第14話-殺人姫-
そして、現在──
澪を乗せた車は、建設中のダムへと向かった。
「今夜、決行する。これが最後の仕事よ」
澪がそう命じると、彼女のお付きである30代半ばの運転手は従順に頷き、いつものように流れるような運転で、主を目的地まで運んだ。
「お嬢様」
シートベルトを外す澪に、運転手が声をかけた。
彼女はドアを開けながら、どうぞ、とばかりに視線で先を促した。
「お元気で。お嬢様にお仕えできて、大変幸せでございました。お供できませんのが、口惜しゅうございます」
バックミラー越しに自分を見つめる涙の浮いた眼に、澪は静かに流し目を向ける。
澪は車を降り、運転席側へ回って、その窓を指先でノックした。
「あなたとは、ずいぶん長い付き合いになるわね。8歳の時からだから」
「はい、まさしく」
窓を開けて、じかに主の顔を見上げながら、運転手は微笑んだ。
「全身全霊をもって、お仕えしてまいりました。お父様の命であったからではございません。私自身が、お嬢様をお独りにはすまい、私だけは、お嬢様の味方であらねばならないと、固く誓ったればこそにございます」
「なあに、それ。酔っているの?」
「あなた様にお仕えしてから、酔っぱらったことは、ございません」
「ふふふ、いいえ。あなた、酔っているわよ」
くすくすと笑って、澪は運転手の顎に手を添えた。
その妖しく輝く目に、彼はハッと息を詰めて見惚れた。
「あなたは、本当によく私に尽くしてくれたわね。初めて人を殺した夜も、何も言わずに私を手伝い、全ての工作を請け負ってくれた。それからも今日まで、ずうっと傍にいて、サポートしてくれたわね」
「当然のことです。それが私の務めでした」
運転手は熱を込めて言う。
自分に差し伸べられた澪の手を取り、接吻せんばかりに。
「私だけが、あなたの理解者でした。お父様も、医者も、周りの者たちも、誰もあなたの本当の姿をご存知でない。私だけが、承知しておりました。お嬢様をお助けする理由は、それだけで十分でございました」
「うそつき」
澪は囁く。
息を呑む運転手に、真っ白な歯を見せて笑う。
「幼いころから……あなたの私を見る目の意味に、気付かないと思った? あなたは、いつも私を見ていたわ。とても眩しそうに、縋るように、祈るように……」
「……お気づきで」
「知ってたわ。あなたは私が欲しいんだって。……今も?」
「出会った時から、変わらずに。あなたを、ひと目見た時から……あなたは、私の光でした」
そう告げられた澪は、腰をかがめて、運転手に目線を合わせた。
今や彼は、ずっと押し隠していた情動を隠そうともしていなかった。
澪は、男の武骨な手を取って、自らの頬に触れさせた。
「あなたの想いを感じながら、私が、どう思っていたか、あなた、わかる?」
男が、熱っぽく澪を見つめ、続きを待つ。
女は顔を寄せて、鼻先が触れ合うか触れ合わないかの距離で、吐息交じりに、
「きもちわるい」
「――え、っ……」
熱情の気配を宿したまま、ぽかん、と見開かれる眼。
みっともなく唇を半開きにしたまま固まる彼を、澪は蔑むように笑った。
「あははっ、なにそれ? あなたって、こんな時まで本当に、つまらないのね」
澪は、さっと車から離れ、ダムへの入り口となる通路に大股で踏み入っていった。
運転手は、その背中を見送りながら、何を言われたのか分からない、とばかりに喘いだ。
彼は澪を追うべくシートベルトを外して車の外へ出ようとし、ふと後部座席に彼女がいつも使っているブランド物のバッグが放置されていることに気づいた。
「お嬢様! お鞄を、」
そして、そこに収まっていた爆弾が爆発した。
炎の光と、熱と、風を背中に感じながら、澪は何の感慨も無さそうに歩を進める。
そこに、カラカラと転がってくるものがあり、澪は足元を見下ろした。
車のバックミラーだった。
そこに映り込む女の顔に、澪は首筋を緊張させ、さっと周囲を見渡した。
だが、そこに映っていたのは澪自身であり、他には誰もいない。
彼女は、その事実を把握すると、それきり二度と振り返らずに、闇の奥深くへと進んだ。
***
朝に目覚めて、洗面所の鏡に映る像を認める。
そうして先ず試みるのは、その主が誰なのかを推測することだ。
鏡が確かに設置されていること、その角度、他者の気配、それらを勘案し――
そこに立っている誰かが自分自身以外にあり得ない、という結論に達して、初めて彼女は気を緩めることが出来る。
だが顔を濯ぎ、鏡を覗き込めば、そこには、やはり初めて見る相貌が、己を覗き返している。
目を凝らしてみるが、これまた特徴の無い顔だ。
いや……整い過ぎている。
所謂、顔が良いとされる人物ほど、彼女の意識には引っかからない。
神崎澪が人の顔を認識できなくなったのは、8歳の時分だった。
乗っていた車が事故を起こし、その時に脳が損傷を受けた。
結果、彼女は人の顔を記憶できない――相貌失認症と相成ったのである。
目鼻や口といった、ひとつひとつの顔のパーツは認識できる。
けれどもそれら全てが合わさり構成する顔の全体像を、それと判断できないのだ。
そんな風に彼女は、退院して以降の人生を顔の無い人々に囲まれて生きることになった。
その一方で澪は歳を重ねるにつれ、他者を正確に判別する術が必要になっていく。
何故なら少女は、ある企業の社長のひとり娘だったからである。
父親の会社はここへ来て更なる急成長を見せ、その手を広く伸ばそうとしていた。
もちろん、取引相手との関係は、あくまでビジネス上のものだ。
しかし同時に、それもまた血の通った繋がりであると言える。
その世界へ踏み入っていくということは、そんな人間関係を絶えず作っていくということだ。
なにより父は、己の愛娘にこそ、心血を注いで育て上げた城を継いでほしいと望んでいた。
ともかく、澪は事故以前と全く変わらぬ生活を送る必要に迫られた。
だから澪は、人間観察に神経を尖らせた。
周囲にひしめく誰もの身体的な特徴、
咄嗟の動作に出る癖、
特徴的な声――
そういった要素を、事細かく記憶することにしたのである。
病的なまでに、
微に入り細に渡って。
果たして少女は成し遂げた。
驚異的な集中力と、切っ掛けに紐づけて素早く記憶情報を引き出せる柔軟性が、それを可能にした。
神崎澪は天才だった。
幸運なことに。
そして不幸なことに。
強迫観念に突き動かされるのにも似た、間断なき作業。
終わりの見えないストレス――
果てに少女はパンクした。
腹の底から湧き上がった衝動は、その辺を歩いていた他者が引き金だった。
その〝誰か〟は、ひどくフラフラとしていた。
まるでクラゲが波に流されるみたいに生きるともなしに生き、歩くともなしに歩いていた。
その在り方は、記憶するということを、澪にまるで許さない。
じっと見つめ、しかし目を閉じて再び視認するたび、それが先に見ていたのと同じ存在だと得心することが叶わない。
いや、さっきと同じ奴、きっとそうに違いない。
でも本当に、そうだろうか?
絶対に?
……間違いなく?
終わり無き自問自答、そのジレンマ。
――ぷつん。
そうして神崎澪は最初の殺人を犯した。
***
「丁度、組み上がりました。これからエネルギーパックを取り付けるところです」
建設中のダムの最奥で、監督役を務めていた男が、神崎澪に笑みを振りまく。
男の指し示す、己の脚で直立を守る奇妙な全身鎧は、僅かに前へ傾ぐような姿勢で沈黙している。
その背中の窪みへ大きな箱がクレーンで吊り上げられ、装着された。
「これで〝次元の壁〟とやらを突破できるんですね?」
「ええ。しかし、何度も言いますが片道切符ですよ」
「充分です」
澪は微笑み、傍らへ視線を向けた。
「あの、作業着の男たちが、そう?」
「ええ、集めた難民どもです。ご心配なく。連中は何にも気づいちゃいません。情報が漏れる危険は皆無です。まぁ無事に事が成れば、そんなもの要らぬ心配ですがね」
「素晴らしい取引でした。もしもまた、機会がありましたら」
「ええ、今後ともご贔屓に」
澪は鎧――パワードスーツを起動させる。
頭部が開き、身体の前面が割れ、特殊な衝撃吸収材の敷かれた内部が露わになる。
澪はジャケットを脱ぎ捨て、その空洞の内側へ体を滑り込ませた。
「いかがです?」
「悪くない。けれど、ちょっとピンと来ないわね」
試着した服の具合を確かめるように、澪は両腕を上げ、上半身を捻ってみる。
次にその、のっぺらぼうのような顔面が、ゆっくり作業員たちに振り向けられた。
「ちょっと試しに、殺してみましょうか」
澪はパワードスーツを駆り、寄り集まる作業員たちに歩み寄っていく。
その異常な光景を前に、恐慌に駆られる難民の男たち。
彼らは口々に裏返った叫びを上げ、手近な相手を盾にしようと、互いに後退しながらの掴み合いを始めた。
だが、その中にひとりだけ、まるで動じていない男がいる。
浅黒い肌をした、その巨漢は、のっそりと仕事仲間を押しのけて、
「よっ」
男が右手を中空にかざす。
するとその手首に巻かれていた厚手のブレスレッドが、薄く前腕を覆うように展開した。瞬く間に鋼は指の先までを包み隠し、掌には円形の機構が出現して、
「きゃあっ!?」
弾けるような閃きの直後、男の周囲をぐるりと覆うように薄い光の膜が発生した。
それに触れた途端、澪は反発を受けてたたらを踏む。
その隙に巨漢は背後の難民たちに「ゴー!」と叫んだ。
男たちは、いっせいに駆け出し、通路の向こうへと逃れていく。
澪は追おうとしたが、それも光の膜に遮られてしまった。
「誰が誰だか把握するくれぇの工夫はあってもよかったんじゃねぇか? 潜入してくれと言ってるようなもんだ。ずさん過ぎだぜ、嬢ちゃんよ」
「誰なの、あなたは!?」
澪は誰何の声を上げた。
それに答えたのは、傍らの監督役の方だった。
「……オリュンポスの騎士か。早すぎる、すでに潜入済みとは……!」
「なんですって……? どういうこと!?」
監督役の男は、しかし語るつもりは無いらしい。
悪態を吐き、澪は立ち上がって謎の巨漢に向かい合う。
「あぁ、待てよ。相手してやりたい気持ちもあるが、ここは譲ると決めてるんでな」
言って、男は脇に退く。
直後、その背後に続く通路の向こうから、憶えのある声が響いた。
「悪いな、ジャック」
近付いてくる、重いブーツの靴底の音。
果たして光の中へ、ひとりの人物が歩み出る。
澪には、すぐにそれと判った。
そこに立っているのは、十和成哉に他ならない──
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