、ヤミ太郎に言った。
五人は、ブランコや滑り台で遊ぶわけにもいかず、各々ブラブラと公園の中を歩いた。
名栗恭二が促して、ヤミ太郎は名栗恭二とベンチに座った。
「俺たちのホームグラウンド。子供達の間で、化け猫が出るって噂があって」
「公園の隣はさ」ノッピが、ゲンゲンの車椅子を押しながら二人の前にくる。「今はマンションが建ってるけど、昔は、だだっ広い空き地で、ちっちゃいけどクヌギ林もあって、こんな都会なのに、カブトムシもザリガニもカエルもいて」
「不思議なことに小川も流れてて」ゲンゲンが振り返って、マンションの端から漏れる夕陽に目を細める。「池もあって、空き地の上流も下流も暗渠だったんだけど。公園との境には、フェンスも何もなかった。道路との境にはフェンスがあって、まさに子供の楽園だよ。オレもその頃は、まだ、足あったからさ、駆け回ってたよ。大人になって分かったんだけど、地主さんがさ、子供の遊び場のために売らないでいてくれたんだ。今は、その地主さんも亡くなって、十年、もっとかな、マンションになっちゃった。子供達を守ってくれてたんだ」
ゲンゲンは、ヤミ太郎を見て、もう一度「守ってたんだ」と言った。
「今の滑り台って、低いのな」
リュウが、長く伸びた影と一緒に、滑り台から歩いてくる。
「自分がデカくなったんだろ」
ノッピが答える。
「違うよ。絶対。もっと高かった」
「なあ、オレ滑らせてくれよ」
ゲンゲンが隣に来たリュウを見上げる。
「え? 何キロだよ」
「大丈夫。ちょっと支えてくれれば自分で登れるから」
「ケツはまっちゃうんじゃね?」
「イケるって」
ゲンゲンが、先に歩き出していたリュウを追って車椅子の向きを変えて、滑り台に向かう。車椅子が、砂を踏む音がする。
「おいおい。若くないんだぞ」
ノッピは、言いながらもどこか楽しそうに笑っている。
三人を追って、名栗恭二も立ち上がる。
ヤミ太郎が、迷っていると、名栗恭二は、「来いよ」と振り返る。
ゲンゲンは、両脇から、リュウとノッピに尻を支えられながら、膝から下のない脚で、太い腕の腕力も使いながら器用に滑り台の階段を登ってゆく。
「ナグルとジョーで受け止めてくれ」
ゲンゲンは、滑り台の上から、ヤミ太郎と名栗恭二に笑顔を向ける。
「おいおい。待て待て」
名栗恭二は、慌てて、滑り台の降り口に駆け出す。
ヤミ太郎も少し早足になって、降り口に向かい、遠慮するように、名栗恭二の少し後ろに立った。
「そんなに滑んないのあるあるだから。ケツはまったら助けらんないぞ」
名栗恭二は、ニヤニヤしながら言う。
名栗恭二とヤミ太郎が降り口に着くとゲンゲンは、「行くぞー!」と言って、勢いがつくように前傾姿勢で手すりに手を伸ばす。「ちゃんと受け止めろよー!」
ゲンゲンは、両手を引き付けて勢いよく滑り出すと、すぐに後ろにひっくり返って膝から下のない両足を空に向かってV字に上げ、背中で滑った。
想定していなかった体勢とスピードで降りてきたゲンゲンを受け止めきれずに、名栗恭二は、尻餅をついた。
名栗恭二のすぐ後ろにいたヤミ太郎は、降り口から、ほとんど飛ぶようにしてきたゲンゲンを素早い身のこなしで受けとめ、軽々と抱えて持ち上げた。
「なるほど……」
ゲンゲンは、抱えられたまま、ヤミ太郎を見上げて目を丸くした。
車椅子を押してきたリュウと立ち上がった名栗恭二は、ヤミ太郎が、車椅子にゲンゲンを軽々と乗せるのを黙って見ていた。
「そろそろ、いいかもな」
ゲンゲンが、座り直して体制を整えていると、ノッピが腕の時計を見ながら言った。
「暖簾出てる」リュウが指さして言った。
ヤミ太郎は、リュウが指さして、四人が視線を送る先を追って振り返った。
「トーヨコだ」
賃貸マンションの間に建つ、二階建ての小さな店の軒先に下げられた赤い暖簾が風に揺れていた。風がおさまると、暖簾に書かれた「東京横丁」の四文字が見えた。
店の中は、全てが油っぽかった。鉄板があるテーブルとビニールクロスを掛けたテーブル、それから、カウンターがあって、入り口の脇には駄菓子コーナーがあった。
四人がけであろう鉄板のあるテーブルに、五人で座る。椅子は全部丸椅子だ。
「貸切にしといたから」
リュウが四人を見渡して、満足げに言った。
「狭いな」
ヤミ太郎の隣で、名栗恭二は、丸椅子の足を鳴らして位置を調整した。
「昔は、狭いなんて思わなかったな。お前、デカくなりすぎだ」
ノッピは、壁に体をつけて、窮屈そうに隣のリュウを見る。
「オレは小さくなったけどな」
笑って言ったゲンゲンは、テーブルの端に斜めにして車椅子をつけている。
鉄板の上に円いものが五つ並ぶ。お好み焼きに似ているが、お好み焼きのように具が入っている様子はなく、もんじゃ焼きでもない。青のりが入ってくすんだパンケーキの様な見た目だった。
「こうやっておべった焼いてさ、それを五人で鉄板囲んで食うだろ? そうすんと餌にたかってる犬みたいだって言われて」名栗恭二は、自分の前のおべったに駄菓子を振りかけながら言った。
ノッピとリュウは、名栗恭二とゲンゲンが手際よくおべったを裏返すのを眺めている。
「おばちゃんな。今、入院してる。みんな頭が黒いだろ? だから黒犬、黒犬って」ゲンゲンは、裏返したおべったが焼ける様をじっと見ながら言った。
「俺達、黒犬。食ったら思い出すよ」名栗恭二は、おべったに醤油をかけた。
「ほら」ゲンゲンが手を伸ばして、ヤミ太郎の前のおべったをへらで四つに切り分けた。
「ジョーは、お前は、いっつも何もかけないで食ってた」ゲンゲンが、ヤミ太郎をじっと見る。「食ってみ」
ヤミ太郎は、箸でおべったの一切れを口に運んだ。
四人は、ヤミ太郎がおべったを食むのを見守った。
ヤミ太郎は、黙って、ゆっくりと味わった。
「ああ、飲みもんだ」リュウが立って、駄菓子コーナーの隅の冷蔵ショーケースから、缶を五つ持ってくる。「これ、ドクターペッパー。昔は、瓶で、もっとうまかった」
黒犬たちは、うまそうにおべったを食い、ドクターペッパーを呷った。
ヤミ太郎の中にも、ドクターペッパーが染み渡っていった。
基礎情報隊
渋谷の迷宮ビルの防災センターに、愛凪とヤミ太郎がいる。
二人とも押し黙っている。
休憩中なのか、愛凪は、ベレー帽を脱いでいる。ヤミ太郎が座る机には、牛乳パックとドクターペッパーの缶が置いてあった。
「突然すみません」ヤミ太郎は、前を向いたまま、一つ空けて隣に座る愛凪に言った。
愛凪は、驚いて、「何!?」と言って、身体をビクつかせた。
「梶原さんとは、お友だちなんですか?」ヤミ太郎は、前を向いたまま、抑揚なく言った。
「え? 言ったよね。高校の部活の先輩だって。何、何、なんかあたしのことイジリだした? 普通に話しなよ」
「世間話をしてからと思って」
「何? また、なんか頼み事? いいよ。普通に言って」
「これ、使い方、教えて下さい」
ヤミ太郎は、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「へえ、スマホ? 持ったんだ」
「ともだちが、くれて……なんか、使えないっす」
ヤミ太郎は、スマートフォンを両手で、愛凪に差し出した。
「何したいの?」
愛凪は、開いていた隣の机に移動して、スマートフォンを受け取ると、ヤミ太郎に向けて、顔認証でロックを解除した。
「また、調べたいんですけど、インターネスト回線がどうとかって……」
「ネット、ね。インターネット……ああ、ここでダメってこと? ここ地下だから、ワイファイじゃないとつながんないよ。しょうがねえな。特別、内緒だかんね」
「すんません」
ヤミ太郎は、愛凪がスマートフォンを操作するのを横目で見ていた。
「ほい」愛凪は、ヤミ太郎にスマホを返した。「ここでも使えるようにしたから」
「すんません」
ヤミ太郎は、スマートフォンを受け取ると、すぐに検索を始めて、食い入るように画面を見つめ、指で操作した。
愛凪が、のぞき込んだ画面は、陸上自衛隊のページだった。
「自衛隊入んの?」
「……いえ、基礎情報隊……」
「ああ……この間の? なんかそんなこと言ってたか。自衛隊なんだ。もう、でも、住民票取れたんでしょ?」
「……まだ、自分が見つかってないです」
愛凪は、「そっか……たどり着けっといいね」と言って、ヤミ太郎に見守るようなまなざしを向けた。「調べもの、手伝ってやんよ」
愛凪は、机の上でヤミ太郎にも見えるようにスマートフォンを持って、「調べもんの時は、これ……で、ここに……」とやって見せながら検索を始めた。
ヤミ太郎は、愛凪の操作するスマートフォンの画面をじっと見ていた。
「とりあえず、このツアーに行ってみたら? 中にはいれるよ。近いし」
「なんですか? これ」
「防衛省ツアーだって」
「一緒に行こうよ」
「え? なんか、違うような……」
「だって、中央情報局しか分かんないんでしょ?」
「はい」
「中央情報局って、市ヶ谷にあるんでしょ?」
「……基礎情報隊。はい」
「じゃあ、いいじゃん」
「はい……」
「中央情報局に電話して、僕のこと教えて下さいって言っても、教えてくれないでしょ?」
「基礎情報隊です……そりゃあ……」
「シフト……どこに入ってんの?」愛凪は、スマートフォンを見て言った。
ヤミ太郎は、ズボンのポケットに手を突っ込んで、角が取れてしわくちゃになった紙を取り出して広げた。
「紙……!?」
愛凪は、言いながら、胸のポケットから自分のスマートフォンを取り出した。
愛凪は、待ち合わせ場所に、ゆったりして幅のあるジーンズにトレーナーだった。まとめていた長い髪を自由にしてキャップをかぶって現れた。ベレー帽をかぶっている制服姿とは、かなり印象が違った。
ヤミ太郎は、愛凪と同じような服装をしている。昨日、愛凪が「これ着てきてね」と言って持ってきた。だから、正確には、同じような格好をさせられている。
ヤミ太郎は、はじめ、目の前に立って、「お、サイズいいじゃん」と言った愛凪を愛凪だと認識できなかった。
平日昼過ぎの総武線は、空いている。ポツポツと一人分ずつ席が空いている。
ヤミ太郎と愛凪は、車椅子スペースに並んで立っていた。
「梶原さんて、偉いんですか?」
「偉いって、肩書? 部長さんだよ。なんで?」
「いえ。なんか、ずっと、失礼だったかな、って。今思うと」
「大丈夫だよ。そんなこと気にしない人だよ。何個も下のあたしがタメ口でしょ?」
ヤミ太郎が頷くと、愛凪は、「美波さんに興味あんの?」とヤミ太郎を見上げた。
「いえ」
「あの人、仕事一筋だよ。旦那とはラブラブだし。うちと違って……」
駅が近づいて、段階的に減速のGがかかる。
揺られた愛凪は、ヤミ太郎の胸のあたりに手を突く。
「あ、ごめ……」愛凪は、ヤミ太郎の胸に突いた手の感触に、ヤミ太郎を見上げる。「かた……びくともしないじゃん」
「機能っす。ハイブリットの」
ヤミ太郎は、窓の外の流れる景色を見たまま言った。
「つかまってないもんね。なんか、実感……」
愛凪は、揺れる車内で両手をだらりと下げて、いかにも自然に立つヤミ太郎の足の先から顔まで視線でなぞった。
駅に着くと、何人かが席を立って降りて、席が空いた。
「座ろ」
愛凪は、ヤミ太郎のトレーナーの袖を引っ張った。
ヤミ太郎と愛凪は、並んで座った。
ヤミ太郎と愛凪の腕が触れ合う。二人は、腕をそのままに動かさなかった。
「はい! それでは、防衛省市ヶ谷地区見学、市ヶ谷台ツアー開始しまーす! 状況開始!」
広報担当のおそらく事務方と呼ばれる防衛省の職員のようだ。自衛隊の隊員には見えないが、その女性職員は、ヤミ太郎と愛凪を入れて十五人ほどのツアー参加者を前に、にこやかに、そして、ハキハキと言って敬礼をした。
天気もよく、広い青空の下、都心とは思えない開けた景色が広がっている。
広報担当は、施設の概要や歴史の説明をしながら歩いていく。その後ろに、ツアー参加者が続く。ツアー参加者は、ほとんどが男で、いかにもと言った感じの迷彩柄の服や帽子といったものを身に着けている者が多く、迷彩柄のバンダナを身に着けている男は二人いた。似たような恰好をしている者同士であっても、別々に来ているらしく、会話はない。
儀仗広場からスタートしたツアーは、広い敷地に聳える庁舎の前を進む。
「はい。これが、市ヶ谷台で一番大きい庁舎A棟でーす。秘密がいっぱい詰まってますよー」
広報担当は、いたずらっぽく言って、顔をクシャっとさせ、建物の様式のことなどの説明を始めた。
愛凪は、説明には、あまり興味が無いようで、「広っ」とか「でか」とか「へえ」とか、いいながらヤミ太郎と並んで列に従って歩く。
ヤミ太郎は、となりの愛凪には、反応せず、ゆっくり首を左右に動かして建物や景色を観察しているようだった。
ゆっくり歩く二人は、列の最後尾になっていた。
「どう? なんか覚えてた?」
「いや……でも、なんか、ここに来たら、感覚が鋭くなったっていうか……いろいろ、聞こえて、見えて……」
「え?」愛凪は、立ち止まって、手をそれぞれ胸と太ももの間においてヤミ太郎を見た。「見えてるとか?」
「いえ」
ヤミ太郎は、愛凪を一瞥して、歩き出す。
「なら、よし」
愛凪もポーズを解いて、ヤミ太郎に続いて歩きだす。
庭園のような場所で、先頭の広報担当が立ち止まり、緑に埋もれかけておかれている灯篭の説明を始める。列は、縮んでくずれ、広報担当の周りに参加者が集まる。
愛凪は、その端で立ち止まったが、ヤミ太郎は、構わずに歩き続ける。
愛凪は、自分の横を通り過ぎるヤミ太郎を目で追い声をかけようとする。
「あ、すみません」
愛凪が、声をかけるよりも早く、愛凪の後ろから声がした
愛凪は、一瞬ギョッとして、ヤミ太郎の腕に向けて伸ばした腕を止めた。
制服姿の自衛隊員と思われる男が、ヤミ太郎を呼び止め、ヤミ太郎の肩に手を伸ばす。
肩に手を置かれたヤミ太郎は、驚いた様子もなく、足を止めて首だけで振り返った。
「ツアー……なんで」隊員は、にこやかに言って何かを確かめるように、肩に手を置いたままにしている。
「はい……」
ヤミ太郎は、素直に体の向きを変えた。
隊員は、体脂肪率の低そうな精悍な笑顔で、ヤミ太郎の肩に置いた手を下し、歩き去っていく。
「いつの間にいたの? あの人」
愛凪は、歩き去ってゆく隊員の後ろ姿を見送りながらヤミ太郎に言った。
五月のだいぶ暖かい日だったが、去ってゆく隊員の制服は、未だ冬服だった。
「割と最初の方」
ヤミ太郎が答えると、愛凪は、眉を上げた。
ツアーは、大本営地下壕跡を出て、儀仗広場に戻って来ていた。
「それでは、皆様、このツアーも終わりが近づいてまいりました。最後は、Jキャラの陸ジンくんのお見送りでーす! 広報の隊員が言って、ツアー客の後方の草むらに向かって手を伸ばす。「陸ジンくーん!」
ツアー客が、振り返ると草むらが動いた。
草むらに紛れていたそれは、くまなく全身から草の生えた人型の草の塊だった。スナイパーが身につけるギリースーツを模しているようだが、「うわー、草モジャお化け」と愛凪が、ぶっきらぼうに言った言葉が似合っていた。
陸ジンくんは、ツアー客の前で、軽快なステップを踏んで踊り出す。ロボットのような動きのダンスの合間に宙返りをしたり、アクロバティックな動きが加わると、ツアー客の中から歓声が上がる。
「すっご。ロボットみたい」
陸ジンくんが連続の後方宙返りを決めて、一際大きな歓声が上がった。
「ロボット……ですね」
ヤミ太郎の声は、歓声に紛れた。
陸ジンくんに、上げた手を正確に左右に振られて見送られ、ツアーが終わり、二人は、他の客と一緒に正門に向かって歩いた。会話のなかった客同士もツアー中にやり取りがあったのか、感想を言い合う声が聞こえていた。
「どうだった?」愛凪がヤミ太郎の顔を覗き込んだ。
「全員おかしかったですよ」ヤミ太郎は、ぶっきらぼうに答えた。
「え? 何?」
ヤミ太郎が先に足を止めて、愛凪も足を止める。
「おい」
足を止めた二人が振り返って見ると、車いすに乗ったゲンゲンが近づいてきていた。
ゲンゲン
防衛省の正門の前の広くなっている歩道で、三人は話し始める。
「好きでさ、よく来るんだ。展示室とかは入れるから。ツアーだった?」
ゲンゲンが尋ねて、ヤミ太郎が頷く。
「こんにちは」愛凪がヤミ太郎の隣でゲンゲンに挨拶をする。
「こんにちは」と挨拶をして、「彼女?」とゲンゲンは続けて訊いた。
愛凪は、「いや……」と言ったまま、答えに困っているようなヤミ太郎を横目で見て「職場の、なんていうか、仲間です」とゲンゲンに答えた。
ゲンゲンは、一瞬、愛凪の左手に視線をやってから、「そう……僕は、幼馴染の中島。元自衛隊員で、除隊した後は、アメリカの民間軍事会社に入ってアフガンに行ってて……」と言って、愛凪の顔を窺って「ああ、そういうの好きなわけじゃなないんだ……じゃあ。また、集まろう。ナグルに言っとくから」とヤミ太郎を見上げた。
ヤミ太郎は、頷いて、向きを変えて歩き出し、愛凪も続いた。
ゲンゲンは、何か会話をしながら並んで歩く二人の背中をしばし見送った後、二人とは反対に向きを変えて車椅子を漕ぎだす。
「で、こいつは?」
「ホストで、女に金突っ込ませて、金がなくなったら、例の公園の脇に立たせて、オヤジたちの相手させて、で、稼ぎが少ないからってAVに売って、その女が、やめるって言ったら、薬やらせて、そんで自殺したって。これで、二人目だって。あるあるっす」
「合格」
ゲンゲンの前には、ガムテープで上半身と両足を椅子に固定され、目隠しをされた派手なスーツ姿の男がいる。
「しかし、いつもよく見つけてくるね」
「簡単だよ。街で、適当にチャラい奴に声かけて話したら、二人に一人はヒット。いくらでもいるよ。逆に、こんなんで金もらっていいの? って感じ」
「そうか……街はゴミだらけだな……掃除も大変だ……」
廃業したラブホテルの一室。室内は荒らされ、壁は落書きで埋め尽くされ、空き缶やペットボトル、酒の空瓶、弁当トレーが散乱する中には、注射器もあった。
ゲンゲンは、車椅子の後ろにつけたバッグから、顔をすっぽりと覆うフェイスマスクを取り出して被る。
「そっちの彼女は?」
派手なスーツの男の隣には、椅子に座らされた若い女がいた。両手両足を結束バンドで縛られ、男と同じように黒い目隠しをされている。
「なんか、男の取り合いかなんかで、仲間と女ボコって死なせちゃって山に捨てたらしいっす。うちのメンバーが見っけてきました。いいんすよね? メンバーがみっけても」
「もちろん。目隠し取ってやって。それから、女は、繋いで、いつもみたく」
若い男は、ゲンゲンに言われて、女の目隠しを取る。それから、手足の結束バンドを切って、代わりに両足に足かせをつけて、鎖でゲンゲンの車いすに繋いだ。女は、身体をびくびくとさせていた。
鎖でつながれた女の見開かれた眼が、薄暗い室内を見回す。
天井に近いところの横に細長い窓から、夜の光が射して、汚れた部屋は白く薄暗かった。
「ごめんなさい……」女は、ゲンゲンを見て震えながら言った。
ゲンゲンは、女を一瞥したが何も言わない。
「あんがと。終わったら呼ぶから」
ゲンゲンに言われた若い男は、ドアを開けて出ていった。
「さて、始めるかな」
「おい!」派手なスーツの男が、目隠しをされたままゲンゲンに言った。「俺が、どこの店の人間か分かってんのか?」
「知らない」
「ヤクザだってビビッて手出さねえんだ」
「ヤクザが弱るとその隙間に、また、こんな奴らが湧く。キリがない。どうすりゃいい?」
「エスだ。エスの柿本さんの店だぞ」
ドアの開く音がする。
空いたドアから、若い男が室内を窺うように顔を出す。さっき出て行った若い男ではない。
「使用中だ」ゲンゲンが、抑揚なく言った。
「助けて!」女が男を見て叫ぶ。
「おい! 俺はエスの柿本さんの店のもんだ! 助けろ! 金やるぞ!」
ドアから覗いた顔は、すぐに引っ込んで、ドアは閉じられた。
「ここはね。お互い関わらない。干渉しない。たとえ、死体が転がってたって、ああ、使用中だって、ドアを閉めて隣に行くだけさ」ゲンゲンは、車椅子の後ろに手を回して何かを取り出す。「それからね。こういう状況で、下手なことをいうもんじゃない。そんなことを言って脅したら、殺されちゃうよ」ゲンゲンは、派手なスーツの男をじっと見つめて、言ったことが沁み込むのを待つように間を取る。「だって、そうだろ? じゃあ、殺して口を塞いじゃえばいいんだって……君が姿を消したからって、探してくれるのかい? 何があったか調べようとしてくれるのかい? その何とかいう人は」
派手なスーツの男は、じっと黙っている。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」女は、小声で、ずっと唱えるように言いながら、椅子に固定されたまま小刻みに震えている。
「心配ないから、黙ってくれ。耳障りだ。僕は、女性には手を上げない。ただ、反省はしてもらうよ」ゲンゲンは、女に向かって言った。
「悪かった……俺も反省する。あの女のなんかか? 悪かったけど……あいつが、稼ぎたいっていうから、紹介しただけだ……」
「本当に、バカにはうんざりだな。僕は、その女のことは知らない」
「じゃあ……」
ゲンゲンは、右手を前に差し出す。手に持っているのは、だらんとしてつま先の方が膨らんだ分厚い生地の靴下だ。
「掃除だよ。僕がしたいのは、掃除だ」
ゲンゲンは、砂が詰め込まれた靴下を振りかぶった。
激しい衝撃が頭部を襲う。置いていかれた視界がぶれる。頭の芯が激しい痛みに襲われる。意識が遠のく。水をかけられる。その繰り返しだった。
もう、両足の感覚はなかった。
アラビア語に英語が混じった言葉でののしられる。
椅子に座らされて、縛られている。
ゲンゲンは、重機関銃の掃射を食らってちぎれた足を見る。焼かれているから、血は止まっている。そうでなければ、出血で死んでいる。
ゲンゲンには、なんで、生かしたまま、自分が連れてこられたのか、よく分かっていた。情報を聞き出すためなんかじゃない。民間軍事会社の戦闘員が有益な情報など持っているはずもない。人質にする価値もない。入れ替わり立ち替わり自分を痛ぶっている連中は、そんなことは百も承知で、死にぞこないを捕まえて帰ってきている。いたぶりたいのだ。
いたぶって、殴り殺しを楽しみたいのだ。
「痛いか?」
ゲンゲンの前の派手なスーツの男は、顔のあちこちが腫れあがり、口や鼻から血を流している。焦点が合わない視線を泳がせた後、意識を失った様で、首が垂れる。
「水」
ゲンゲンに言われた女は、ペットボトルの水を派手なスーツの男の頭に注ぐ。
女は、椅子からは自由になっていたが、両足には、足かせが付けられていて、鎖はゲンゲンの車いすに繋がれていた。
女が唱える言葉は、「死んじゃいます……死んじゃいます」に変わっていた。
「違うだろ。もう一度だ。ロックは死んだって言うんだ」ゲンゲンは、感情を抑えて女に言った。
「ロ、ロックは……」
「言えよ!」
「わかんない! わかんない!」
「死んだ! ロックは死んだ!」
「ロックは、死んだ……」
「そうだ。ロックは、死んだ……俺の一番嫌いな言葉だよ。お前の中で死んだ。俺の中では、生きてる。俺が死んでも、誰かの中で生き続けるんだ。生き続けるんだよ! 俺が一番嫌いなことを言われた。だから、殴る」
ゲンゲンは、赤く染まった靴下を振りかぶる。
激痛と共に視界が真っ白になって意識が飛ぶ。水をかけられ、意識が戻り、また激痛に襲われる。
髪をつかまれて頭を上げさせられる。天上の照明がまぶしい。それだけで意識が遠のく。
その日の数時間前の光景がよみがえる。
四輪駆動車の車列が、中東の砂の街を駆け抜ける。車間は狭く、建物の間の狭い道を進むには、速度は速すぎる。
先頭の車両には、緊張したお面持ちの男が三人。三人ともM4ライフルを持ち、ボディアーマーを身に着けているが、ボディアーマーの下の服装は、三人ともバラバラだ。軍人ではなく、民間軍事会社の戦闘員だ。人種もバラバラで、運転手は白人、助手席は黒人、後部座席には、日本人のゲンゲンが座っている。ゲンゲンは、髭を蓄えている。
舗装されていない道に、車は揺さぶられる。
運転席の男が、街の様子がおかしい、人がいない、と言った、次の瞬間、後続の車が爆発で吹き飛んだ。
「RPG!」
後ろを振り向いたゲンゲンが叫ぶ。
前に向き直ったゲンゲンが見たのは、五十メートル先のわき道から飛び出してきた荷台に重機関銃を積んだトラックだった。
ゲンゲンたちの乗った四輪駆動車は、フロントサスを沈ませ、つんのめりそうになって止まろとする。ゲンゲンの体は、跳ね上げられたように浮いて天井にぶつかる。
運転手の男は、思い切りブレーキペダルを踏みつけただろうし、助手席の男は、ライフルを構えようとしていたはずだ。もしかしたら、身を伏せようとしていたかもしれない。だが、どちらも間に合わなかったし、無駄なことだった。
重機関銃の掃射を受ける。
フロントガラスは、一瞬で砕け散り、運転席と助手席の二人が掃射を浴びて飛ばした血しぶきが見えた。
重機関銃が後続の車に向けて掃射を始める中、動力を失って、ノロノロと進む四輪駆動車の後部座席のドアから、両足の膝から下を失ったゲンゲンが転がり落ちる。
ゲンゲンは、腰のバッグから止血用のベルトを取り出して、両の太ももの付け根をきつく縛った。
仰向けになって見えた青い空、吹き飛んだ二代目の後ろに続く車列も掃射を受ける音、ノロノロと進むタイヤが砂を踏む音も、四輪駆動車が爆発して、意識と一緒に消えた。
「血が……血がすごいです……」
女は、派手なスーツの男の鼻や口、耳から血を流す顔を見ることはできず、カーペットに広がる赤い染みを見て言った。
「心配ない。これくらいの出血では死なないんだ。もっと、沢山血が出ただろ? お前がやった時はどうだった?」女が答えずに震えていると「どうだった! 答えろ!」とゲンゲンは叫んだ。
女は、短くヒィと悲鳴を上げて身を縮めてから「な、殴ったら。倒れて……動かなくなって……」
「そうか……それで、自分だけ生きようとしたんだな? 自分だけ生きようとしたのか! お前も、自分だけ生きようとした!」
ゲンゲンが、思い切り振りかぶって、項垂れる男の後頭部めがけて、赤く染まった靴下を振り下ろした。
鈍い音がして、男の項垂れた頭がさらに落ちた。もう男は、ぴくりとも動かなくなっていた。
「お前もだ!」ゲンゲンは、構わずに砂の入った靴下で男の頭を殴り続ける。「お前も自分だけ生きようとした! 自分だけ! 自分だけ! 自分だけ! 自分だけ! 自分だけ! 自分だけ! 自分だけえええええ! ああああああああ!」ゲンゲンが、最後に放ったのは、言葉にならない叫びだった。
ゲンゲンが捕えられていた場所に、テロリストの幹部がいた。特殊部隊の急襲を受けて、ゲンゲンは、偶然助けられた。軍用の大型ヘリの床に寝かされたゲンゲンの首は、ヘリの揺れに合わせてグラグラと揺れた。
男の頭は、彼の胸の前で、ゲンゲンに殴られるたびにグラグラと揺れていた。
女は、すでに立っていることが出来ずに、赤く染まった床に座り込んでいた。
「終わったよ」
ゲンゲンが落ち着き払った声で言って、スマートフォンをしまう。
どこか別の部屋で待っていたのだろうか、若い男は、すぐに部屋にやって来た。
「うわ……これ、死んでる?」
若い男は、ぶら下がっているような頭部を見て言った。
「訊いてみなよ。自分が死んだ気分はどうだ? って」ゲンゲンは、目を細めている彼に言ってから、息を吐いた。「すまない。部屋を一つつぶした。長期間使用中になるね。その分も払うよ」
「ああ、塞いどくよ……女は?」
「好きにしなよ。十分反省したみたいだよ」
女は、座り込んだまま、ずっと口の中で「ごめんなさい」を繰り返していた。
ゲンゲンが、車椅子の向きを変えると、タイヤがこぼれた砂を踏む音がした
心
ヤミ太郎は、防災センターのドアをノックする。
重いドアの向こうから、微かに返事が聞こえる。
ヤミ太郎がドアを開けると、愛凪が、わずかに顔を背けたように見えた。
愛凪は、大きなマスクをして、左眼に眼帯をしていた。
ヤミ太郎は、黙って、いつものように机の上に一リットルパックの牛乳を置いて、椅子に座る。
愛凪も黙っていた。
ヤミ太郎は、牛乳を流し込み、喉を鳴らす。
愛凪は、机の上のパソコンの画面を見つめている。
ヤミ太郎は、牛乳パックを机に置く。
「こういう場合……なんて言えばいいんですか?」
「どういう……場合?」
愛凪は、パソコンの画面を見つめながら、マスクのせいか、喋りにくそうに小さな声で言った。
「心配な、場合です」
「何が?」
「マスクして、その眼帯? ですか? して……」
「ああ、疲れてんのかな? 風邪引いたのと、ものもらい」
「風邪?」
「風邪とものもらい。どっちもウイルスだから。見えないけど、感染るよ」
「そうなんですか……」
「ジョウ君でも、見えないでしょ? ウイルス。見えないけど、あるから」
「……嘘ついてます。たぶん」
「嘘じゃないよ。あるよ」
「そこじゃなくて……」
しばらく二人とも黙って、狭い防災センターの中で、空調の音が露わになった。
「心配してくれてるんだ? ありがと……感染ると、あれ……だから……あんまり……」
愛凪は、声を震わせて、下を向いた。
愛凪の制服の膝に、涙が落ちる。
「隣、行きます」ヤミ太郎は、愛凪の隣の椅子に移る。「なんか、あったんですね」ヤミ太郎は、椅子に座り前を向いたままで、愛凪に言った。
愛凪は、答えない。次々に溢れる涙を手で拭っている。
ヤミ太郎は、愛凪に向き直って、マスクと眼帯をそっと取る。
愛凪は、小さく、「ダメ」と言って、顔を背ける。
「ちゃんと、見せてください」
愛凪は、顔を背けたが、ヤミ太郎は、椅子を回して、愛凪の顔を覗き込んだ。
愛凪の左目の周りと左頬には、赤黒く痣ができていた。
「旦那にやられちゃった……」
「なんで……許せないです」
ヤミ太郎の掴んでいる椅子が、軋む音を立てる。
「ダメ。殴られるには理由がある。この間の休みの日のこと問い詰められて……」
「だからって……それでも、許せない」
軋む音は、樹脂が割れる音に変わる。
「ダメ! 絶対ダメ! もう、終わりにしたから。もう、手出しちゃってるから、すんなりだったよ。さっさと出てった。ちゃんと離婚したから……辛い想いを増やしたくないよ……」
愛凪の何もない左手がヤミ太郎の腕を抑えた。
「ごめんなさい……俺が……」
「もう、とっくに夫婦じゃなかったんだ。なのに……ズルズルしてて、いいきっかけだった。もう、切れてんだからって、ちょっと、調子に乗っちゃった私も悪かった」
「悪い事なんてしてないです。何でもないんだから」
「そうだね……きっと、誰も悪くないよ」
愛凪は、額をヤミ太郎の胸につける。
「ごめんなさい。そういう機能ないっす。どうしていいか、わかんない」
「心が嬉しいんだよ。このままでいい」
「はい」
「見えないけど、あるから、ちゃんと伝わってる」
ヤミ太郎は、椅子から離した手を愛凪の肩に、そっと置いた。
三丁目基地
屋敷と言っていい家だった。
敷地を囲む塀には屋根があり、塀の土台には、石組があった。
高い塀の向こうには、手入れされた庭の木が見える。名栗恭二は、「庭でエアガンの撃ち合いしたり、ラジコン走らせたりした、あの頃のままだよ」と言っていた。
「ゲンゲンたちも来れたら良かったんだけどな」
「ゲンゲンには、会ったよ。この間」
「そうか……ああ、言ってたかも」
ヤミ太郎と愛凪は、並んで、名栗恭二の後をついて、塀に沿って歩いている。
角を曲がって、屋根のある塀が見えた時に、名栗恭二は振り返って、ヤミ太郎に、「あれ、覚えてるか?」と訊いたが、ヤミ太郎に反応はなかった。
側面を歩いていたようで、塀に沿って角を曲がると、先に門が見えてくる。
「時代劇チックじゃない? ジョウ君の家って、殿様?」
愛凪は、もう、マスクも眼帯もしていない。晴れやかな顔で、ヤミ太郎と手をつなぎそうな距離感で、並んで歩いている。
「実際、大名屋敷の跡だったらしいよ。三代前まで財閥だったんだ」前を行く名栗恭二が言った。
三人は、門の前に立った。
瓦屋根が乗った堂々とした門だ。
愛凪は、「すご」と言った後に「え? 住んでないの?」と続けた。
確かに、表札が収まるべきスペースに何もない他は、「住んでいる」と言われても違和感がなかった。
「はずなんだけど、にしては、きれい過ぎる」名栗恭二は、合わせ扉の門のわずかな隙間から、敷地の中を覗く。「あ」
名栗恭二は、何かを見つけたように、門の隙間から敷地の中を眺めた後で、「やっぱり、手入れされてるんだよ。この間来たときは、もう少し草が生えてたけど、今は、奇麗になってる」
「へえ」じっと門の威容を眺めて反応のないヤミ太郎の隣の愛凪が、敷石を一段上がって、名栗恭二と交代して、隙間を覗いた。「わあ……」
「あの」
「わあ!」
背後から声をかけられた名栗恭二と愛凪は、驚いて身をすくめた。ヤミ太郎は、声をかけられるのと同時くらいに振り向いていた。
「ああ、すみません……」
胸に会社のロゴマークらしきものと柳澤と名前の刺繍が入った作業着を着ているが、中はYシャツにネクタイ、下はスラックス姿の男が様子を窺うようにして立っていた。
「あ、怪しいものではないんです。あまりに立派なもので、つい……」
名栗恭二がすぐに言った。
「ああ、その、わたくし、このお屋敷の管理を任されている会社のものなのですが、ご依頼主様からの依頼で……人違いであれば、申し訳ないのですが、お名前をお聞かせいただけますか?」作業着の男は、言いながら、上着の内ポケットから名刺入れを取り出して、慣れた手つきで名刺を差し出した。
名栗恭二は、名刺を受け取ると「私は、名栗と言います。それから、加来――」
「ああ、加来様。加来条一郎様でお間違えありませんか?」
「ええ、彼は、はい」
「よかった。ご依頼主様から、こちらを加来様にお渡しするようにと」
ヤミ太郎は、受け取った鍵をまじまじと眺めている。渡された鍵は二つ、一つは門の通用口、もう一つは屋敷の玄関の鍵らしい。
作業着の男は、依頼主のことは言えない、そのカギは渡したままでいいと言われていると言い残して去っていった。
「どういうこと?」
「私は、記憶を頼りに、一度来てみて、それから、ジョーに連絡した。それだけで、他の人には言ってない」
「私も、ジョウ君に付き合って欲しいとこがあるとしか、聞いてないよ」
名栗恭二と愛凪は、答えを促すように、ヤミ太郎を見た。
「俺は……言う人がいない」
「こわいんだけど……依頼主って? ジョウ君のお父さん?」
「いや、加来教授は、亡くなっている」
「え?」
愛凪は、鍵を持つヤミ太郎の手から顔をあげて、名栗恭二を見てから、ヤミ太郎を見た。
「もう、聞いてた」
「そう……なんだ」
三人は、相談というには、簡単すぎるやり取りを交わした後で、門の通用口を開けた。
通用口の扉は、軋む音もなく開いた。
門から伸びる敷石の列が行きついた先には、以外にもコンクリート製で、L字に建てられた四角い建物が待っていた。手入れが行き届いている庭には、白っぽい砂利が敷かれ、苔むした石、庭木があるが、中程に、全体の調和を乱すように楢の木が一本あった。
「本当に、そのままだ。三丁目基地だよ」
名栗恭二は、二階建ての四角い建物を見て言った。
「ジョウ君の家?」
愛凪は、最後に通用口をくぐって愛凪に並んだヤミ太郎を見上げる。
「思い出さないか? 子供にしてみたら基地に見えたんだ。俺たち、宇宙怪獣から地球を守らなきゃいけなかったから」
名栗恭二は、笑みを浮かべながら言った。
「ここは……」
風が吹いて、庭に影を落とす大きな楢の木が揺れて、家を見上げるヤミ太郎の頭上で無数の葉が騒いた。
何もない部屋
ヤミ太郎は、楢の木を見上げる名栗恭二と愛凪を置いて、玄関に進んだ。そして、玄関の前で、短く鼻から息を吸った。そして、鍵を鍵穴に差し込んだ。
ヤミ太郎は、家の匂いを感じていた。埃くささやカビ臭さではなく、その家が持つ匂い。
その後ろで、ドアが開いて名栗恭二と愛凪が続いて入ってくる。それに促されるように、ヤミ太郎は、靴を脱いで前進を再開する。
突き当たりに階段の見える廊下の壁の片側は、本棚になっていて本が詰め込まれている。反対側のガラスが嵌め込まれたドアを開けると、広いリビングが待っていた。庭に面した窓のカーテンの隙間から、光が漏れている。
白い布がかけられた、おそらく広いリビングに合わせた一人がけと三人がけのソファと長いテーブルだろう。家具は他になく、やや色の褪せたカーペットが広がる。
ヤミ太郎は、カーペットを踏んで進む。壁の飾り棚に、白布を掛けられた何かが置かれている。
ヤミ太郎は、白布を両手で取り去る。
足を踏み出し、翼を広げるサモトラケのニケの小さなレプリカが現れる。
頭部と両腕を失われたが故に、見る者の力を求めるその像に、ヤミ太郎は、暫し、惹きつけられた。「君の部屋は二階だった」と、名栗恭二に声をかけられるまで。
ヤミ太郎は、リビングの奥のドアに進んだ。
ドアは開いていて、キッチンとダイニングが見えた。テーブルと椅子には、やはり白布が掛けられている。食器棚には、わずかに食器があった。ガスレンジも冷蔵庫も無いが、キッチンのステンレスは、くすんでいない。
ヤミ太郎は、さらに奥に進み階段を上る。玄関から見えていた階段とは違う階段だ。L字になった二階の廊下の角に出て、短い方の廊下を進みで、突き当たりのドアに手をかける。
何も無い部屋だった。
リビングほどではないが、十分に広い部屋だった。リビングやキッチンは、主人の帰りを待つように、家具が残されていたが、この部屋には、何も置かれていない。
ヤミ太郎は、薄い緑色のカーペットに踏み出して、窓に向かって進む。
名栗恭二も愛凪も黙って、何も無い部屋を見回した。
ヤミ太郎は、部屋の中程に進んだが、カーテンで光が制限された部屋の床に、何かを見つけて足を止めた。
部屋の中程に、結ぶと長方形になる四つの窪みとそれよりも狭い正方形になる四つの窪みがあった。何かが置かれていた跡だ。
カーテンの隙間から射す細い光が、カーペットの窪みを陰にして浮き上がらせていた。
「ここに、君はいたんだ」
名栗恭二が、逆光で影になっているヤミ太郎の背中に言った。
推論
三人は、何も無い部屋のちょうど真下の部屋に来ている。
書斎と応接室を兼ねていたようで、窓を背にした大きな机とソファとテーブルのセットらしきものが、白布に覆われてあった。一面の壁は本棚だったが、ところどころに、数冊ずつが端に寄せられているだけで、殆ど空だった。
「ここは、書斎だね。君の父親、加来教授の部屋だ」名栗恭二は、言いながら、部屋の奥へと進み、窓のブラインドを開けて光を入れた。「何か、手掛かりがあるかもしれない」
「大丈夫?」愛凪は、本棚を眺めて反応のないヤミ太郎の袖を引っ張って言い直す。「ジョウ君、大丈夫?」
ヤミ太郎は、隣の愛凪に、黙って頷いて答えた。
名栗恭二は、机にかかっていた白布を半分開けて、椅子に座り、引き出しを開けていた。
「いいの……?」
愛凪は、ヤミ太郎の横で、名栗恭二が次々に引き出しを開けるのを心配そうに眺めた。
名栗恭二は、脇の引き出しを開けた手を止めて、引き出しから何かを拾い上げた。
「これは……」
引き出しから拾い上げたノートをめくって目を通していた名栗恭二は、手を止めて声を漏らした。そして、促すような視線をヤミ太郎に送った。
それは、他のページの文字よりも大きく丁寧な文字で、一ページを使って書かれていた。
眠れる条一郎へ
過去は未来のためにあり、未来は過去の中にある
そして、現在にいる君は、あらゆる過去と未来が存在し、時間のない混沌を前にしている
君の心が、その混沌に触れた途端に、時が与えられ、君の心の形になって、君の後方へ過去となって過ぎてゆくだろう
君の心はどうあるべきか?
しかし、形にとらわれることはない
後方を振り返った時、形と意味とを知るだろうから
全く自由な君を取り戻せ
新たな地平を目指す君であれ
名栗恭二は、机の向かいに立つヤミ太郎に向けていたノートから、視線を上げて、「これは、君へ宛てたメッセージであり、加来教授の祈りでもあったと思う。君の目覚めを願っていた」そう言って、ノートを自分に向け直してから続ける。「これは、私の推論だけど、二十五年前に、君が事故に遭ったのは、事実だ。交通事故と聞いていたが、違ったかもしれない。でも、何かで重傷を負ったことは間違いがないと思う。そして、おそらくは、一命を取り留めた。でも、葬儀は行われて、君は亡くなったことにされた。どの段階で、かは、わからないが、加来教授の研究は成功した。そして、次の段階の技術が追いつくのを待ったんだ」
「え、と。どゆこと?」
ヤミ太郎の隣で、愛凪が言った。
「加来教授は、人工冬眠の研究をしていたんだ」
「人工冬眠?」
「そう。最近になって発見されたと発表されたQニューロンをすでに発見していたんだ。おそらく」
「キュー……?」
「冬眠に関わる神経細胞だよ。その細胞を活性化させると、冬眠状態に促される」
「ジョウ君は、あの部屋で冬眠してたってこと?」
「そう。一命は取り留めたものの、おそらくは、あとは死を待つだけだったか、もしくは、植物状態のようだったか……冬眠で、他の技術が追い付くまでの時間を稼いだんだ。加来教授の大学は、サイボーグ研究の先端を行っている。私の専門はAIだから、わかるんだけど、おそらく、量子プロセッサーやAI……加来教授の発想に、技術が追いついた。それで、君は目覚めた」
「でも、亡くなってるんでしょう? お父さん」
「ああ」
名栗恭二は、ヤミ太郎の胸の辺りにおいていた視線を上げて、ヤミ太郎を見上げた。
ヤミ太郎は、黙って、机の上に広げられたノートに視線を落としている。
「でも、どういうこと? ここは? 今は誰の家? なんで、私たちを……」
「それは、わからない」
「あの木は楢の木で、カブトムシが来るようにって、みんなでわがまま言って植えてもらった」ヤミ太郎は、唐突に言って、ブラインドが開けられた窓の外を見ている。「真実を知りたい……力を貸してほしい」
ヤミ太郎は、名栗恭二に真っ直ぐ眼差しを向けた。
解析
防災センターのドアが開いて、私服姿の愛凪が出てくる。艶のあるベージュに染められた髪に、ベレー帽の跡が残っている。
「お待たせ」
愛凪は、ドアの前に立っていたヤミ太郎に少し驚いた様子を見せた。
「この間は、ごめん」
ヤミ太郎も私服姿で、愛凪を出迎える。
「ん? 何?」
「付き合ってもらって」
「ううん。大丈夫」
「ごめん」
「そんなに謝んなくていいよ」
ヤミ太郎は、うつむいて、愛凪の白いスニーカーに視線を落として黙った。
「自分が分かんなくて……でも……」
「でも?」
「少しずつ思い出してる」
「名栗さんの大学行くんでしょ? 一緒に行くよ」愛凪は、俯くヤミ太郎を覗き込んで言った。
「いや。これ以上は」
「違うよ。一緒に行きたいから言ってる。一緒にいたいから」
ヤミ太郎は、愛凪の足元から、自分の足元へとさらに視線を落とした。
「ごめん……」
「ごめんばっかり。もう、ごめん禁止」
「はい。ご……」
言いかけたヤミ太郎の手を愛凪が取ってつないだ。
戸惑うヤミ太郎に、愛凪は、「行こ」と声をかけて歩き出した。
ヤミ太郎と愛凪は、名栗恭二が教員を務める大学に来ている。
待ち合わせ場所の名栗恭二の研究室に行く途中で、講義中の彼を見つけて、学生に紛れて二人で空いている席に座った。
名栗恭二は、教壇に両手をついて講義をしている。
「……私の考えは、明快だが、推論に過ぎない。未知の領域から、創造する術を持っているか否か。空白領域における創造の可否、データを必要としない生成。あるいはデータを利用しながら、データを超越して創造すること。解答のない問題に解答を与えること。未来を持ってくること、閃き、第六感。スピリチュアルで曖昧に聞こえるかもしれないが、霊感と言ってもいい。それができる。何故かわからないが。それを持っているのが人間。AIとの違い。AIは、どこまで行っても、それができない――
愛凪は、物珍しそうに学生や教室の中を見回している。その隣で、ヤミ太郎は、じっと名栗恭二の講義を聴いているようだった。
講義が終わり、学生たちが教室からいなくなるとヤミ太郎と愛凪は、教壇で質問に来ていた学生と入れ替わりに名栗恭二の前に立った。
「お待たせ」名栗恭二は、教壇の上のパソコンや書類を手早く片付ける。「七時じゃなかったっけ?」
「七時です。大学って行ったことないから、見学したくて早く来たんで」
「そっか」愛凪の返答で、名栗恭二は、片付ける手の動きを緩やかにした。「じゃ、ちょっと事務室寄って来るから、先行ってて。場所は……」
ヤミ太郎は、「この間の……」と言って、静かに頷いた。
狭い研究室で、ヤミ太郎は椅子に座り、愛凪は、座らずに壁の本棚に並ぶ本の背表紙を眺めていた。
「あたしも大学行きたなかったな。学生楽しそう。ジョウ君、大学は?」
愛凪は、本を眺めながら、ヤミ太郎に話しかける。
「僕は、行ってないと思う……わからない」
「そっか……ごめん」
「いや……この、わからないをなくしたい」
「そうだね」
愛凪は、椅子に掛けて、ヤミ太郎と向き合った。
「おまたせ。ちょっと用意するから」」
名栗恭二は、そう言ってパソコンや本、書類を抱えて入ってきて、机の上に、抱えていた荷物を置いてから、奥のドアに消えた。
準備ができたと呼ばれて二人が入った狭い研究室の奥の部屋は、さらに狭い部屋だった。
「本当は、眠ってもらった方がいいんだけどね。脳を少しでも静かにするために。ここに横になって」
名栗恭二は、天井までの本棚からあふれた本が床に積まれる中に、埋もれるようにして置いてある一人用のソファーベッドに視線をやった。
「ここは?」
狭い部屋に入りきれない愛凪は、ヤミ太郎の後ろから覗いた。
「資料室なんだけど、まあ、仮眠室、昼寝部屋……」
「え? ここで? なんか、もっと、こう、サイバーな感じ? グギグギの実験室みたいなとこ想像してたんで……カップラーメンとか転がってるし」
「ああ、映画とか見過ぎだよ。実際こんな感じだよ。研究の現場って……まあ、そりゃ、言ってるようなところもあるだろうけど」
「はあ……」
怪訝そうな愛凪をよそに、ヤミ太郎は、素直に、ソファーベッドに体を横たえている。
「で、これ、と」名栗恭二は、ヤミ太郎にアイマスクを手渡す。「これ」
「え!? これ? これ、うちにもあるんですけど? ワイファイでしょ?」
愛凪は、ヤミ太郎の横に積まれた本の上に、名栗恭二が置いたものを見て言った。
「ルーターだけど、中身はいじってある。無線でやりとりするから……」
名栗恭二は、説明したところでと言った感じで、その先は、続けなかった。
「大丈夫ですか? なんか、変な電波とか……」
「大丈夫。そんなに強い出力じゃないから。まあ、まずは、どんなものが入ってるかもわからないから、今日は、データ集めで終わるかもね。アクセスできなくて、手も足も出ないかもしれない。じゃ、リラックスして、できるだけ何も考えないで。寝ちゃってもいい、というか、本当は眠ってほしい。脳が働いてない方がいいから。じゃあ」
名栗恭二は、部屋の入口から一歩入っていた愛凪を押し出すようにして部屋を出ると、照明を消して、ドアを閉じた。ルーターらしきものから伸びるケーブルがはさまって閉じ切らない隙間から、光が漏れる。ヤミ太郎は、アイマスクをして、身を横たえ、静かに息をしていた。
ポーポー
病院の様な施設の一室。半地下なのか、窓は、天井近くにあって、周りはコンクリートの壁に囲まれていることが分かる。窓を下から覗くとわずかに空が見えた。
「君、名前は?」
「わからない。君は?」
白い壁、白い天井、白いカーペット、白い椅子、白いテーブル……すべてが白い部屋に、患者用の白いガウンを着た少年と青年がテーブルを挟んで向かい合って座っている。
「僕も……考えてたんだけど、わかんないんだ。なければ、名前なんてつければいいと思わない? 僕は、ポーポーにする」
「ポーポー?」青年は、少し笑う。「なんで?」
「わからない。頭に浮かんだ。君は?」
「僕は、ジョーにする」
「頭、怪我したの?」
「ううん。君は?」
「わかんない」
二人とも剃髪された頭の同じ場所に、医療用のホチキスで四角く囲われた手術痕があった。
「ジョー? かっこいいな。なんで?」
「わからない。頭に浮かんだ」
ポーポーと自分に名付けた少年は、テーブルの上に置かれた積み木をいじり出す。
「君は、ここに来るまでのこと覚えてる?」
ジョーと名乗った青年が問いかける。
「わからない。気が付いたらここにいたよ」
「そう……」
「ママが、眠りなさいって言ったような気がする。それで、ずっと、ずっと、寝てた気がする」
「僕も、ずっと、ずっと寝てたんだ。きっとね」
「一緒だね」
「思い出がなければ、これからつくればいい」
「そうだ。これから、つくればいい」
天井の隅には、ドーム型のカメラがあって、別室のモニタールームで白い部屋の様子がモニターに映し出されている。
「え、と……すみません。榊原博士、向かって右がL、左がD……」
「逆だ」
「あ、すみません。二人とも坊主頭で似ているもので」
「間違えるなよ」
「はい……しかし、まるで、子供ですね」
「Dは一旦、退行させてある。フラットにではなく、歪ではあるが、おおよそ、十歳。と想定して操作したが、もう少し幼いな。Lに合わせてある」
中央に置かれた一際大きなモニターには、白い部屋にいる二人の様子が映し出され、その両脇には、モニターがそれぞれ三つ並ぶ。
「知能のコントロールも?」
「ああ、知能、記憶ともな。かなりの部分をコントロールできる」
モニターの前に座る白衣を着た二人は、モニターを眺めながら、断続的にやり取りを交わしている。
二人には、上下関係があるようで、榊原博士と呼ばれた方は椅子の背もたれにたっぷりと体を預けている。その部下に見える若い方は、姿勢よく座って、記録を取っているのか、時折キーボードをたたきながら、モニターを眺めている。胸には、ネームプレートを付けていて、榎本とある。
「後は、任せたぞ」
「はい」
榊原博士は、立ち上がって椅子を壁にぶつけた。
「しかし、狭いな……これで、この国のトップの場所なのだからな……」
「アメリカと比べてしまうと……もともとが、なんというか、古くて、病院みたいなものなので」
榎本は、体格がよく、モニタールームを余計に狭く見せていた。
榊原博士は、なおも何か言いたそうにモニタールームを見渡したが、短く鼻から息を吐いて、出ていった。
残された榎本は、「狭くて悪かったね。アメリカ帰りがそんなに偉いかね……偉いか。すげえもんな」とつぶやいた。
「君は、エルなの?」
「ちがう。ポーポーだよ」
「エルって呼ばれてる。僕はディー」
「君は、ディーなの?」
「違うよ。ジョー」
「どうやって来たの?」
「わからない。君は?」
「わからない。ママと一緒に来たんだと思う」
「それで?」
「ここに来た」
「なにそれ?」
「わかんない。でも、僕、君と、ずっと前に会ってる気がする」
「君も?」
「遊ぼう」
「うん」
二人は、白い部屋の床に広がるレールと汽車のおもちゃで遊び始めた。
モニタールームに、榊原博士が入ってくる。
「お忙しいところお呼び立てしてすみません」
「そういう言い回しをきくたびに、日本にいることを実感する。で?」
「二人とも、より、柔軟性を発揮しています」榎本は、少し興奮気味に話す。「互いに、必要とするようになってます。これがL、互いの利用領域です。脳とチップ。これが頻度です、まだらになっています。補完し合うだけではなく、互いを強化するために利用している。つまり、AIと脳で力を引き出し合っています。こっちはD。特にLにおいて顕著なのが分かります」
榊原博士は、腕組みしたまま部下が指さすモニターを見ている。
「結果としては、そうでなくては困るというものだが、スピードは目を見張るものがある。予想を大きく上回っている。プログラムの見直しも必要か……」
「その、博士、そのプログラムの見直しに、私も参加を……」
榎本は、モニターを見ながら言った。
「分かった。データをまとめておいてくれ。明日、カンファレンスだ」
「はい」
榊原博士が出ていくと、榎本は、モニターの前でこぶしを握って目を閉じた。
二人は、白い部屋の白いテーブルの上で、折り紙を折っている。
「僕たちは、僕たちを取り戻さなきゃいけない」
ジョーは、折り紙を折りながらポーポーに話しかける。
「どうやって? 僕たちを取り戻すって?」
ポーポーは、折り紙を折っていた手を止めて、ジョーに向かって顔を上げる。
「自分を取り戻す。そのために会ったんだ」
「そうなの?」
「僕は、僕だけど、僕じゃないんだ。君も……だから」
「どうすればいいの?」
「わからない」
「でも、わかるよ。きっと、わかる」
モニタールームでは、榊原博士と榎本がそれぞれの前に並ぶ三つのモニターを忙しく見比べている。
中央のモニターの隅には、現在の折り紙をする二人の画像があり、画面を占めているのは、積み木をして遊ぶ二人の映像だった。
「やはり、同調が見られます。同じマップが、同じマップの一致率が高すぎます。同時に活性化することがあります。特にやり取り、会話をしているときだけではなく、コミュニケーションを取っていない時にも現れています。おそらく、無意識下で……偶然にしては、頻度が多く、ラグがありません。ありえません……量子の観測をしているようです」
「量子の観測などしたことがあるのか?」
「あ、いいえ……」
榎本は、バツが悪そうに黙った。
榎本の前のモニターには、同じ形の立体波形がオートマチックで並べられていく。
ジョーとポーポーは、白い部屋の壁に設置されたモニターに見入っている。
モニターには、アフリカのサバンナだろうか、ゾウやキリンの姿が映し出されている。
「最もわかりやすいのが、羊の写真を見せた時の3Ⅾマップ……こちらが、三日前のサンプルです。そして、昨日……写真を見る前、コンマ数秒ですが、早い反応を示しています。特にLの方が」
中央のモニターの画像が、榎本がポーポーに様々な写真を見せている映像に変わる。
「予知……? エスパーだとでもいうのか?」
「むしろ、そう、としか……バグやモニター類の通信によるラグではありません。検証しました」
「明日……もう一度、昨日のプログラムを」
榊原博士は、マウスを操作する。
モニターでは、映し出されていた二つの立体波形が近づき、重なった。
「そうだよ」
ポーポーは、ジョーの顔を見て笑う。
ジョーも笑う。
「僕も」
二人は頷き合う。
白い部屋で向き合って座っている二人は、断片的な発語でやり取りを交わしている。
「自分たちの能力を自認し、自覚的に使うようになっています。互いの考えを当てる遊びをしています。互いのマップが、つまり考え、イメージが一致することを楽しんでいます」
「やり取りの内容は分からないのか?」
「そこまでは、時折、サンプルのあるマップ、例えば我々スタッフとか……見た時のマップが出現することがあるので、その時は、やり取りの中にそれらが含まれているであろうことが分かるくらいで、内容までは……もっと、データがあれば、内容を読み取ることは可能かと思いますが、この刺激が、インプットが限られた環境では」
「なるほど……」
「サイキックについては、思わぬ副産物だが、しかし、的外れなものではない。より直接的にコントロールができる可能性があるということだ。しかし……」
榊原博士は、腕を組み、背もたれに深く持たれた。
「ここは、旧日本軍の秘密の施設だったらしい。それをリフォームしたそうだ。毒ガスやら、人体実験やら、いかがわしい研究をしていたらしいぞ」
「なるほど……」
「やたらと狭いのが玉に瑕だが、必要なものは……最低限だが、揃っている」
施設の廊下を榊原博士と長身の男が歩いている。
「ここがモニタールームだ」
榊原博士が長身の男と一緒にモニタールームに入る。
「榊原博士の助手の榎本です」
榎本が窮屈そうに席を立って挨拶をする。
「端島です」
端島と名乗った長身の男は、榊原博士に促されて、いつも榎本が座るモニターの前に座った。榎本は、その脇に立ってモニターを指さしながら説明を始める。
「では、早速。彼らの脳には、チップが埋め込まれています。簡単に言うと、脳にAIが組み込まれてます。それで、これが、脳をモニターして、脳波を立体波形に表したものです。3Dマップ、我々は、マップって言ってます。何もない白い部屋にしているのは、他の刺激をできるだけ少なくして、モニターしやすくしてます」
「……なるほど、こういうものを見せられても、私には、専門外だが、ここで起きていることは、あなた方の専門外ということですね。どうぞ」
「これが、L。向かって左の若干若い方に、羊の写真を見せた時のマップ。何度か、こうやって、数秒ごとに違う写真を見せていくんですが、何度かやっていると、コンマ何秒という単位で、写真を見るよりもマップが早く出るようになった。もちろん毎回順番はランダムです。このように、羊のマップが出たのが、2.33。この時点では、写真は、まだ伏せられている」
「予知していると?」
「そのように見えます。さらに、こちらでは、言葉や身振りも使わずにコミュニケーションをとっているように見えます。互いに、思い浮かべたものを当て合って遊んだり」榎本は、立ったまま窮屈そうに屈んで、マウスを操作している。「Dが……断続的に、このマップが出てきます。これは、彼の中で、積み木もしくは、積み木で遊ぶことだと思われます。そして、Lが、答える。マップにして見ると、ほぼ一緒。数値にすると八十パーセント以上の一致です」
「どうだ? 印象で構わない。言ってくれ」
榊原博士は、端島の隣で窮屈そうに足を組みなおした。
「さすが、ドクター榊原。グロい研究だ。この施設にお似合いですよ」
「そういうことではない」
「ええ、もちろん」端島は、もったいぶるように間を空ける。「第一印象は、本物ですね。直接彼らに会わせていただけますか?」
端島は、金属フレームの眼鏡を直しながら榊原博士に視線を送った。
白い部屋を映すモニターには、いつものように向かい合ってテーブルについているジョーとポーポー、そして、床にあぐらをかいて座る端島が映っている。
「いいんですか? 信用できる人間ですか?」
「私の後輩だ。エスパーの研究をしてきた。彼には、なんの能力もないが、本物を見てきている。専門家だ。米国、ロシア、中国と渡り歩いてきた。研究が廃れて、帰ってきて」榊原博士は、ふっと笑った。「今は、高校教師だそうだ。信用しているわけではないが、余計なことはしないことは知っている。歩き方を心得ている小心者だよ」榊原教授は、吐き捨てるように付け加える「この国と同じ」
白い部屋では、端島が、ポーポー、ジョーとカードゲームを始めていた。
「日本も結構やりますよ。現に、ここまでやってます」
「そうだな」榊原博士は、椅子を横に向けて足を組む。
榊原博士と榎本、端島は、施設の食堂にいる。五十人は、座れる数のテーブルと椅子が並ぶ中に、三人だけだ。
「つまりは?」
「二人とも本物ですよ。特に、ポーポーと名乗った方が強い。ジョーの方は、ポーポーによって力を引き出されていると思われますね」
「LとDですね」
榎本は、気に入らなそうに口を挟んだ。
「なるほど」紙コップの水を一口飲む。「いつから来れる?」
「え? というと、チームに?」
「もちろんだ。早ければ早い方がいい」
端島は、榊原博士の返答に口元を緩ませた。
端島が帰ったあと、榊原博士と榎本は、モニタールームに戻っていた。
榎本は、さっきからため息が多い。
「榎本。端島は、あれで、研究を知っている人間だ。こちらは、ある程度任せたい。こちらにかかりきりになるわけにはいかないからな。端島を使って、お前が主導していい」
「あ、ありがとうございます。では……私がチームの……その……」
「なんだ? はっきり言え」
「リーダーで?」
「構わない」
「ありがとうございます」
榎本は、表情を明るくして姿勢を正した。
「元のプランに変更はない。Dは、近いうちに、こちらで引き取る。日時が決まれば連絡する」
「はい」
榊原博士は、榎本の返事を立ち上がりながら聞いて、モニタールームを出ていく。
白い部屋では、端島が置いていったカードで、ジョーとポーポーが遊んでいた。
白いテーブルいっぱいに、同じ柄のカードが広げられている。
ポーポーが一枚をめくって表にする。図柄の描かれた表面が現れる。
次にジョーがめくる。ポーポーがめくったカードと同じ図柄の表が現れる。
ジョーがもう一枚めくる。ポーポーがめくる。同じ図柄が現れる。
二人は嬉しそうに微笑み合った。
施設のおそらく会議室。
スクリーンは、降りているが、明るいだけで何も映し出されていない。
室内の照明が灯される。整然と並ぶ白衣姿の人間が顕になる。榎本と端島の姿もある。
スクリーンの脇の演台には、榊原博士が座っている。
スクリーンの映像で、説明を行なっていたようだ。
「……以上のことから、Dに対するオペは、人工冬眠と麻酔を組み合わせて行われる。チップから、Qニューロンへのキーを送って冬眠状態に。状態安定後に麻酔をかける。それから、骨格と筋肉の八割を人工に置換する――
散らかった部屋
風渡る草原をポーポーが歩いている。
まっすぐな道には砂利が敷かれている。ポーポーの後ろには、少し離れて榎本と端島、それから白衣を着た女が一人、さらにその後ろに、白衣を着た男が二人ついて歩いている。
後ろの白衣を着た二人の男が、ボソボソと会話をしている。
「ぞろぞろ引き連れて……どんどん厄介になるね」
「何をするかわからないらしいよ。実際、能力も把握しきれてないらしい。サーバーにアクセスして来たって」
「何それ?」
「脳の柔軟性らしい。博士の専門だよ。脳と装置を繋ぐことで、脳が新しい感覚とか能力を獲得する。サイキックが開花したって」
「それとサイキックって……見たことある?」
「いや。でも、暴れたっていうか、メチャクチャになった部屋は見たよ」
「え? どんな?」
「床とか壁とか切り裂かれたみたいになってて、テーブルとかは折れ曲がって、ドアもひん曲がってた」
「え……やばいじゃん。夜に暴れられたら困るんだけど。アクセス権もないのに」
「もう、そういう問題じゃないみたい。プロトコルも変えられて、バックドアも塞がれて、結局、何もできなかったみたい。疲れるのを待つしか。脳の柔軟性だよね。脳がAI、チップの機能を使って能力を引き出してる」
「それで……」
「なるべく違うこと考えて」
前を歩いていた白衣の女が振り返って二人に言った。
「え?」
「考えを読まれる。機嫌を損ねたくないでしょ?」
「……本当に?」
「本当だよ」
先頭を歩くポーポーが、足を止めずに振り返って言った。
「景色眺めて」
「そうする……」
ひとしきり強い風が吹いて、草原をうねらせる。
ポーポーは、立ち止まって、前を向いたまま話し出す。
「僕は、逃げたりしないよ。待ってるから。誰も傷つけない。嫌なことしなければ」
榎本は、ポーポーの背中を見ながら、唾を飲み込んだ。
モニタールームには、白衣の榎本とベージュのジャケットを着た端島が座っている。
「私は、二人のラグのないやりとり」榎本が、モニターから端島に視線を移す。「量子もつれが関連してると思うけど、どう?」
端島は、少し首を捻ってから、唐突に、胸ポケットにあったペンを取って、手のひらに乗せたかと思うと、榎本に向かってほうり投げた。榎本は、慌てながらもペンを落とさずに受け取った。
「啐啄同時。以心伝心。世界は昔からそう出来てる。シュレーディンガーの猫だっけ? 私に言わせれば、やってみなけりゃわからない。その一言だよ。僕は、君が受け取ると思ってペンを放った。実際、君は取った。でも、落としたかもしれない。やってみなけりゃわからない。人によっても違うだろうし、気分によっても結果は違うだろうし。可能性は無限にある。真理だろ? そういうことを恐ろしく細かく、恐ろしく難解に説明して人間の理解に当てはめようとしてるだけ。私に言わせれば、世界は繋がってる。君と私も。私と世界も。君と世界も」
「それは、違うと――」
榎本が言いかけたところへ、ドアが開いて、榊原博士が入ってくる。
「お疲れ様です」
榎本と端島が揃って挨拶をする。
「Dの放出が決まった。記憶の隔離ができているかを確認したい。Lに会わせるが、調子はどうだ?」
榎本は、端島の顔を見た後で、「先日の一件以来、落ち着いているようには見えます。本人は、会うことを望んでいると思います。『待ってる』と言っていたので」
「映像を見せるとか、対面以外の方法では、ダメですか?」
端島は、遠慮気味に、榊原博士を見上げて言った。
「どういうことだ?」
「私としては、二人を近づけるだけでも反対です。引き離した時にもかなり不安定になりましたし。再会を待っているようです。それだけに、記憶を閉ざされ、能力を奪われたDを見て取り乱す可能性があります。特別な存在ですから、互いに。先日のように暴れられたら、なす術がありません……彼らがそうである確証はありませんが、関わりが深いエスパー同士が、互いにがどこにいるかをある程度正確に把握することで、離れた場所にあって、意思疎通を行ったのを見たことがあります。何が起きるかわかりません」
端島は、終始榊原博士の顔を見ずに話した。
榊原博士は、端島を一瞥してから、「先日の一件の原因は? なぜ、暴れた?」と榎本に尋ねた。
「散歩です。散歩を制限されたことに怒って……」
「それで、あれか」
「はい」
「サーバーにアクセスして来たというのは?」
「はい。彼の他には、考えられません」
「どの程度の情報が流れたんだ?」
「ほとんど……」
「確かに、Dについても、予測ができない。軽率だった……前にも言ったが、意見をするときは遠慮をするな」
「はい」
榊原博士が、モニタールームを出ていくと、二人は顔を見合わせた。
「なぜ、ここを出ていかないんだ。もう、全て思い出している。あれだけの力があれば、出ていくことも容易なはずだ。こちらからのコントロールも受け付けない」
先に口を開いたのは、端島だった。
榎本は、モニターに向き直る。
「君は、感情移入しすぎだ。教師が抜けてないんじゃない? 評価も過大だよ。色々見てきたのはわかるが……」
「そうだろうか……『待っている』って、何を待っている?」
「Dだろ? 他に?」
「それだけじゃない気がする。待っている必要はないんだよ。会いたいなら会いにいけばいいんだから」
「Dは、コントロール下にある。それがわかってるんじゃないかな」榎本は、そう言ってから、モニターを見て、わずかに首を横に振って、「今日も散らかっているな」と言った。
「抵抗だろう。『僕は掃除しないよ』って」
モニターに映る白い部屋の床は、色とりどりの積み木や折り紙、ぬいぐるみ、レールと列車のおもちゃ、カードが散らかり、埋め尽くされている。白い椅子には、ポーポーが座り、その視線の先の空中には、ルービックキューブが浮かび、ゆっくりと回転していた。
約束
ヤミ太郎は、薄暗がりの中で、上体を起こす。尻がソファーベッドに沈む。
「あ、大丈夫?」
静かに資料室のドアを開けて出てきたヤミ太郎に、愛凪が気づいて声をかけた。
ヤミ太郎は、静かに頷く。
名栗恭二は、デスクからヤミ太郎を見上げている。
「何か、思い出したの?」
愛凪が、テーブルに手をついて立ち上がり、ヤミ太郎に駆け寄る。
ヤミ太郎は、狭い研究室を見渡してから、「やっぱり、ここじゃない。いかなきゃいけない。約束した……ポーポーと」
「何か、思い出したんだね?」
名栗恭二は、静かに、デスクの上のノートパソコンを閉じた。
マッドサイエンティスト
加来義一郎は、実験室の隅のコート掛けに脱いだ白衣をかけて、キャスターを鳴らして椅子に座る。
「人間は、繰り返しの日常だ。全く同じ日はなく、同じ出来事などないはずなのに、同じものとして扱う。新しい経験をしても、わざわざ、古い経験の記憶を引っ張り出して、当てはめ、繰り返しにしてしまう。過去にとらわれたままなんだ。エッシャーの騙し絵の世界だよ。ありえないはずなのに、人間は、あの無限回廊を勝手に生み出して時間を浪費してしまう。時間の浪費なんてもんじゃないね。子供は輝いて見えるだろ? あれは、まだ、新しい毎日を生きて、日々新しい経験をしているからさ。斯く言う私もそうだがね。朝起きて、いつも自分に言い聞かせるんだ。これは、新しい朝だ。これから未経験を体験するんだって。でも、気がつくと、もう、いつもに飲み込まれて、埋没している。何が言いたいかわかる?」
義一郎は、実験室を見渡せる個人デスクから、実験台の丸椅子に座る学生たちに問いかけた。
「先生は、何というか……詩人というか、ロマンティストっていうか、科学者には見えない時がありますね」
実験台の上で、ノートを広げて、義一郎を待っていた学生は、少し微笑みながら言って、ノートの上にペンを置いた。
「そうかもしれないね。中学生くらいかな、詩人になりたいと思ってた」
「え、詩、書くんですか?」
別の学生が尋ねる。
「いや。でも、読むのは好きだね」義一郎は、椅子を軋ませて、両手を頭の後ろにやった。「で、私は慣れと呼ぶ。慣れには、いいこともある。この椅子の嫌な音も、毎日聴いていると、気にならなくなる。同じ動作を無駄なく、効率的に行うことができるようにもなる。だが、厄介だ。また、同じ失敗をした」
義一郎は、実験室を自分の居場所にしていた。自分の部屋である研究室もあったが、そこは、本や資料で埋もれさせている。講義以外は、この実験室にいて、ゼミ生だけはなく、一般の学生とも気軽に話した。だから、実験室には、常に学生の姿があった。
「何、失敗したんですか?」
いかにも一年生といった感じの学生が、ノートから顔を上げる。
義一郎は、少し笑って、「しょっちゅうだよ。例えば、今日こそ、うどんを食べようと思っていたのに、つい、蕎麦と言ってしまって、口に入れてから気がついたり」
「先生、新しい経験を」
一人の学生が、デスクの前にやってきて、義一郎にルービックキューブを手渡した。
「何? これ」
「ルービックキューブって言って、立体パズルです。おんなじ色を揃えるんです」
義一郎は、ルービックキューブを持て余している。ゼミ生に、「回すんです」と言われて、「あ、まるほど」とルービックキューブを回し始めた。
「それ、最近、流行ってますよ」
「へえ……」
「先生は、ホントに、疎いですね。ジョン・レノンが撃たれたの知ってます?」
「え? そうなんだ」
「この間、カーター大統領がって言ってたけど、もう次の大統領になってますよ」
別の学生が、実験台から声をかけて笑った。
義一郎は、聞いているのかいないのか、ルービックキューブをいじっている。
「これ、面白いね。うん。新鮮な、新しい経験だ。どこで売ってるの?」
「おもちゃなんで……それ、差し上げますよ」
「ああ……あ、いや、借りておくってことで、学生からやたらにもらっちゃいけないから」
ルービックキューブを渡した学生は、義一郎が、新しい経験に手こずる様を見守った。
義一郎のデスクの隅に置かれたルービックキューブは、上に向けられた一面だけが揃っている。
「あ、揃ってる」
「一面は揃えられるようになったよ。もう先月からだから、一ヶ月くらいかかっちゃったかな」
義一郎は、読んでいた学術書から視線を上げて、若い助手の鴨下真奈美を見た。
「智木田さんは?」
「まだ」義一郎は、実験室を見回す。「来てないね」
「先にはじめてます」
鴨下は、静かに言って、踵を返した。
「よし」
義一郎も立ち上がって実験台に向かった。
鴨下は、実験室の奥からマウスのケージを出してきていた。
二人で、実験台の上にケージを並べていく。鴨下は、ケージの中のマウスに話しかけたり、ケージに手を入れてマウスを撫でたりしていた。
「お疲れ様です」
二人が、ケージを実験台から元の場所に戻していると、実験室に智木田が現れた。
「遅いですよ。もう終わってます」
鴨下は、ケージを運びながら、智木田を見ずに言った。
「ああ、電子顕微鏡室がちょうど空いてたから」
「月曜日は、マウスのお世話って決まってます。先週もですよね?」
「先生、やっぱり業者入れましょうよ。他の研究室はみんな業者ですよ」
智木田は、持っていた荷物を実験台において、丸椅子に座って頬杖を突き、二人がケージを運ぶのを眺めた。
「うちの研究室は、マウスの世話は自分たちで、がルールです。それは、大事なことを忘れちゃいけないからです」
「神経電極の作業を進めてきた。サボってたわけじゃない。研究を進める以上に大切なことって何? マウスは死んでも変わりはある。うちに電顕は、一台しかなくて、時間は、みんな二十四時間。こんなんじゃ、他に先を越される」
智木田は、両の掌を上に向けた。
「智木田さんは、分かってないんです!」
鴨下が智木田に詰め寄り、次の言葉のために息を吸ったタイミングで、義一郎は、「ああ」と二人に声をかけた。「確かに、マウスの数が増えて、時間が取られてることも確かだ。そして、我々の研究のテーマの先にあるものは、突き詰めていくと生命への畏敬であることも確かだ。いがみ合うことは、チームにとって良くないことで、時間が取られることも確かだ。業者を入れる件も検討するけど、業者を入れない分のお金が、材料費に回ってることも忘れないでね」
「智木田さんは、材料を無駄にし過ぎます」
「失敗しなきゃ成功しないでしょ? 失敗は成功の……?」
智木田と鴨下は、互いを見ずに、言葉を放った。
「さあ、仕切り直し。で、神経電極の進捗は?」
智木田は、自分を落ち着かせるように、深い呼吸をしてから、椅子に座り直して説明を始めた。
義一郎のデスクの上のルービックキューブは、隣り合う二つの面が揃っている。
義一郎は、顕微鏡の接眼レンズから眼を離してメガネをかけた。
「うん。いいね。これで行こう」
デスクの前では、智木田と鴨下が義一郎の返答に安堵の表情を浮かべている。
「ランドセルの方も順調です。三週間オーケーです」
鴨下は、指で丸を作った。
「電極の埋め込みは、一週早めよう。来週できるね」義一郎は、椅子から立って、後ろのブラインドに手をかけた。「あれ? 夜なの?」
「そうですよ先生」
「もう」智木田は、腕時計に目をやる。「十時回ってます」
「飯……も、もう閉まってるか……金曜日だから、飲みに行くか?」
「先生、今日、土曜日です」
「スケジュール大丈夫ですか?」
若い二人ににやにやとされた義一郎は、頭を搔いた。
「あー、先生、これダメですよ」
昼休みに、義一郎のデスクの隅の三面が揃いかけているルービックキューブを見つけた学生が、声をかけてきた。相変わらず、研究室の中は、学生たちが入れ代わり立ち代わりしていてにぎやかだ。
「そうなんだよね。一面ずつだと、ダメみたい」
義一郎は、顕微鏡から顔を上げて、学生からルービックキューブを受け取った。
「同時進行がセオリーです。でも、よくここまでやりましたね」
「もう、何カ月だろ」
「先生、いいですか?」
義一郎が、ルービックキューブをいじって眺めていると、マウスのケージを抱えた、別の学生に声をかけられる。
「ああ、どう?」
「こっちで」
学生は、ケージを実験台の上に置く。
ケージの中では、背中に電子部品が詰め込まれた小さな箱を背負わされているマウスがいる。マウスが背負った小さな箱から、二本のごく細いリード線が伸びてマウスの頭部に刺さるようにして消えていた。ケージの隅には、空のエサ皿が置かれている。
「赤外線を当てて給餌する訓練を一ヶ月しました」学生は、ポケットからテレビのリモコンを出して、義一郎に手渡す。「ランドセルに、赤外線受光ユニットが乗ってるんで、少し離れて、マウスに動作を見られないところから、受光ユニットに向けて、電源ボタン押してください」
義一郎は、リモコンを手に、ケージの置かれた実験台から後退った。「これくらい?」
「はい」
ケージの中では、ランドセルを背負ったマウスがせわしなく無軌道に動いている。
義一郎は、マウスがちょうど背中を向けているタイミングで、リモコンをマウスに向け、電源ボタンを押した。
ケージの中のマウスは、ケージの中央から、隅に置かれた空のエサ皿に向かって動き、空のエサ皿の上でエサを探すように動き回った。
金曜日の最終講義が終わって、しばらくした時間の実験室は、学生もまばらになっている。
「苦戦しましたね」
学生は、デスクの隅のルービックキューブを見ながら、椅子を横に向けて新聞を読んでいる義一郎に声をかけた。
ルービックキューブは、全ての面が揃っていた。
「ああ、大分苦戦したけど、揃っちゃった。返さないとね」
「いいえ……」
「君は、あっさりだったようだ」義一郎は、新聞をデスクに置いて、デスクの引き出しから、封書を取り出し、デスクの前に立つ学生に渡す。「カリフォルニア大から誘いだ。断る理由はない」
「え……?」
封書を受け取った学生は、呆然とした様子で、受け取った封書を見つめた。
「……君の論文を送って、推薦をしておいたんだ……そう言うものだよ。忘れた頃にやってくる」義一郎は、ゆっくりと背もたれに背中を戻す。「君との成果は、私が大切に育てる。安心して行っていい。心配はいらないよ」
「でも」
「君には、私にはない可能性がある。私は、君の論文のテーマを医療に役立てる、障害や事故で失われた機能を補うという方向で考えた。君は、しかし、人の革新だと言った。私にはないスケールだ」
学生は、義一郎の言葉に反応することはなく、うつむいたままでいたが、わずかに頷いてから、デスクを離れ、封筒を手に真っすぐに実験室を出ていった。
入れ違いで、実験室に智木田と鴨下が入ってきて、揃ってデスクの前にやって来た。
「あのマウスの実験で、カリフォルニア大ですか。まあ、厄介払いが出来て良かったですけど」
「智木田さん。そんな風に……」
「鴨下君はいいの? あの神経電極やランドセルは、僕たちのものだよ」
「すまない。うまくコーディネートして、共同で、チームとして取り組むべきだった。実験研究の基礎を教えるだけのつもりだった。あれほどのスピードで、あんな成果がでると予想できなかった。しかも一人で……」
「そうでしょうか?」
「あの人優秀だから、きっと、遅かれ早かれ……」
鴨下は、続ける言葉を探すように天井を見上げた。
義一郎は、黙ったままでいたが、「……確かに……私のエゴだった……私のものにしようとしていたのかもしれないね」と言った後、口をつぐんだ。
学生たちが帰って静かになった実験室で、義一郎は、ケージの中にいる頭の上に小さな電子部品の塊を載せたマウスを眺めている。マウスは、丸まって動かない。
義一郎は、ケージの蓋を開けて手を突っ込み指でつつくが、それでも動く気配がないことを確かめると、マウスをつかんで取り出した。
義一郎は、取り出したマウスを掌に載せて見つめた。
マウスは、掌の上で、ゆっくりと呼吸を続けていた。
「先生。はい。ウインドウズ95!」
義一郎は、デスクの上で、学生から空色のパッケージを受け取る。
「おお! すごいな!」
「並びましたよ」
「いやいや。白髪頭にはもったいないな。もらうわけにはいかないから、借りてるってことで」義一郎は、学生の反応を見るように、一旦黙ってから、「なんて、冗談だよ。ちゃんと払うよ」と続けて笑った。
「Aで、お願いしますよ」
学生は、義一郎をじっと見据えていった。
「Aでいいのか? AAだったのに」
学生は、「それはないですよ」と言って、破顔一笑した。
デスクの上の電話が鳴る。
「はい。加来です」
加来は、事務員が伝えた通りのボタンを押す。
電話の向こうの相手は、取り乱しているようで、早口に話すが要領を得ない。
「大丈夫だ。落ち着いて……で、条一郎が運ばれたんだね?」義一郎は、表情をこわばらせて、相手の返答を待った。「わかった。それで、条一郎は……ああ……ああ……どこの病院?」
義一郎は、「分かった。すぐに向かう」と言いながら立ち上がり、あわただしく受話器を置いた。
デスクの前の学生は、実験室を急ぎ足で出ていく義一郎に声をかけられず見送った。
投影器にX線写真を並べ終えると、医師は、義一郎に向けて椅子を回した。
「先生には、正直に言うしかないので……息子さんの救命処置は終わっています。一命はとりとめましたが、できることはここまでです。肺の損傷がひどいのと、脳にも……実際即死でもおかしくなかった。若いから、体力がある。でも、もって、数日かと」
義一郎は、じっと、エックス線写真を見つめたまま、「わかりました。難しいということは、妻からも聞いていたので……連れて帰ります」と言って、医師に視線を向けた。
「え?」
「最期は、自宅で看取ります。妻は私と違って臨床医ですし……」
義一郎は、落ち着いた表情で医師に言った。
東富士演習場
東名高速を走る車内は、エンジンの音とタイヤの走行音だけが満ちて、ある種の静寂があった。
ハンドルを握る名栗恭二は、進行方向をじっと見つめている。
後部座席のヤミ太郎は、ずっと目をつぶっている。
ヤミ太郎と手をつなぐ愛凪は、つないだ手にじっと視線を落としていた。
「もう、この辺でもいい。どっか、止まれたら」
ヤミ太郎は、正面に来た夕陽に目を細めながら言った。
「高速だから……」
「ダメだよ……」
「やっぱり、近づかない方がいいと思う。言ってたコンビニは近すぎる」
「でも」
「やっぱり、一人で来た方がよかった」
「いや……」
名栗恭二は、言いかけて黙った。
愛凪は、ヤミ太郎とつないだ手を強く握った。
「やっぱり、警察とか……」
「ダメ。自衛隊の演習場の中なんだ。この国がやってることなんだ」
「その人は、本当にいるの?」
「いる。僕を待ってる。行かなきゃいけない」
「どうなっちゃうの……?」
「わからない……けど、行かなきゃ」
名栗恭二は、前方を向いたまま、バックミラーを見ることもなく車を走らせている。
車は、分岐を経てジャンクションに入っていく。
「もう……降りれるところで降りる」
後部座席の窓から外を見ていたヤミ太郎は、前を向いてバックミラー越しに名栗恭二に言った。
インターを降りて、ヤミ太郎の「もう、ここで」と愛凪の「もう少し」のせめぎ合いは、ヤミ太郎が、愛凪の手を離し、ドアノッチに手をかけてドアを開けたことで終わった。
車は、フロントサスを沈ませ、タイヤを小刻みに鳴らしながら止まった。
「わかった」
名栗恭二は、言って、車線の中央で止まった車を路肩に寄せた。
キャンプ場とゴルフ場に挟まれた道のようだった。反対車線は、背の高いフェンスが続いている。
ヤミ太郎が車を降りると、林の向こうに焚火の明かりが幾つか見えた。
「待ってるから」
愛凪は、ヤミ太郎が閉めたドアの窓を下げて、見上げる。
「いつになるか、わからない。帰って、待ってて」ヤミ太郎は、身を屈めて名栗恭二を視界に入れる。「頼む」
ヤミ太郎は、わずかな笑みを残したように見えた。
「そんな……」
ヤミ太郎は、愛凪が伸ばした手から逃れるように車の後方から、道を横断する。二車線の道を二歩で渡り、三メートルはあるフェンスを飛び越えて、夕闇のゴルフコースに消えた。
愛凪は、すぐに反対側のドアにすがったが、ヤミ太郎は、すでに、夕闇に消えた後だった。
ヤミ太郎は、走った。
ドアに手をかけて、無理に車を下りようとしたのは、愛凪を振りほどくためだけではなかった。車窓の外の景色が、記憶と重なったからだった。
キャンプ場の木製の看板、研究所を抜け出した夜、焚火の明かりを目指してゴルフコースを走った。大きくくぼんだバンカーと一本だけ背の高い松の木、グリーンの位置関係は、記憶の通りだった。
ヤミ太郎の中で、あの日の記憶がよみがえる。
部屋の外が騒がしかった。廊下を走る足音が断続的に続く、廊下の奥から、鈍い音が断続的に響いている。
ジョーには、何が起きているかが分かっていた。
開けておいたカーテンから月明かりが射している。そっと、身を起こして、ベッドを下りる。廊下の足音が聞こえなくなってから、そっとドアを開けて、外を窺う。フットライトが灯る薄暗い廊下に人影がないことを確認して、ベッドと机だけの狭い部屋を出る。
裸足がリノリウムの床を叩く音と、服がすれる音とが、一緒に廊下を進む。
前方に明かりが見えてくると、ジョーは、スピードを緩めて、身を屈める。壁に体を這わせて、煌々と灯りを廊下にあふれさせているカウンターの下に体を滑り込ませる。じっとして、気配を窺う。カウンターの上はガラス張りになっている。ガラスが映す室内に人影はない。
ジョーは、身を屈めたままドアをそっと開く。
カウンターの中は、一見して、病院のナースステーションのようだった。
ジョーは、すぐに、壁の電子錠の操作盤の前に行って、解錠のボタンを押す。
直ぐに、身を屈めて、ドアに近づく。また、身を屈めたまま、ドアを開けて、素早く廊下に出て、そっと、ドアを閉める。
ドアノブがチッと音を立てた後に、何か話しながら急ぎ足で近づく音が廊下を曲がった奥から聞こえた。
ジョーは、近づく足音から逃れるように、薄暗い廊下の奥の闇へ駆け出す。
鉄製のドアを開けると月明かりに照らされた短い階段があった。
重いドアをそっと閉めて、階段を二段上がり、地上を見回す。
月明かりの下、風に吹かれる草の海原には、光の波が渡っていた。ここは、海ではないと言い聞かせるように、黒い道が交差しているのが見える。人影も車両もない。
「……そこから出たら、月の真下に向かって走るんだ。雨が降ってくる前に」
ジョーは、ポーポーに言われたとおりに、黒い道を丸い月の真下に向かって走った。ジョーが、砂利を蹴り上げて黒い道を走っていく。
低く黒い雲が流れて、月を隠す。
ジョーは、草の海原の中にある獣道のような細い切れ目をフェンスに向かって駆け抜ける。速度を緩めずにフェンスに向かったジョーは、放物線を描いて黒いフェンスを飛び越えた。
フェンス沿いの道を直走った。道の先に、赤い鳥居が見えてくる。
直走っていたジョーの動きが、ストップモーションの様に一瞬止まる。すぐに動きを取り戻すがバランスを崩し、転びそうになる。つんのめりそうになりながらも両手を広げてバランスをとり、持ち堪えるが、スピードが落ちていき、赤い鳥居の小さな神社の前で立ち止まった。
ジョーは、そのまま、目的を失ったように、立ち尽くした。
降り頻る雨の中で、神社の石段に座っていた。もう頭からつま先まで、水に浸かったように濡れている。
「何やってんだ……掃除しなきゃ……」
雨粒が当たって、微かな音を立てていた足元に転がる空き缶に手を伸ばすと、腕の縫合跡に沿って雨が流れて落ちた。空き缶を手に、赤い鳥居の下でヤミ太郎は立ち上がった。
ヤミ太郎は、黒いフェンスの少し上に見える低い三日月を見ていた。足元の石段に視線を落とすが、あの日、何かの目印のようにして空き缶が転がっていた石段には、何もない。
ヤミ太郎は、先程まで、何かを調べるように、小屋のように小さな神社の周りをぐるぐると回り、床下を覗き込んだりしていた。中にも入ろうとしたが、古びた扉は、何年も開けられた様子はなく、中を覗いただけで止めていた。
ヤミ太郎は、赤い鳥居の下で黒いフェンスの向こうを見つめたあと、「わかった。僕たちは、闘わなきゃいけないんだね。ポーポー、もうすぐだ」と、見えない相手に答えるように言った。
風が吹いて、フェンスの向こうの草の海を波立たせた。
ヤミ太郎は、ゆっくりと石段を一段下りる。二段目に降ろした足は、石段を蹴って、道路を一跨ぎに飛ぶ、二歩目は高く飛んでフェンスを軽々と越えた。
五角
ヤミ太郎は、黒い道を踏みしめて歩いている。
風は、草の海原を波立たせてやまない。
小さな丘を越えると、うねる草の海原は退き、広々とした広場になる。深い轍が幾重にも入り乱れている。車のタイヤの轍よりも幅が広くて、彫りが深い。おそらく戦車の履帯がつけたものだ。
遠くには、台形に土が盛られた山が作られている。標的の様なものも幾つか置かれているのが見えた。
吹き抜ける風が、ヤミ太郎の髪を揺らす。広場には、等間隔に二列の草の塊が、不自然にあった。数は、十。
ヤミ太郎は、立ち止まり肩幅に足を開いて、腰を落として身構える。
硬い草の塊は、立ち上がって、人型になる。素早い動きでヤミ太郎に接近する。ヤミ太郎と愛凪が市ヶ谷の防衛省ツアーで見た陸ジンくんそのものだったが、カムフラージュの合成繊維製の草の色が濃かった。
ヤミ太郎は、瞬時に横に走り、草の海に飛び込んだ。
ヤミ太郎は、草の波間に消えて見えなくなる。
数十メートルの上空では、ドローンがホバリングを続けている。黒く艶のない機体は、視認が難しく、風の合間に、その羽音だけが漂っている。
ヤミ太郎は、深い草の中、腰を落とした姿勢で、ゆっくりと移動している。上空を見上げる。三日月の光を受けて返す瞳は、もう一機のドローンが飛来するのを捉える。先ほどから止まっているのもよりも小ぶりだが、こちらは点滅する赤い光と月明かりの反射で存在を顕にしている。
「どうだ?」
榎本と端島が座るモニタールームに、榊原博士が入ってくる。三人は、モニターを凝視している。
「ずっと、コマンド送信続けてますが、受け付けない状態続いてます」
「モニターもスキャンも……何もできません」
榊原博士の問いに、榎本と端島が答えた。
「原因は?」
「全く……」
「見失ったと聞いたが」
「一旦見失いましたが、また、捕捉してます……が……何かが」
「あれ、なんです?」
草の海原の中を硬い草の塊が、組織だって統率の取れた正確動きで、扇状に展開していく。
「あれは……!? なんで? 誰が展開させている!」
榊原博士は、語気を強めながら言って、モニタールームを飛び出していく。
榊原博士が出て行ってしまうと、端島は、モニターから榎本に視線を移して、「あれって?」と尋ねた。
「陸自のGIN。戦闘用ロボットだよ」
「え?」
「もう見ちゃったから、だけど、博士は、今は、あっちがメイン。一度見せられたけど、人型の草のお化け。国家機密ね」
「それが、なんで?」
「わからんね。博士も把握してないとなると、もっと上が動いてるってことだね」
二人は、中央のモニターを凝視する。
「見えないな……」
榎本は、キーボードをどけて置いてあるコントローラーを操作する。
モニターの画面が、画素の粗いサーモグラフィーに切り替わる。ゆっくりと形を変えながら動いている熱源と距離を置いて、それよりも小さく、形を変えずに動く熱源を捉えていた。
「あれ……? 動物……いや――」
榎本が、モニターに顔を近づけると、壁の内線電話が鳴った。
榎本は、振り返って受話器を取る。
「はい。榎本です」
「Dは、どうだ?」
「捉えてます。博士――」
電話の向こうの榊原博士は、緊迫した様子で、榎本が答え終わる前に早口に、「Lの監視も怠るな」と言って、電話を切った。
榎本が、端のモニターに視線を送る。
モノクロの画面は、誰もいないベッドを映し出していた。
「あ!」
端島も気がついて、「行ってくる」と言って、モニタールームを出て行った。
モニターに映る誰もいないベッドの上には、六面がきれいにそろったルービックキューブだけが置かれていた。
ヤミ太郎は、深い草の中で動けなくなっていた。近づく物の気配から、逃げるようにできるだけ素早く動いたが、相手は、動こうとした先に素早く跳躍して、行く手を塞がれ、あっという間に、十体のGINに取り囲まれた。
ヤミ太郎は、草いきれの中で、鋭い視線で辺りを見回しながら深く静かに呼吸をした。その頭上では、二機のドローンが羽音を共鳴させて不快な音を発している。
ヤミ太郎から、三百メートルほど離れた窪地に置かれた深緑色のコンテナの中。
細長い空間には、一列にモニターが十個並びその上に、大きなモニターが三つ並ぶ。そのうちの一つはヤミ太郎の頭上のドローンからの画像のようで、精細なサーモグラフィックで、ヤミ太郎が立膝をついて動けないでいる姿がはっきりと映し出されている。そのモニターの前には、自衛隊員だろうか、深緑の隊服を着た男が三人並んで座っている。その後ろには、腕をまくったワイシャツ姿の男が立っている。
無線で音声が入る。
「Zulu Zulu 囲んだ。対象は動けない」
「こちらも見えている。思ったよりも動きがいいな。なかなか相手ができない対象だ。少し格闘してみろ。貴重な実戦データだ。ただし、できるだけ傷付けるな」無線に、ワイシャツの男が答えて言った。
「了解」
風が止んで、草が起き上がるその刹那、ヤミ太郎を取り囲んでいたGINの一体が跳躍する。草に覆われた人型が一瞬、月明かりに浮かぶ。
GINが瞬時に反応して飛びかかる。
ヤミ太郎は、二メートルほど飛び上がった空中でGINに、両腕をつかまれる。
ヤミ太郎の視界が、化学繊維の草に覆われる。体は、別方向からの急激なGに襲われる。
ヤミ太郎は、GINに両腕をつかまれたまま、広場の地面に落ちる。
GINは、ヤミ太郎の体を跨ぎ、太ももに腰を下ろして地面に押さえつけるようにして着地した姿勢のまま動かない。
ヤミ太郎は、人型の草の塊を見上げる。四肢、体幹に渾身の力を込めるが、全く動けない。ヤミ太郎は、風に揺らぐ草の塊の奥に自分をはるかに凌駕する硬質な膂力を感じ取っていた。
「大した実戦データにならんな……」
ワイシャツの男は、腕を組んで、モニターを見つめている。
「対象は、スピードはありますが、それだけです。後は、全てにおいてこちらが上回ってます。スピードがあっても、数が揃ってますから。まあ、スピードと言っても、重量分のアドバンテージで、移動の初速、加速こそ差がでますが、動作スピードは、ほぼ同じ……データ通りですね。どうしますか? もう少しやりますか?」
モニター前の中央に座る隊員が、モニターに向いたまま尋ねる。
「そうだな。スリーマンセルでは、どうか? ただ、逃がすな」
「了解しました。コマンドを送ります」
GINは、ヤミ太郎を地面に押し付けるようにししたまま動かない。他の九体のGINは、距離を保って取り囲んで静止している。
ヤミ太郎にしてみれば、不意に、自分を抑えつけていたGINが掴まれていた両腕を離し、座るように抑えつけていた腰を上げた。GINは、正確で滑らかな動きで後ずさって距離を取り、ヤミ太郎の前に直立した。
ヤミ太郎は、意図を探るようにゆっくりと頭を持ち上げ、そのまま上体を起こした。
上体を起こしたヤミ太郎は、目の前に立ちふさがるGINを見据える。
その時、ヤミ太郎に、声が聞こえた。
〈ジョー。今、送ってるのは、格闘戦用のプログラム。受け取って。それから、そのロボットのデータ。手に入れるのに手こずった。もうすぐ僕もそっちに行って闘う〉
〈ポーポー。こいつら、強いよ。敵わない〉
〈わかってる。武器になるものを持ってく。それに、もう少し近づけば、かなり抑えられる。いいかい。素早さでは君の方が上だ。あいつらよりも動き出しが早い。でも、ジャンプはしないこと。二歩以上は同じ方向に行かないこと。それで、とにかくかわして。すぐに行く〉
〈わかった〉
〈立ち上がるんだ〉
ヤミ太郎は、ゆっくりと立ち上がる。
GINは、ヤミ太郎が立ち上がると、一瞬で、足下の土を散らして両足を肩幅に開き、腰を落として前傾し、両手を左右に四十五度開いた。
ヤミ太郎の背後の草の中から、続けて二体のGINが現れて、ヤミ太郎と距離を保ったまま静止する。三体のGINで三角形を作り、中央にヤミ太郎を捉えている。
ヤミ太郎は、ゆっくりと足場を確かめるようにしながら足を横に出す。背後のGINが、ヤミ太郎の動きに呼応して、二体同時に身構えた。
ヤミ太郎は、広場の中央に向かって駆け出す。二体のGINがヤミ太郎の進行方向に向かって動くが、ヤミ太郎は、ポーポーに言われたとおりに二歩目で大きく方向を変える。ほぼ直角に近い角度で方向を変えると、GINの横をかすめて、GINの三角形の外に出ることが出来た。二体のGINは、ヤミ太郎の動きを追おうとするが、止まり切れずに動きが遅れて追従できない。
ヤミ太郎は、振り返って立ち止まる。三体のGINがまっすぐに向かってくる。ヤミ太郎は、二歩横に飛ぶ、GINは、ヤミ太郎に合わせようとするが、方向を変えるまでに、二歩、三歩と必要とする。
上空では、二基のドローンがヤミ太郎を見張るように浮かんでいる。
「捕まらないじゃないか」
コンテナの中では、ワイシャツの男は、苛ついた様子だった。
「はい……ああ、ちょこまかと動かれると……急に動きがよくなりました」
「連携させろ、もっと、うまくできるだろ」
「はい」
「逃げられるぞ」
「それは……他の、七体で取り囲んでいるので……小銃もありますし」
モニターの前の隊員は、自信なさげに答え、ワイシャツの男は、苛ついた様子のまま、腕組みして壁にもたれた。
モニタールームでは、榎本が、中央のヤミ太郎とGINを映すドローンの画像を見ながら、空のベッドが置かれた室内を映す画像にチラチラと視線を送っていた。
「やっぱり、いない」あわただしくドアを開けて、ドアノブを持ったまま端島が榎本に言った。もう一方の手には、ルービックキューブを持っている。
「どうする?」
「博士が捉まらない」
「どこに行ったんだ……」
「何が起きてる……?」
端島は、素早い動きでGINをかわすヤミ太郎を映すモニターを見て動けなかった。
ヤミ太郎は、コツをつかんだかのように、三体のGINを翻弄するようになった。一瞬動きを止めて、誘い出し、宙返りしてかわす。GINも連携を始めて、三角形を作りヤミ太郎を捕らえようとするが、わずかな差でかわされ続けている。
「ダメだな」ワイシャツの男は、組んでいた腕を解いて、隊員の椅子に手をかける。
「動きが……違います」
「データよりも、ずっといい動きです」
「埒が明かんな。ユニットを稼働させろ」
「はい」
中央に座る隊員が、モニターを見ながら、キーボードを操作する。
「Zulu Zulu ユニット稼働だ。コマンドを送った」
やや間があって、無線が入る。「Zulu Zulu コマンド確認できない」
「どうした?」ワイシャツの男は、中央の大型モニターの下に並ぶモニターに身を乗り出す。
「コマンド受け付けません」
「通信状態は、良好」
「阻害要因見当たりませ……あ、いや、これは……」
並んで座る三人の隊員は、それぞれ答えた。
中央の大型モニターでは、二体のGIN同士が、ぶつかる姿が映し出されている。
「ジョー!」
ヤミ太郎は、GINをかわして翻り、声の方に向いて、声の主を見た。
何かを抱えたポーポーが、丘を越えて走ってきている。
「ポーポー!」
ヤミ太郎は、駆け寄り、足がもつれて転びそうになったポーポーを抱きかかえるようにした。
「よかった! あいつらは、少しの間動けない」ポーポーは、息を切らせながら細い腕で抱えていたものをヤミ太郎に渡す。「これ、背負って。武器になる。僕の力と相性がいい」
ヤミ太郎は、ポーポーから四角いバックパックの様なものを受け取って背負い、そこから伸びるホースの先にあるノズルの様なものを手に取って、GINに視線をやった。
二体のGINは、ぶつかり合った状態で、わずかに震えている。その後方にいるもう一体も一歩を踏み出すような姿勢のまま、わずかに震えている。
「ポーポー……」
「僕は大丈夫」ポーポーは、心配そうに顔をのぞき込むヤミ太郎に向かって、忙しい息の合い間に微笑んだ。「間に合った。今の僕ならやれる。いいかい。あの汚い連中も動き出している。あいつらが来る前に、あれを片付けないと。すぐに動き出すよ。今のうちに」
ポーポーは、ヤミ太郎が背負ったバックパックの様なものについているスイッチをいじる。
「ポーポー、僕は……」
「大丈夫だ。思い出せる。これ、プラズマトーチ」ポーポーは、ヤミ太郎の手の上からノズルのトリガー押さえる。「僕の力で剣にするんだ」
ノズルの先から、激しい光が放たれる。激しいプラズマの光は、真っすぐに伸びる。
三日月の淡い光の下で、ヤミ太郎は、光の剣を持っているようだった。
光は、黒い地面の丘に立つ二人を浮かび上がらせた。
「頭に大事なものが詰まってる。頭をやれば動けなくなる。剣術のプログラムも組んで送った」
ヤミ太郎は、何かを確認したように頷いてから、飛ぶように駆け出す。ぶつかり合って動かない二体のGINの頭部に光の剣を振るう。激しい火花が飛び散り、二つの頭部は、地面に落ちた。ヤミ太郎が足蹴にすると、頭部を失った二体のGINは、ゆっくりと倒れる。
二体が地面に倒れるよりも早く、ヤミ太郎は、その背後にいた一体の頭部に剣を突き刺す。激しい火花を飛ばしながら、光の剣は、GINの頭部を突き抜ける。
「あれは、なんだ!」
ワイシャツの男は、モニターに映る光の剣を振るうヤミ太郎に目を見張る。
「おそらく工作用のプラズマトーチのようですが、あんなに伸びませんよ。あんなに強力なものでは……」
「まだ、何とかならんのか?」
「大量にコマンドが送られ続けてます。処理しきれない状態です」
「権限委譲すれば……こちらの影響は受けません」
「ユニット内の通信はできます。Zuluに指揮を取らせる形に」
「よし。Zuluには、無線で指示を出す」
「オペレーションルームより、Zulu」
「こちらZulu」
「権限委譲を行うが、対象に対する火器の使用は許可しない。そちらでユニットの指揮を取れ!」
「了解」
ヤミ太郎は、頭部を貫いたGINも足蹴にして倒すと、その背後に等間隔で展開しているGINに視線をやる。
〈ジョー! 来るぞ!〉ヤミ太郎に、ポーポーの声が聞こえる。〈もう一度頸木をかけるのに、時間がいる。何とかしのいで!〉
広場に等間隔に展開していたGINが、素早い動きで散開し始める。
〈来るよ!〉
おそらく伏せて身を隠しているであろうポーポーの声が、ヤミ太郎に届く。
一体のGINが、身構えるヤミ太郎につかみかかる。
ヤミ太郎の斬撃が激しい火花を散らして、GINの腕を落とす。なおもGINは、残る腕を突き出す。ヤミ太郎の二撃目が、GINの脚を貫く。片腕、片脚を失った人型の草が地面に倒れる。
残る六体のGINが次々にヤミ太郎に襲い掛かる中、遠くからセスナ機とヘリコプターの中間の様なプロペラ音が近づいてきていた。
〈ごめん。ジョー。もう少ししのいで! 一体だけ様子が違うのがいて、手こずってる〉
〈大丈夫。ポーポーは隠れていて〉
素早い動きと光の剣で、GINをいなすヤミ太郎だが、徐々に同時に襲い掛かってくるGINに追い込まれていく。
窪地に置かれたコンテナに数人の人影が近づいていく。
「今度は、いいようだな。優勢じゃないか」
コンテナの中では、ワイシャツの男がモニターを見てわずかな笑みを見せている。
「あの武器には、戸惑った様ですが、学習してます」
「もう不用意にはいきませんね」
「コマンド送信なくなっていますが、どうしますか?」
「このままでいいだろう? すぐに片が付きそうだ」
ワイシャツの男は、モニターが並ぶコンテナの奥の椅子に腰を落ち着けた。
隊員たちも椅子に体を預けて、モニターを眺めている。
不意にコンテナのドアが開き、コンテナ内に風を呼び込んだ。中の四人は、揃ってドアを見る。
「Freeze! Don’t move!」
ライフルを構えた特殊部隊装備の男が二人、素早くコンテナ内に進入する。
先に入ってきた一人は、ワイシャツの男にライフルを向けてそのまま奥に進んだ。後からは入ったもう一人は、「Take it eazy. Hold up」一語一語ゆっくりと言って、素早くモニターの前の三人に銃口を向けた。
「な、なんだ!」
ワイシャツの男は、狼狽える。
「智木田さん」コンテナのドアから、榊原博士が現れる。「縁あって、あなたのような優秀な方とご一緒できてよかった。ただの科学者だと思ってたら、軍事の知識もあるんですね?」
「貴様! くそ! 先に抑えるべきだった」
「あなたが思っているよりも世界の動きは、早いということです」
「裏切り者」
智木田は、榊原博士を睨んだ。
「ケチで小心なこの国がいけない。研究に国は関係ないし、より良い環境を選んだだけ」
「アメリカか?」
「答えようがありませんね」
榊原博士は、冷淡に言って首を傾げてみせた。
ヤミ太郎は、一体のGINに片腕をつかまれる。剣をGINの腕に振り下ろす刹那に、背後にもう一体のGINが回り込み、ヤミ太郎に掴みかかる。ヤミ太郎は、二体のGINに両腕をつかまれて動けなくなる。
〈ジョー!〉
〈ダメだ! 来るな!〉
ヤミ太郎とポーポーが交わすやり取りのはざまで、ヤミ太郎の腕をつかむ二体のGINの頭部で、ほぼ同時にいくつかの火花が散った。突然制御を失った二体のGINは、ヤミ太郎の腕を離して地面に倒れる。
ヤミ太郎は、素早く動いて、残る三体から距離を取る。残った三体のGINも素早い動きで散開して草むらに潜る。
〈ジョー。気をつけて。連中が来た〉
〈そのまま隠れてて〉
細い月の下。黒い丘の上から、四つ脚の戦闘用ロボット三体が下って来る。頭の小さな犬のように見えるが、大きさは小馬ほどある。上空には、ドローンが一機増えている。
草むらからくぐもった銃声が聞こえて、四つ脚の黒いボディに火花が散る。四つ脚は、動きが素早くなる。素早く散開をしながらも一瞬動きを止めては、背部に載せたライフルから草むらに向かって銃撃を加える。草むらからも銃声が聞こえ四つ脚に火花が散る。四つ脚の銃撃が草むらの中のGINに当たっているかは分からない。
〈ジョー。連中のロボットは、草モジャを狙ってる。流れ弾に気を付けて〉
〈わかった〉
〈連中の犬ロボットの方が入りやすそうだ。やってみる〉
ヤミ太郎は、GINが隠れた草むら離れた窪みに腹ばいになって身を潜めた。
草むらからGINが一体飛び出して、草むらに近づきつつあった四つ脚に飛びかかる。四つ脚の上に乗ったGINは、四つ脚の突起の様な頭部に銃撃を加える。他の二体の四つ脚は、四つ脚の上のGINを狙い撃つ。火花を散らして撃たれた四つ脚とGINは、四つ脚と折り重なるようにして地面に伏した。
残った二体の四つ脚が、草むらに入っていく。散発的に銃声が聞こえる。
聞こえていた銃声が止むと、ヤミ太郎は、窪みからわずかに頭を上げて様子を窺った。
草むらから二体の四つ脚が出てくる。上空のドローンたちは、相変わらず不快な共鳴を放ちながら浮かんでいる。
〈ポーポー……〉
〈大丈夫。もう少しで入れる〉
野太い音で車両が近づいてくる。
ヤミ太郎は、腹ばいのまま音がする方に顔を向けた。
二台の四輪駆動車が丘を越えてくる。
四輪駆動車が広場の中央で止まると、四つ脚が二体とも後ずさりして近づき、四輪駆動車のそばで、飼い主の指示を待つように静止した。
前の四輪駆動車のドアが開いて、特殊部隊装備の男が二人降りてきて、周囲を警戒するようにライフルを構えた。男の一人が、手を上げて合図をすると、後ろの四輪駆動車のドアが開いた。
助手席から降りてきたのは、榊原博士、そして、後部座席のドアから降りたのは、三人目の特殊部隊装備の男と彼に促されて降りた名栗恭二と愛凪だった。愛凪は、おびえているようで、降りる時に躓いて転びそうになり、名栗恭二の手を借りていた。
「二人とも!」榊原博士が腰に手を当てて声を張る。「上からよく見えている。状況は見てわかるだろう? ひとまず話をしようじゃないか? 出ておいで」
榊原の声が風に流れると、四輪駆動車の低いエンジン音、上空のドローンの不協和音が戻った。
〈ジョー。犬の方は、動けないようにした。連中には気付かれてない〉
〈愛凪さんが……〉
〈まだ動かないで〉
先に降りた特殊部隊装備の男二人は、一点に照準を合わせて動かない。
「最初から、ずっと、私の手の中にあったんだよ。ここを出たのも、戻ってきたのも。バイト君もよくやってくれたしね」
榊原博士は、振りむいて後ろの名栗恭二を一瞥した。
「すまない……」名栗恭二は、呟くように言ってから、大きな声で言った。「ジョー! こんなことだとは思ってなかったんだ! わかってくれ! 私が馬鹿だった! 自分みたいな人間が……勘違いも甚だしかった……でも」名栗恭二の声は尻つぼみに小さくなった。
窪地から、ヤミ太郎がゆっくりと立ち上がる。「わかってた。あの二人のこと……わかってたよ。君のことも。途中から様子が変わった」
「すまない。友情は本当だ」
隣の愛凪は、名栗恭二に目を剥いた。「友情? 今更? 何言ってるの?」愛凪は、名栗恭二の腕を掴む。「だましておいて――」
愛凪のそばにいた特殊部隊装備の男が愛凪の肩を抑えつける。愛凪は、短い悲鳴を上げて、地面に両手を突く。
「やめろ!」
ヤミ太郎は叫んで、数十メートル先の愛凪に向かって猛然と駆け出す。
ヤミ太郎が、駆け出すのとほぼ同時に草むらがざわつき、一体のGINが飛び出す。
「Don’t shoot!」榊原博士が叫んだ。
〈ポーポー頼む!〉
ヤミ太郎の手のプラズマトーチがまぶしく光る。
ライフルを真っすぐに構える特殊部隊装備の男まで、数メートル。横から飛び出したGINとの接触の方が早かった。ヤミ太郎は、掴みかかるGINに反応して光の剣を振るう。
〈ダメ! ジョー!〉
ヤミ太郎とGINは、組み合ったまま地面を転がる。
GINは、力なくあお向けになり、ヤミ太郎は、馬乗りになって剣を突き立てるが、剣は光を失い、静かになったプラズマトーチがGINの頭部に振り下ろされただけだった。
ヤミ太郎は、GINをじっと見つめる。最初の一閃で、胸から頭部にかけて樹脂の草が切り開かれている。その狭間から見えたのは、ヤミ太郎をじっと見つめる人間の眼だった。
ヤミ太郎は、二つに割れて外れかけたカバーを取り去る。
「ゲンゲン……!」
「ジョー。すまなかった。わかってくれ。君をあいつらに渡すわけにはいかなかった」
「どうだ? お友達の勇姿は?」榊原博士は、楽しげに頬を緩ませて言った。「AIが人を殺す判断をしていいのか? なんて、そんなこと議論して……だったら、くっ付ければいい。人が判断すればいい。ハイブリットにすればいい。彼は志願した。掃除のために」
「違う……」
「なんで?」ヤミ太郎は、ゲンゲンを見つめる。
「俺は、小さな島国を出て、世界の現実を見た。だからだ」ゲンゲンの口から血液が溢れて、ゲンゲンは、苦悶の表情でむせ込む。「……米中露が手を組んで、世界を支配する時代が来ないと誰が保証する? 核もない、歪な軍隊もどきしかない、アメリカの言いなりの国がやっていくには、力が必要だ。だから、志願した。そいつは、国を裏切った。そこの連中だって、ペンタゴン印のキングギドラなんだ。もう世界は動き出してる。想いだけじゃどうにもならん。力が必要だ」
「ゲンゲン……」
ゲンゲンは、再び血を吐いて咽せた。
「なあ、俺の血は赤いか?」
「ああ、真っ赤だ」
「そうか。ジョー……俺たちは、地球防衛隊だよな?」
「ああ」
「俺は分かったぞ。……死なない……。俺が死んでも、生き続けるよな? 誰かの心で……」ゲンゲンは、目の前のヤミ太郎の背後に広がる空を見上げているように、どこか晴れ晴れとした表情になる。「俺は……守りたかった」
ゲンゲンは、言い終わると大きく息を吸って、短く吐き、再び息を吸うことはなかった。
ヤミ太郎は、ゲンゲンを抱き寄せた。
静止していた二体の四つ脚が静かに動く。二体とも向きを変えて、それぞれ、四輪駆動車のエンジンに照準する。四つ脚の背中のライフルが連続して火を吹いた。ライフル弾を撃ち込まれた四輪駆動車は、二台ともそれで黙った。
「それは、もう、僕のものだよ」
ポーポーが、広場をゆっくりと歩いてくる。
二体の四つ脚が、榊原博士に照準を合わせるように動いた。
「やめなさい! 光太郎! いい加減におし!」
榊原博士は、歩いてくるポーポーを睨みつけて叫んだ。
「いつもそうだ。『やめなさい』『いけません』……ママこそ……ママこそ、もうやめて!」ポーポーは、立ち止まらずに進んで、ママと呼んだ榊原博士の前に立った。「もう、終わりにするんだ!」
上空の不協和音が突然止んで、三機のドローンが地面に落ち、わずかに弾んで部品を散らした。
榊原博士は、ドローンが落ちた音を背中で聞いて、風を受けるスカートの中の脚をわずかに震わせた。
「光太郎……」
榊原博士は、悲しげな表情で光太郎と呼んだポーポーを見つめた。
母
飛行機の機内。
光太郎が落ち着きなく足をばたつかせて、前のシートを蹴とばす。
「光太郎。いけません。およしなさい」
隣に座る榊原玲子が、光太郎の太ももを平手でたたく。
榊原玲子の隣で、忙しなく携帯電話を閉じたり開いたりしていたビジネスマン風の男が、ゆっくりと携帯電話を二つに折って胸ポケットにしまった。
光太郎は、叩かれた太ももに視線を落として、両手で髪の毛をくしゃくしゃにした。
横目に見ている榊原玲子は、短く鼻から息を吐いた。
機内アナウンスが、間もなく成田に着くことを告げていた。
光太郎は、空港の広い空間に、人が行きかう姿を落ち着きなくきょろきょろと眺めている。
榊原玲子は、右手に公衆電話の受話器を持ち、左手は、光太郎の右手をしっかりと握っていた。榊原玲子は、受話器の向こうの相手と話をしながら、握っていた光太郎の手を離して、腕時計を見た。光太郎は、慌てたように、離された手で榊原玲子のワンピースの背中を掴んだ。
並んで立つ二人の背丈は、ほとんど変わりがない
個室の病室は静かだった。大きな窓は眺めがよく、都心のビル群がよく見えた。
ベッドには、やせ細り、土気色の肌をした加来義一郎が横たわっている。
「真っすぐ来てくれたんだね」
義一郎は、榊原玲子の傍らにあるスーツケースに目をやる。
「はい」
「十年ぶりくらいかな?」
「もう少しですね」
光太郎は、榊原玲子の隣で、ワンピースの背中のあたりを掴んだまま丸椅子に腰かけた。
「どうだ? 研究の方は?」
「なかなか、厳しいものです。この子もいますし……思うような成果は」
「そうか……まあ……」義一郎は、顔を天井に向けて戻して、目を閉じた。「見ての通りだ。あちこち転移しててね。もって一ヶ月……明日かもしれない。間に合ってよかった。その子は?」
「条太郎が事故で亡くなったと聞いた年に……翌年だったかしら、産みました。相手には……男運がないようですぐに逃げられました」
「そうか……」
義一郎は、目を開いて、枕もとにあっただいぶ色の褪せたルービックキューブを手に取って、榊原玲子に差し出した。「借りっぱなしになってしまっていたね」
「まだ……差し上げたものです。私にとっては、何の思い入れもありません」
「……じゃあ、その子に」
「この子には、できません。出産の時の事故で、脳に障害があります。話もできませんよ」
「そうか……」
義一郎のやせ細った腕は、ルービックキューブさえ重いというように、力なくシーツの上に落ちた。
「それで、伝えたいことって、なんですか? 日本まで呼びつけて」
榊原玲子は、冷たく言い放った。
義一郎は、言い淀むように「ああ」と言って、少し黙った後、「そうか」と言って話し出した。「私は、ずっと、何のための科学か、探究をしてきたつもりだった。追い求めてきたつもりだった。答えには辿り着けなかった。間違っていたのかもしれない。君には、間違えないでほしい。答えを見つけて欲しい」
「そんなこと……」
榊原玲子は、義一郎を見下ろして睨んだ。
「条一郎は……生きている」義一郎は、榊原麗子の視線を飲み込むように静かに目を瞑る。「生きているんだ」
ルービックキューブを見つめていた手が、義一郎の手から、ルービックキューブを持っていく。
くるくると両手で、ルービックキューブを回すが、当てがあるようではなく、いたずらに配置が変わっていくだけだった。
しばらくすると飽きた様で、放り投げられて、ルービックキューブは横たわる義一郎の上を転がった。
それで、義一郎は、目を開けて両手を布団から出して、言葉にならない声を出して伸びをした。
「あれ? もう着替えたの?」
義一郎は、ベッドの端に腰かけているTシャツにジーンズの榊原玲子を見て言った。
「だって、もう、昼過ぎですよ。お腹すいた」
「そうか。よし」
義一郎は、起き出して、年の割には贅肉の少ない裸を見せてシャワールームに向かった。
ベッドから落ちた真新しいルービックキューブが床に転がる。
義一郎は、六面が揃いかけたルービックキューブを回しては眺めしている。
「先生……」
デスクの前に榊原玲子が来ても、声をかけられるまで気がつかなかった。
「ああ、ほら。もう少しだよ」
義一郎は、揃いかけのルービックキューブを榊原玲子の前に差し出して、回して向きを変えて六面それぞれを見せた。
榊原玲子の表情は硬く、血の気が引いているように見える。
「今日、病院に行ってきたんです……」
「え? どこか悪いの? 顔色良くないね」
「産婦人科です」
義一郎は、ルービックキューブを持つ手をデスクに降ろして、榊原玲子を見つめた。
六面が揃ったルービックキューブは、義一郎のデスクの上で、文鎮代わりになっていた。義一郎自身もそうしていたし、彼の机の上に書類を置いていく人間もそうしていた。その日は、デスクの端にあって、ロサンゼルス行きの航空券の上に置かれていた。
「出迎えはいいって言ったのに、大丈夫なの? もうこんなに大きく」
砂漠迷彩の軍服を着た軍人、ダボダボの服を着た黒人の若者、若い女は、揃って丈の短い服を着てヘソを見せている。会話の内容がわからない彼らには、親子の再会に見えていたかもしれない。ロサンゼルスの空港で、マタニティドレスを着た榊原玲子が、義一郎を出迎える。
「大きくなっていないと困ります。先生こそ、産まれてからで良かったのに」
「いや、一人で産ませるわけにはいかないよ。やっぱり、親御さんには……」
「言えません」
榊原玲子は、言った後、微笑んで見せた。
「そうだね」
義一郎は、榊原玲子の笑みを見て、応えようと微笑んだようだったが、少し、ぎこちない微笑みに見えた。
上下デニムの榊原玲子が、義一郎にゆりかごを渡す。
「いいんだね?」義一郎が受け取って、ゆりかごを覗きながら、榊原玲子に尋ねる。
「はい。先生こそ、本当に、いいんですか? そんな、赤ん坊連れて帰って」
「ああ、もちろんだ」
人の行きかうロサンゼルス空港のロビーは、騒がしいが、ゆりかごの中で赤ん坊は静かに寝息を立てている。
「条一郎」榊原玲子が、義一郎が抱えるゆりかごに顔を埋めて、赤ん坊の額にキスをする。
「じゃあ、もうここで。名残惜しいだけだ。辛くなるよ」
「はい。先生も元気で」
義一郎は、ああ、と言って、ゆりかごを片手に、榊原玲子を抱き寄せてキスをする。
「じゃあ」
義一郎は、ゆりかごの中を気にしながら、スーツケースを押して行く。
「クリスマスには、帰ります」
「ああ」
義一郎は、榊原玲子の声に振り向いて、スーツケースから離した手を上げて応える。
「写真……送ってください」
歩き出していた義一郎は、もう一度立ち止まり振り返り手を上げて何か言った。
雑踏の中で声は、もう聞こえない。
「着いたら……電話……」
榊原玲子の涙に震える声は、雑踏に紛れていく義一郎の背中には、もう届かなかった。
色あせたルービックキューブは、光太郎の手を離れる。
「わかりました。今度は逆というわけですね」
榊原玲子は、光太郎の手から取ったルービックキューブを義一郎の枕元に戻しながら言った。
「頼みます」
義一郎は、落ちくぼんだ目を閉じたままで、ゆっくりと頷いた。
窓には、夕立の雨粒が当たり始めていた。
「先生……」
義一郎は、目を閉じたままでいる。
「先生……先生!」
三度目でようやく目を開けた義一郎は、デスクの前に立つ鴨下に眼をしば立たせた。
「ああ」
「お疲れのようですね。雨、降ってきましたよ」
「え?」義一郎は、実験室の窓に視線をやる。「ホントだ」それから、腕時計に目をやる。「ああ、こんな時間」
義一郎は、慌てた様子で実験室を出て行った。
実験室の窓は、すっかり濡れていた。
鴨下は、屋敷の門の前にいる。屋敷の門には、飾り屋根はあるが、雨をしのげるものではない。彼女は、門扉に背中をつけてへばりつくようにして雨をよけている。傘はあるが、ジーンズの膝から下は、すっかり夕立に濡れている。
一台のタクシーが門の前に止まった。
雨粒の仕切りの向こうで、義一郎が、支払いをしているのが見える。
鴨下は、「財力使われちゃったんで、私は私なりの力を使って、来ました。私こういうの得意なんです」とにっこり笑ってウインクでもして言うつもりだったが、その前に訊かなければいけない事情が、義一郎の腕の中でむずがって足をばたつかせている。
鴨下は、降りてくる二人に傘をさす。
義一郎は、鴨下の顔を見て、初めは驚いた顔をしたが、すぐに、柔らかないつもの顔に戻して、「お互い訊きたいことがあるわけだが、まずは、中へ」と言った。
義一郎は、条一郎を抱いて、体を揺らしながら、条一郎の背中をリズミカルに叩いている。
「どうだい。様になってるだろう? 歳の離れた弟がいてね。弟の世話は、私の役目だった。しかし、弟は、三歳で亡くなってしまった。それが、医学の道を志すきっかけになったんだが、結局、臨床からは、だいぶ離れた所に行き着いているけどね。まあ、毎年医者の卵を送り出しているのだから、許してくれるだろう」
義一郎は、少し抑えた声で言った。
鴨下は、ぐっしょり濡れた靴下を靴と一緒に玄関に置き、ジーンズの裾を捲り上げて座るソファから、義一郎が条一郎を寝かしつけるのを眺めている。
「私は、先生が、最近あまりにもお疲れのようだったから、その理由を知りたくて……」
「そうか。この通りだ」
義一郎は、笑って答えた。
「誰のお子さんですか?」
目を瞑って寝息を立て始めた条一郎を見て、義一郎は、揺れをゆっくりにして、背中を撫で始めた。鴨下の問いには答えない。
静かな部屋に、条一郎の寝息が聞こえ始める。
鴨下は、待つことにしたようで、黙って見守った。
義一郎が、壁際のベビーベッドに条一郎を寝かしつけて戻ると、鴨下は、「私の……先生のゼミの人間の将来は、先生にかかってるんですよ?」と小声ながらしっかりとした口調で言った。
「まったくだ」義一郎は、ソファに座りながら長く息を吐いて頷いた。「私の見込みが甘かったのと、さっき話したようなこともあって、顔を見たら、その瞬間に決めてしまっていたんだ」義一郎は、一旦、ソファに背中を預けたが、すぐに、何もないテーブルを見て「ああ、お茶も出してないね」と言って、慌てたように体を起こして、台所に向かった。
条一郎は、シーツに寝汗の染みを作って静かに寝ている。
鴨下は、ベビーベッドの柵に片手をかけて、条一郎が柔らかな呼吸を続けるのを見守った。
義一郎が、二人分のお茶を用意してリビングに戻ってくる。
「よく言うけど、寝ているときは、天使だろ?」
「わかりました」
鴨下は、条一郎に視線を落としたまま、小声で答えた。
「ええ?」
義一郎は、鴨下の声が聞こえなかったわけではないが、聞き流してしまった予期せぬ返答を訊き返した。
鴨下は、ゆっくりと振り向いて、義一郎を見つめた。そして、「私も決めました」と言った。
雨は、まだ、降り続いていた。時々強く当たる雨粒が窓を叩く音が聞こえる。
条一郎は、ベッドで、深く静かな呼吸を続けている。
榊原玲子は、光太郎の手を離して、ベッドに歩み寄る。
「生命維持に必要な代謝は、行われてて、ものすごくゆっくりだけど成長もしてる」
鴨下は、榊原玲子に後ろから歩み寄りながら静かに言った。
光太郎は、取り残されたように所在無げな表情で、部屋を見回していた。
「先生もそうだったけど、私も、この子の顔を見たら、愛おしくてたまらなかった。私も顔を見た瞬間に決めてた。院も辞めて、もちろん医者もあきらめるつもりだったけど、先生が、それだけは、ダメだって、休学して、時間かかったけど医者にもなって……でも、籍は入れてくれなかった。『すまない』って……」
「そりゃ、そうよ。私との籍が残ってるんだから。変わった人よね」
鴨下は、少し黙ってから、また、話始める。「話したかしら? 偶然見つけてたんです。冬眠しているマウスを、冬眠に関わる神経細胞を見つけていたのに、論文にして発表することをしなかった。なぜだか分かりますか? 迷いはあったけど。安定を選んだんです。条一郎を育てるために……あなたみたいな人には、理解できないかもしれないけど」
「事故で死んだって聞いて、清々してたのに……」
「え?」
「私の汚点よ。一時の感情に流されて、教授と関係を持って……危うく人生を棒に振るところだった。引き取ってもらって、感謝してる。でも、バカね。また、同じことをした」榊原玲子は、部屋を見回している光太郎を確認するように振り返った。「今度の男は、あの子を押し付けて、さっさと逃げた……私、あなたのこと尊敬するわ。子育てをして、医者になったんでしょう?」
「先生も一緒だったし、家政婦さんもいたから」
「私は、もう限界……」
榊原玲子は、怒気を込めるように言って、短く息を吐いた。
「でも、ちゃんと――」
「準備が出来たら、引き取りに来ます」
榊原玲子は、鴨下が言い終わらないうちに冷静に言って、振り返り光太郎の手を取って出ていこうとする。
「引き取るって?」
「教授に頼まれましたよ。聞いてのないの? この子の目を覚ますように」
「え? ちょっ……」
榊原玲子は、追いすがる鴨下に構わずに、光太郎の手を引いて部屋を出ていく。
鴨下は、二人を追うが榊原玲子は構わずに、鴨下の目の前で部屋のドアを閉めた。
一瞬、暗闇に閉ざされる。
すぐに、部屋の照明が灯る。
カンファレンスルームに集まった二十人ほどの白衣姿の男女は、榊原玲子の説明が終わると、俄かにざわついた。
「何も気にすることはない。献体だ。提供されたご両親は、目を覚ますことを望んでおられる。お前たちの大好きな同意も取れている」榊原玲子は、スクリーン横の演題から声を張る。「私なら目覚めさせられる。AIとの融合で革新をもたらす。革新であり解放だ。ほんの一握りの天才、覚者だけが目覚めることが出来た。平等に目覚めさせるんだ。馬鹿な人間はいなくなる。掃除ができる。日々新しい経験を積み、日々未踏の大地を踏みしめ続ける。進歩し続ける人間を生み出す。大いなる一歩をしるすメンバーであることを誇りに思っていい」
カンファレンスルームは、榊原玲子の気迫に圧倒されたように静まり返った。
そぼ降る雨音の隙間をおりんの澄んだ音が通り過ぎていく。
鴨下は、親族たちの申し出を断り切れずに、というか、半ば強引に親族席の端に座らされた。
鴨下は、籍を入れていないから、と固辞しようとしたが、「寝食を共にして、条一郎を育てて、弟の面倒を最期まで看たんだ。立派な家族だ。坊さんだって、いいって言ってるんだ」と言われ、運ばれるようにして座らされた。
雨の中、大勢が参列した義一郎の葬儀に、榊原玲子の姿はなかった。
「そうですよね。私にはどうすることもできなかった。騒ぎになるどころの話ではないですよね」
鴨下は、全てが引き払われて、カーペットにベッドと椅子の跡だけが残された何もない部屋で、独りごとを言った。
鴨下は、屋敷の門の鍵を閉めると、鍵を封筒に入れた。鍵は、封筒の中で、先に入っていた鍵とぶつかって音を立てた。
待っていたタクシーの運転手は、スーツケースをトランクに詰め込む。
鴨下は、バッグと一緒にタクシーに乗り込んだ。
運転手が、運転席に戻り、メーターのスイッチを押す。
電子音がピッと鳴った。
「どうだ?」
電子音を聞いた榊原玲子は、隣のオペ服の男に尋ねる。
オペ服の男は、ホチキス止めの縫合跡が生々しい剃髪された頭部から、電子音が鳴ったセンサーの様な手持ちの機器を離して、機器のモニターを見る。ホチキス止めの縫合跡は、左右対称に体中にあった。
「問題ないかと」
「自信のない言い方だな? まあ、いい、起動しろ」
手術台から少し離れた場所で、オペ服の女がパソコンを操作する。
「起動コマンド送信しました」
手術台に横たわる加来条一郎であった彼は、両の瞼をわずかに震わせた後で、眼を開いた。
「先生。また、一緒に成果を出せましたね。やっぱり、私たち相性が良かったみたい。成果をお見せできなくて残念」
榊原玲子は、楽しげな表情で言った。
「さあ、おやすみ。光太郎。目が覚めたら、全部よくなってるから……全部直してあげるから、それまで眠るの。寂しくないように、お兄ちゃんを連れてきてあげた。二人とも、私がきっと直してあげる」
榊原玲子は、そっと、スイッチに触れる。
光太郎の眼は、ゆっくりと閉じられる。
二つ並べられたベッドの上で、ゆっくりとした二つの静かな呼吸が続いた。
翼
榊原玲子は、ポーポーの手を取ろうとするが、ポーポーは拒んで手をよけた。
「光太郎は、何も心配しなくていいの。悪いお兄ちゃんのせいね。いけないお兄ちゃんよね……」
「僕は、もうみんな知ってるよ。ママが僕とジョーをこんな風にしたんだ」
「こんな風にって……」榊原玲子は、目の前のポーポーに、微笑んだ。
「自分のためだよ。ママは、自分のために僕たちをこんな風に……」
「何を言ってるの? あなたのために、ママは研究をして、ちゃんと直してあげたじゃない? あなたが眠ってた十五年の間……ずっと頑張ったのよ」
「違うよ……僕は、喋れるようにもなったし、いろんなことがわかって、いろんなことができるようになった。でも、ママは、自分のために使ったんだ……ママは、僕のことが嫌だったんだ。みんな、人がつくったものを自分のために」
「仕上げて形にしたのは、私よ……あなたの為よ」
風が吹いて、草の海を悶えさせた。流れる雲が三日月を隠す。
「あなたそれでも親なの? 自分の子どもに……!」
特殊部隊装備の男に肩を抑えられて膝をついたままの愛凪は、榊原玲子に言い放った。
「あなたにわかるかしら? イエローがアメリカの研究の世界でやっていくことがどんなことかわかる? 足下から全てが崩れていくような恐怖と絶望を異国の地で独り味わう感覚が。親にもなったことがないくせに、障がいのある子の親の気持ちがわかるかしら?」榊原玲子は、ポーポー越しに愛凪に視線をやる。「人工冬眠を手に入れた時。時間を手に入れたの。時間さえあれば……その通りになった。条一郎が目を開けた時、どんな感じがしたと思う? 全てが報われていく感覚よ! 全てがきれいに裏返っていった。不遇も何もかも、全てが報われたの! これで光太郎も――」
「ママは、狂ってる!」
「なんてこと言うの! 私は、あなたたちを産んだのよ! 二度も! 光太郎! あなたがそんなにおしゃべりができるようになったのは、誰のおかげ? 汽車のオモチャを持って、『ポーポー』としか言えなかったあなたを……今の力は、誰のおかげ? お兄ちゃんの、条一郎の目を覚ましたは誰? 言ってごらんなさい!」
「もう、ママと話すことはないよ」
ポーポーは、榊原玲子に背を向けて、愛凪たちに向かって歩き出す。
「待ちなさい」
「Don't move. Those dogs are under my control .Let go of the girl」
ポーポーは、愛凪の肩を抑える特殊部隊装備の男に向かって言った。
ヤミ太郎は、ゲンゲンの体をそっと地面に降ろして立ち上がった。不意に、草むらに気配を感じる。ヤミ太郎が視線を向けるとほぼ同時に、草むらから、片腕を失ったGINが立ち上がる。
ヤミ太郎は、ゲンゲンが持っていたライフルに手を伸ばす。
「いけない!」
ポーポーは、振りむいて、愛凪たちを守るように両手を広げる。
銃声が入り乱れる。
ヤミ太郎のライフルと四つ脚のライフルの銃弾が、GINを破壊する。
ヤミ太郎がポーポーに駆け寄る。
ポーポーは、すでに地面に仰向けに倒れていた。白いシャツの胸には、三つの銃創が見える。
ヤミ太郎は、ポーポーをやさしく抱き上げる。ヤミ太郎の手は、ポーポーの背中から流れ出る血液を感じていた。
「ポーポー……君は、僕の弟。光太郎なんだね」
「そうだよ。でも、僕は、もうポーポーでも光太郎でもない。僕は、僕……ジョー。君は生きなきゃいけない。君には、もう一度会わなきゃいけない人がいる。君を探している」ポーポーは苦しそうに息を飲んでから、笑顔をつくった。「会わなきゃ……君も……」
ポーポーは、ヤミ太郎の腕の中で、静かに目を閉じた。
ポーポーを抱きしめるヤミ太郎の胸に、声が聞こえる。
〈僕も君も消えてなくなる存在なんかじゃない。君には、見えるはずだ〉
ヤミ太郎は、声に従って暗い空を見上げる。
暗い空に光り輝く有翼の天使が、空へと踊るように舞い上がっていく。
〈君を信じろ。君自身を信じるんだ〉
〈僕は、君に会いたかった。君は、本当の自分を取り戻したんだね〉
一瞬の出会いに、二人の時間はゆっくりと流れた。
二体の四つ脚は、力を失って地面に伏せた。
「ああああああああ! お前のせいだ! 全部お前の! この闇太郎! また、お前は、私を絶望させた! 全部お前から始まった! お前さえいなければ! なんで光太郎が死んで、お前が生きてる!」榊原玲子は、叫んだ。
銃声が連続で響いた。銃弾は、ヤミ太郎の両足を撃ち抜いた。
両足を撃たれたヤミ太郎が、ポーポーの体を支えきれずに、背中のバックパックに抑えられるようにして、ポーポーの体に重なった。
愛凪の隣にいた特殊部隊装備の男は、ヤミ太郎に照準したままでいる。
「いやああああああ!」愛凪が叫ぶ。
もう一人の特殊部隊装備の男が、ヤミ太郎に照準を合わせたまま愛凪に近づき、ヤミ太郎に駆け寄ろうとする愛凪を抑える。もう一人は、名栗恭二の前に立ちふさがった。
榊原玲子は、ゆっくりと丁寧に「Good job. Do not shoot the head or torso」と言った。
ヤミ太郎は、愛凪の声に腕で体を起こす。
「愛凪さん……」
「条一郎。もうその体はダメよ。新しい体をあげるから母さんのところに帰って来なさい」
「博士」名栗恭二は、ライフルを向けられて両手を上げながらも、榊原玲子に語り掛ける。「あなたはきっと、義一郎教授の愛が欲しかったんだ。嫉妬だよ」
榊原玲子は、名栗恭二を一瞥しただけでほとんど無視して、指示を出す。「Shoot arms」
榊原玲子の指示に即座に従った銃弾が、ヤミ太郎の右腕と左腕を貫き、腕は千切れて地面に落ちる。さらに銃声が続いて、バックパックが火花を散らした。
「やめてえええ!」愛凪の悲痛な叫びが風に流され草の海を揺らす。「頭が、脳みそがあなたなんかじゃない! 頭に何入れられたって、あなたには、心がある! あなたの名前を言って!」
〈君は、永遠だ。人間の作った器に永遠は入りきらない。ジョー……条一郎。僕は、待っていた。君が、君自身の力で立ち上がるのを。心の力を使うんだ。心を解き放つんだ〉
雲の切れ間から、一条の光が射す。
「俺は、ジョー……加来条一郎……」両足を撃ち抜かれ、両腕を失いながら、加来条一郎は、ゆっくりと立ち上がる。
立ち上がった彼の背中には、プリズムで出来たように光輝く大きな翼が見える。光り輝く翼は、燃えるような七色の光を放つ。
「美しい……ああ……」榊原玲子は、放心したようにその翼に見とれ、力なく両の膝を地面に着いて、崩れるように座り込んだ。
愛凪の頬を流れる涙に光たちが灯る。
名栗恭二は、降り注ぐ光たちを受けとめるように両手を広げた。
銃を持った男たちは、その銃を下す。
加来条一郎であった彼は、踏み出すように大地に立ち、七色に輝く翼をはためかせる。
彼には、祝福する天使の姿が見えていた。
「俺は、自由だ。自由に姿を変える」
輝く翼から振り撒かれた光が辺りを覆っていった。
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