第10話 倶利伽羅峠の戦い(前編)
五月の初夏の陽射しが、越中国
新緑が美しく輝き、鳥のさえずりが谷間に響く。
――しかし、その平和な風景は、間もなく血と炎に染まることになる。
峠の向こうから、地響きが聞こえてきた。
ドドドドド――
大地を揺るがす、無数の馬蹄の音。
そして、それに続く重い足音。
やがて、山の稜線に赤い旗が現れた。
平家の軍旗だった。
その威容は、まさに圧巻だった。
赤い鎧に身を包んだ騎馬武者が、雲霞のごとく連なっている。
槍の穂先が陽光を反射し、まるで銀の海のように輝いていた。
軍旗がはためき、陣太鼓の音が山々に響く。
先頭を行く維盛の姿は、まさに平家の公達らしい優雅さを湛えていた。
美しい鎧に身を包み、立派な馬にまたがっている。
しかし、その瞳には冷酷な光が宿っていた。
「
維盛の声が、風に乗って響いた。
平家の十万の大軍は、倶利伽羅峠の麓に陣を敷いた。
その規模は想像を絶するものだった。
見渡す限り、平家の赤い旗が翻っている。
陣営の煙が立ち上り、武器の音が絶え間なく響いていた。
一方、義仲軍は峠の上に陣取っていた。
その数、三万。
平家軍の三分の一にも満たない兵力だ。
しかし、義仲軍の武将たちの表情に、絶望の色は微塵もなかった。
これまでの勝利が、彼らに自信を与えていた。
「さすがに、これほどの大軍とは……」
「だが、我らには地の利がある」
「数だけが戦の勝敗を決めるわけではありません」
義仲は、平家の大軍を見下ろしながら、静かに立っていた。
金色の瞳が、敵陣を鋭く見据えている。
「ともえ」
義仲が、隣に立つともえに声をかけた。
「お前の見立てはどうだ?」
美しい鎧に身を包み、薙刀を背負ったともえは、少し考え込んでから答えた。
「確かに大軍です。しかし、それは必ずしも利点とは限りません」
ともえの声は、冷静だった。
「あれほどの大軍を、この狭い峠で展開するのは困難でしょう。むしろ、数の多さが仇となるかもしれません」
ともえの分析に、武将たちは頷いた。
その戦略的洞察力は、もはや誰もが認めるところだった。
---
その夜、義仲軍の本陣では、軍議が開かれた。
松明の炎が揺らめき、武将たちの顔を照らしている。
「敵は明日、総攻撃を仕掛けてくるだろう」
義仲が、重々しく口を開いた。
「策があるものは、名乗り出よ」
即座に、ともえが立ち上がった。
「ひとつ、提案がございます」
ともえの声に、全員の視線が集まった。
「大陸の古い兵法書に、とある将軍が用いた策があります。『火牛の計』と呼ばれるものです」
武将たちは、聞き慣れない戦術名に困惑した。
「火牛の計、とは?」
兼平が尋ねた。
「牛の角に松明を結び付け、敵陣に突入させる戦術です」
その大胆な作戦に、武将たちがざわめく。
ともえは続けた。
「しかし、ただ牛を走らせるだけでは、効果はそれほど見込めません。そのため、私はこれを改良した策を考えました」
ともえは、地図を広げた。
「まず、正確な風向きを把握します。今の季節、夜になると、山から谷へと風が吹きます」
ともえの指が、地図上を動いた。
「牛に松明をつけるだけでなく、よく燃える藁を一緒に背負わせます。そして、風上から風下へと一気に突入させます」
武将たちは皆、ともえの説明に聞き入る。
「さらに、夜襲と組み合わせます。暗闇の中で突然現れる火の牛の大軍――敵の混乱は凄まじいものになるでしょう」
ともえの戦略は、現代の科学的知識をこの時代に応用したものだった。
風向き、地形、心理的効果。
すべてを計算し尽くした、精密な作戦。
「牛の突入と同時に、別働隊で敵の退路を断ちます。混乱した敵を、完全に包囲するのです」
ともえの提案に、武将たちは感嘆した。
「見事な策だ」
義仲も、感銘の声でともえに告げる。
「よく考えた。大したものだ」
義仲の賞賛に、ともえの心は躍った。
そしてそれ以上に、義仲の信頼を勝ち取ることができた。
「では、ともえの策を採用する」
義仲の決断に、武将たちは力強く頷いた。
---
軍議が終わった後、兼平と親忠は二人だけで話していた。
松明の炎が、二人の顔を照らしている。
「いよいよ、決戦ですね」
親忠が、緊張した面持ちで言った。
「ああ。これまでとは規模が全く違う」
兼平の声にも、緊張が滲んでいた。
二人は、しばらく無言で立っていた。
やがて、親忠が口を開いた。
「兼平殿、お聞きしたいことがあります」
「何だ?」
「もし……もしも、この戦いで我らが討ち死にしたら、ともえ様は……」
親忠の声は、震えていた。
兼平は、親忠の想いを理解していた。
自分と同じ、ともえへの想いを抱く若者。
「そうか。親忠、お前……」
「はい。おそれながら私は、初めてお目通りしたあの日よりずっと、ともえ様に懸想しております」
親忠の禁断の告白に、兼平は複雑な表情を浮かべた。
「……俺もだ」
兼平の言葉に、親忠は驚いた。
「兼平殿も? しかし、ともえ様は……」
「そう、実の妹だ。分かっている。だが、心とはどうしようもないものだ」
兼平の眼差しが、遠くを見つめる。
兼平の苦悩が、親忠の胸に響いた。
「我らは、同じ願いを抱く者同士だな」
兼平の言葉に、親忠は笑って頷いた。
「はい。そして、同じように叶わぬ想いを抱く者同士でもあります」
二人の間に、奇妙で、そして確かな連帯感が生まれた。
「この戦い、必ず勝ち抜こう」
兼平が、力強く言った。
「ともえを守るために」
「はい、ともえ様のために」
親忠も、決意を込めて答えた。
二人は、固い握手を交わした。
---
一方、義仲とともえは、本陣の外で語り合っていた。
夜空に星が瞬き、涼しい風が頬を撫でていく。
「明日の戦い、不安はないか?」
義仲の問いかけに、ともえは微笑んだ。
「もちろん、不安がないと言えば嘘になります。ですがそれ以上に、義仲様と共に戦えることを、私は誇りに思います」
ともえの言葉に、義仲の心は動く。
もはや契約の相手としてではなく、真の主従としてともえを見ている自分がいた。
「俺も、お前がいてくれて心強い」
義仲の率直な信頼に、ともえは胸が熱くなった。
「ともえ、もしこの戦いに勝利したら……」
言いかけて、義仲は口を閉じた。
「何でしょうか?」
「いや……それは、戦いが終わるまで、とっておくことにしよう」
義仲は、自分の感情を抑えた。
まだ、最後の足枷を解くことはできなかった。
---
夜が更けていく。
義仲軍の兵士たちは、火牛の計の準備に追われていた。
数百頭の牛が集められ、その角に松明が結び付けられる。
背中には、油を染み込ませた藁束が載せられた。
ともえはそれらの作業を指揮していた。
風向きを何度も確認し、突入の刻を計算する。
「風向きは良好です。月も雲に隠れており、暗闇の効果も期待できます」
ともえの報告に、義仲は頷いた。
「よし。では、作戦を開始する」
深夜、義仲軍は静かに動き出した。
牛の群れが、闇の中を進んでいく。
平家の陣営は、静まり返っていた。
大軍の驕りか、警戒は緩んでいる。
「今です!」
ともえの合図で、松明に火が灯された。
数百の火が、暗闇に浮かび上がる。
そして、牛の群れが解き放たれた。
モォォォォ――
牛の鳴き声が、夜空に響いた。
角に火をつけられた牛たちは、恐怖と痛みで狂ったように走り回る。
火の玉となった牛の群れが、平家の陣営に突入した。
ドドドドド!
大地を揺るがす蹄の音。
そして、炎が陣営を包み込んでいく。
「火事だ!」
「化け物が現れたぞ!」
平家の兵士たちは、たちまち混乱に陥った。
暗闇の中で突然現れた、火の牛の大軍。
それはまさに、地獄の使いのように見えた。
陣営は、手がつけられないほどの大混乱だった。
兵士たちは、我先にと逃げ惑う。
指揮系統が完全に麻痺していた。
「成功です!」
ともえが、興奮を抑えて言った。
火牛の計は、予想以上の効果を上げていた。
十万の大軍が、たった数百頭の牛によって大混乱に陥ったのだ。
しかし、これはまだ序章に過ぎなかった。
真の戦いは、ここから始まるのだ。
義仲は、刀を抜いた。
その刃が、炎の光を反射して輝く。
「全軍、突撃!」
義仲の号令が、夜空に響いた。
三万の義仲軍が、一斉に動き出した。
鬨の声が山々に響き、大地が震えた。
歴史にその名を残す『倶利伽羅峠の戦い』が、ついに始まった。
炎と血と鉄の音が、夜を支配する。
源平合戦史上最大の合戦の幕が、いま切って落とされた。
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