第5話 薙刀試合
秋の朝日が、木曾谷に差し込む。
婚礼から数日が過ぎた朝、ともえは美しい薄紅色の小袖に身を包んでいた。
絹の生地が肌に心地よく、袖口には金糸で菊の花が刺繍されている。
髪は丁寧に結い上げられ、簪が朝日を受けて輝いていた。
まさに「花もはじらう美しさ」と評されるにふさわしい、可憐な美少女の姿だった。
しかし、ともえはまだ新しい生活に慣れずにいた。
今井家での質素な暮らしから一転、侍女たちに囲まれる姫扱いの生活。
朝の身支度から食事の世話まで、すべてが手厚く行われる。
「ともえ様、白湯をお持ちしました」
侍女の一人が恭しく白湯を差し出した。
ともえは微笑んで受け取ったが、内心では戸惑いを隠せない。
「ありがとう」
ともえは白湯を飲みながら、義仲との『契約』のことを思い出す。
感情を持ち込まない、という約束。
あのようにいけ好かない尊大な男など、どうやっても好きになりようがない。
それでもなぜか、胸の奥で何かが疼いた。
---
その頃、義仲の居館には、義仲軍の武将たちが噂に花を咲かせていた。
彼らの話題は、もっぱら義仲の新しい妻についてだ。
「それにしても、義仲様の奥方は美しいお方だ」
中堅武将の一人、
「確かに美しいが、所詮は飾り物の妻だろう」
同じく中堅の
「そもそも、義仲様ともあろうお方が、なぜ今井などの娘を娶ったのだ」
「家格からして、我らが棟梁には不釣り合いではないか」
武将たちの会話は、次第に辛辣になっていく。
この時代、女は政略結婚の道具でしかなかった。
今井家の娘を娶るなど、源氏の将たる義仲にとっては何のメリットもない。
それどころか、義仲の家格を貶める可能性さえある。
それが、武将たちには不満だったのだ。
「まあ、美しい妻を持つのも、棟梁の威厳のうちだろう」
村山が苦笑いを浮かべた。
「それもそうだな。寝所で愛でるには十分というものだ」
武将たちの笑い声が、居館に響いた。
しかし、その笑い声は間もなく止むことになる。
---
昼下がり。
義仲はともえを私室に呼びつけ、人払いをした。
二人だけの空間で、義仲の金色の瞳がともえを見据える。
「俺の部下どもが、お前を侮っているようだな」
義仲の声は低い。
ともえは一瞬身を竦ませたが、毅然とした態度で応じた。
「はい、存じております」
「俺は、部下に侮られるような女を娶った覚えはない」
冷たい言葉が響く。
「棟梁の嫁の地位は、自分で勝ち取れ」
ともえは即座に、義仲の意図を理解した。
これは命令だ。
義仲の妻として、相応しい立場を確立しろということだ。
「ですが、私の実家が家格で劣るのは事実です。どのようにすれば……」
「明日、武将たちの前で武芸を披露しろ。実力で黙らせてやれ」
その言葉に、ともえの心臓が激しく跳ねる。
武芸の披露――
それは、この時代の女性としては、極めて異例のことだった。
「しかし、女の身で武芸の披露などと、聞いたことがありませぬ」
「俺が命じているのだ。従え」
この館では、義仲の命令は絶対だ。
ともえは観念した。
「承知いたしました」
実のところ、ともえの心の奥では、また別の感情が芽生えていた。
というのも、妹を心配した兼平が、ともえの輿入れと共に、将として義仲に召し抱えられていたからだ。
今井家、特に兄、兼平の名誉のために、この命令は必ず成功させなければならない。
「お前なら、愚かな人間どもを黙らせることができるだろう」
義仲の言葉には、わずかな期待が込められているようにも聞こえた。
---
翌日の朝、居館の中庭には、試合場が設けられていた。
武将たちが集まり、ざわめきが起こっている。
「義仲様の奥方が、武芸を披露されるらしい」
「どうせ、女の戯れ程度のものだろう」
「まあ、見物としては面白いかもしれんな」
「しかし、義仲様も一体何を考えておられるのやら……」
武将たちの反応は、予想通りのものだった。
誰も、ともえの実力を知らない。
ともえは控えの間で、薙刀を手に正座していた。
慣れ親しんだ獲物を手に取った瞬間、不思議と気持ちが引き締まる。
「ともえ様、お時間です」
侍女の声に、ともえは深く息を吸い込んだ。
今井家の名誉がかかっている。
兄の兼平に、恥をかかせるわけにはいかない。
---
中庭に出ると、武将たちの視線が一斉にともえに向けられた。
愛らしい面立ちの美少女が、艶やかな袴姿で薙刀を持つ姿は、確かに異様だった。
義仲が高座から見下ろしている。
金色の瞳に、期待と興味を宿して。
「それでは、始めよ」
義仲の声が響いた。
対戦相手は、中堅武将の村山義直だった。
彼は木刀を手にし、軽い気持ちで構えている。
「奥方様、怪我をされませぬよう手加減いたしますゆえ、どうかご安心召されよ」
村山の言葉には、明らかに侮りがあった。
ともえは静かに薙刀を構える。
「お気遣いなく。全力でお相手ください」
ともえの声が凛として響く。
その瞬間、村山は何かを感じ取った。
この女は、ただの飾り物などではない。
「始め!」
義仲の合図と共に、戦いが始まった。
村山が軽く木刀を振り下ろす。
しかし――
シュッ!
ともえの薙刀が、風を切って村山の攻撃を受け流した。
流れるような動き、的確な間合い。
村山の目が見開かれた。
「なんと……!」
ガキン!
今度は村山も、本気で攻撃を仕掛けた。
しかし、ともえは冷静に対応する。
薙刀の長い間合いを活かし、村山を寄せ付けない。
ザッ、ザッ、ザッ!
ともえの足さばきは、実に軽やかだった。
まるで天女の舞うがごとく、村山の攻撃をかわしていく。
「これは……本物だ!」
見ていた武将たちがざわめいた。
誰もが、ともえの実力に驚愕していた。
ヒュン!
ともえの薙刀が、村山の木刀を弾き飛ばした。
そして、薙刀の切っ先が村山の喉元に突きつけられる。
「参った……」
村山は完全に降参した。
名のある武将が、戦を知らぬ少女に完敗したのだ。
中庭は静寂に包まれた。
誰もが、信じられないという表情を浮かべている。
「これほどの腕前とは……」
「義仲様の眼力、恐るべし」
武将たちの態度が、一変した。
侮りの色は完全に消え、代わりに敬意の念が宿る。
兼平は誇らしげな表情を浮かべた。
自ら手ほどきした妹の実力を知るとはいえ、これほど見事な勝利は予想以上だった。
そして義仲もまた、満足そうに頷く。
ともえが自分の立場に相応しい実力を示したことを、彼も評価していた。
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試合後、武将たちは我先にと、ともえを囲んで話しかけてきた。
「奥方様、恐れ入りました」
「このような腕前をお持ちとは、驚きました」
「今後ともよろしくお願いいたします」
彼らの態度は、完全に変わっていた。
もはや『飾り物の妻』などと言う者はいない。
ともえは、謙虚に応対した。
「ありがとうございます。まだまだ未熟な身ですが、精進いたします」
その言葉に、武将たちはさらに感心した。
実力だけでなく、人格も備わっている。
その時、義仲が立ち上がった。
武将たちの注目が、一斉に主に向けられる。
「今後は、ともえを軍議に参加させる」
その宣言に、武将たちは驚いた。
女が軍議に参加するなど、前代未聞だ。
しかし、ともえの実力を目の当たりにした今、誰も反対する者はいなかった。
「はっ!」
武将たちは一斉に頭を下げた。
ともえの新たな立ち位置が、正式に確立された瞬間だった。
ともえは深く息を吸い込んだ。
これで、義仲軍の一員として認められた。
『契約』の相手として、相応しい地位を得ることができた。
心の奥で、複雑な感情が渦巻く。
義仲の期待に応えることができた喜び。
そして『契約』を超えた何かを感じ始めている自分への戸惑い。
義仲もまたともえを見つめながら、似たような感情を抱いていた。
ともえの有用性を確認できた満足感。
そして、人間に対する見方が微妙に変化し始めている自分への困惑。
秋の夕日が、木曾谷の居館を染めていた。
新しい章の始まりを告げるように、美しく、そして静かに。
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