第9話-侵略-

 船の奥深くへと運ばれた成哉は、薄暗い小部屋へと投げ込まれた。


 すぐに鉄扉が閉められ、彼は、その8畳ほどの空間に閉じ込められる。

 息を吸った途端、強烈な臭気が、成哉の脳を痺れさせる。

 鉄サビと、カビ、そして腐った水……それらを凝縮したような、耐えがたい異臭。


 体を起こすと頬からポロポロと欠片が零れた。

 床の縞鋼板を覆っている赤サビだろう。

 鉄格子のような小窓から、陽光と、生ぬるい潮風が入ってきていた。

 ざざん、ざざん、と聞こえてくる、波の音。


「まずい、このままじゃ」


 成哉には、確信めいた予感があった。

 このままでは死ぬ──殺される。


「部屋から出ないと……」


 でも、どうやって?


 その時、成哉はブーツのつま先で、何かを蹴とばした。

 それはビッシリとサビに浸食された、五寸釘だった。


「ダメだ……こんなの、なんの役にも立たない」


 その時、ガチャンと音を立てて、ドアノブが回った。

 振り向いた成哉の目の前で、重い扉が耳障りな金属音と共に、ゆっくりと開き、


「へへぇ……いいじゃぁ、ねぇか……」


「な──」


 のそり、と姿を現した何かに、成哉は呆然と立ち尽くした。


 それは見上げんばかりの、肉の塊だった。

 そいつが入り口に体を押し込んだ瞬間、部屋の中に、すえたような臭いが、立ち込める。

 ぜい肉に埋もれて、首は無かった。

 腕も、腹も、足にも段が生じ、焼いたパン生地のように盛り上がっている。

 垂れさがった腹の肉が、股下までをスカートのように覆っていた。


「好きにしていいのか?」


 肉ダルマの呼びかけに、ドアの陰からもうひとり、ひょいと顔を覗かせた。


「あぁ。殺しさえしなけりゃ、頭がイッちまおうが構わねぇとさ」

「へへぇ、有り難い。ありゃ俺の好みだ」

「終わったら摘まみ食いさせろよ、俺にも」

「いいぞ。ユルユルで良けりゃあ」


 そのやり取りを聞いて、成哉は何が起ころうとしているのかを、たちどころに理解する。

 つまり、こいつは──俺のことを。


「や……やめろ……」

「いいぞぉ、抵抗してみろ。従順なだけじゃ、面白くないから」


 ギィィ……と、鋸を引くような金属音が響く。

 そこに奴が足を引きずる、ずりずりとヤスリをかけるような音が、重なる。


「俺はジェイコブ。遊ぼうぜ、ボウヤ」


 そいつの背後でドアが大きな音を立てた。

 成哉は化け物とふたりきり、この檻に閉じ込められたのだと悟った。


「くっ、来るなぁ!?」

「ははは……なんだ、そりゃあ? オモチャかい?」

「────っ!」


 成哉は膨れ上がった腹に向けて、拾った釘を突き出す。

 切っ先から半分以上が肉の中に埋まり……しかし怪物は、微動だにしない。


「あぁあああぁッ!!」


 刺さったままの釘を手放して、パンチやキックを浴びせる。


 でも、やはり効果は無い。

 愉快そうにノドの肉を震わせ、ジェイコブは成哉の拳を、手首を掴んで止めた。


「あ……っ、離し……っ、ぐぅぅ!?」


 折れそうなくらいにギリリと手首を圧迫されて、成哉は思わず結んだ指を開いてしまった。

 その手の平の中心へジェイコブは、横腹から引き抜いた釘を突き込んだ。


「ぎっ……!?」


 動きの止まった成哉の腹を、ジェイコブの太い足が蹴り上げた。

 凄まじい痛みが彼の全身を刺し貫いて、息が止まり、声さえも出なくなる。


「あう──」


 体を折って横倒れに投げ出され、強く側頭部を打った。

 意識が遠くなり、視界が白む……。


「ぐげっ……!?」


 何か巨大なものが成哉の全身に圧し掛かってきた。

 目をしばたたけば、仰向けに倒れる彼の上に、ジェイコブの巨体が乗っていた。


「はははぁ……捕まえた」


 ジェイコブが、ニヤリと笑う。

 吐きかけられる息で、目がヒリヒリする。


「はっ、離せ! 離してください……お願いします、ごめんなさい、許してください……!!」

「なんだ、嫌かい? へへへ、そうだろうなぁ? 積極的なのも好きだが……嬉しいね、やっぱ、お前みてぇな奴を組み敷くのは格別、楽しいからな」

「ひっ──……」


 成哉は、必死に抵抗する。

 でっぷりとした胸板を押して、上半身を支える二の腕を叩いて、なんとか体の上から退かせようと試みる。


 だけどジェイコブはビクともしない。


 その巨体、太い四肢……体重は優に、100キロを超えるだろう。

 文字通り、手も足も出ない。

 抗う成哉を嘲笑うように、ジェイコブは片手で彼の両手首を掴み上げる。

 それは、そのまま頭上に固定された。

 そうして動きを封じられた成哉の体を、奴のもう一方の手がまさぐる。


「ははぁ……うまそうな肉付きだぁ……いいねぇ、青い果実。嫌いじゃねぇぜぇ……」

「――――っ、……!」


 あまりの不快感に、成哉は声にならない悲鳴を上げた。

 味わったことの無い種類の恐怖が全身を萎えさせ、あらゆる力が抜けてしまう。

 息が出来ない。

 意識が体から抜け出て、どこかの片隅に小さく引っ込んだようだった。

 何をされているかは感じ取れるのに、思考が、その把握を頑として拒んでいる。

意識と肉体とが、引き剥がされてしまったかのような奇怪な感覚……。


 ビッと、音がした。


 ジェイコブが成哉のシャツの前を破いたのだ。

 そして奴は成哉の首筋に顔を埋めて、肌の上に黄色く変色した舌を走らせた。

 酸っぱい臭いが自分の体から立ち上るのを、成哉は嗅いだ。

 全身が、意思とは無関係にガクガクと震えた。


 あぁ……これは侵略だ。


 それは、ひとつの実感だった。

 奴は俺を、自分のものにしようとしている。

 十和成哉という人間を屈服させ、支配して、破壊しようとしている。


 一個の命としての十和成哉。


 その尊厳、価値、つまり――魂。


 決して誰にも踏み込ませてはならない領域。


 そこに奴は土足で入り込み踏み荒らし、腐臭を放つ何かで汚染しようとしている。

 抵抗も絶叫も、意味を持たない。

 むしろ、それこそ目の前の怪物には甘美なご馳走で。

 少年の敵意も、涙も嘆願も、全てがこの獣の情欲を煽るスパイスで、奴は、それらを丸ごと堪能したいと欲している。


 俺は捕食されつつあるのだ、と成哉は思った。

 敵は、俺という人格、存在そのものを貪り、しゃぶりつくそうとしている。


 ……その感覚には、憶えがあった。


 思い出したくない記憶を、刺激される。

 無意識に封じ込めていた記憶を。


 ――あの夜。


 山の中腹、深い森の奥底。

 闇の中で成哉は、ひとりの少女に切り刻まれた。

 彼女は彼の体を少しずつ、意味を持たない肉のクズに変えていった。

 小さく小さく切り取って、削り取って……まるで、そうすることで、彼を構成する核となる何かと、それに纏わりつく肉との境界を探れるのだ、と言わんばかりに。


 成哉は懇願した。

 許してくれ、と。

 助けてください、と。

 あなたの欲する全てに応え、魂の底から尽くします、と。


 ありとあらゆる忠誠を誓った。

 きっと成哉は、請われれば彼女――神崎澪の靴を舐めたろう。

 彼女を自分の神と仰ぎ、永遠の愛を誓いさえもしたかもしれない。

 この世のものと思えないほど汚らしい絶叫をひり出した彼はそれほどに、あのクラスメイトに一切合切を差し出して、頭を垂れ、降伏していた。


 そうだ、神崎は俺の肉体を壊し、精神さえも破壊した、と成哉は思った。

 そして圧倒的な暴力の前に粉砕された十和成哉に、誰より彼自身が絶望したのだ。


 こんなものか。

 俺という人間は、この程度の……

 信念だとか意地だとか、それは、呆気なく打ち捨ててしまえる程度の幻で。


 ほら。


 どれだけ肉を削いでいっても何処からも、

 魂なんて上等なものは出て来やしない――


「どうした?」


 ジェイコブが言った。

 怪物は成哉の腹を舌でなぞりながら、囁いた。


「本当に骨が無いんだな?」


 刹那、成哉の中で何かが変わった。

 まるで、パチンとスイッチが切り替わったみたいに。


 思考が冴えわたり、頭の底が急速に冷えていく。

 心臓の鼓動は極めて静かになり、体温さえ、すっと下がったようだった。


 成哉は、自分の下腹部に屈み込むジェイコブに流し目を向ける。

 そうして、薄く微笑んだ。

 彼の細めた目の輝きに、奴は息を呑んだ。


「へぇ、驚いた、その気になったってかい?」


 その嬉しげな囁きを受けて、成哉は口の中で囁く。

 だが何を言ったか聞き取れなかったらしく、ジェイコブは上体を持ち上げ、額を突き合わせるような体勢になった。


「なんだってぇ? ベイビー、ん?」


 成哉は、もう一度ささやく。

 すると今度は、奴は彼の口元に、耳を寄せた。


「なんだ? 言ってみなよ」


 そして成哉は、望みの通りにしてやった。

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