第11話 廃墟の向こう、響く歌声
大阪市西区、阿波座。かつての商店街の活気は薄れ、建て替えられた真新しいマンション群の間に、古びた団地がひっそりと残されていた。美咲とれいは、楽器店で得た情報を元に、その団地の一角を目指していた。店主が言っていた「NPO法人 虹の広場」があった場所や。しかし、その面影はどこにも見当たらへん。
「たしか、この辺りの集会所やったはずなんやけどねぇ……」
れいは、古い地図と、目の前の風景を交互に見比べながら、首を傾げた。彼女の記憶の中の風景と、目の前の現実が、大きくかけ離れているようやった。団地の建物は、あちこち外壁が剥がれ落ち、窓ガラスが割れている部屋も目につく。人気のないその場所は、時間の流れから取り残されたみたいやった。
美咲は、れいの隣を歩きながら、胸の奥で、かすかな不安を感じていた。せっかく見つけた手掛かりが、ここで途絶えてしまうんやろうか。しかし、母とれいの夢を、ここで終わらせたくなかった。
団地の奥へと進むと、少しだけ開けた広場が見えてきた。かつては子供たちの笑い声が響いたんやろうか、錆びたブランコが、寂しげに風に揺れている。その広場の一角に、他の建物よりも少しだけ大きく、そして古びた建物があった。崩れかけた看板には、かすかに「集会所」と読める文字が残っている。
「ここや……多分、ここが『虹の広場』やったんやわ」
れいの声が震えていた。その瞳の奥には、確かな記憶の光が宿っていた。
美咲は、その建物の入り口に近づいた。固く閉ざされたドアには、埃が積もり、長い間、誰も開けていないことを物語っている。
「お母さん、こんな場所で、ボランティアをしてたんですね……」
美咲は、母の新たな一面に触れ、胸が熱くなった。常に明るく、前向きやった母が、人知れず、こんな場所で子供たちと向き合っていた。
れいが、ドアにそっと手を触れた。
「ひなこはな、ここの子供たちに、音楽の楽しさを教えとったんや。歌うこと、楽器を触ること。田中先生が、そのきっかけを作ってくれてたんやけど、ひなこは、子供たちの心を開く天才やったから。あの子らの笑顔を見ると、自分のしんどいことも、全部忘れられるって、よう言うてたわ」
れいの言葉から、ひなこがどれほどこの場所を愛し、子供たちに情熱を注いでいたかが伝わってきた。美咲が知らなかった、母の優しい横顔が、目の前に浮かび上がるようやった。
建物の周りを回り込むと、美咲は、一つの小さな窓が、わずかに開いているのに気づいた。埃とクモの巣にまみれているけど、そこから、建物の内部を覗き見ることができそうやった。
「森田さん、ちょっと、ここから見てみませんか?」
美咲が声をかけると、れいも近づいてきた。
窓の隙間から、二人は恐る恐る中を覗き込んだ。そこは、広い部屋やった。壁には、色褪せた子供たちの絵が、まだ何枚か貼られている。そして、部屋の隅に――。
「……ピアノ!」
美咲は、思わず声を上げた。薄暗い部屋の隅に、埃を被り、鍵盤も黄ばんでしまってるけど、確かに、古いアップライトピアノが置かれていた。それは、あの桜川高校の理科準備室にあったピアノと、同じ形、同じ年季を感じさせるピアノやった。
「ひなこが……ひなこが弾いとったピアノや……」
れいの声が、震えていた。その目からは、大粒の涙が、止めどなく溢れ落ちていた。美咲は、れいの震える手を、そっと握りしめた。
「ひなこはな……私に、この場所で、田中先生と一緒に、子供たちに音楽を教え続けたいって言うてたの。卒業したら、きっと、って。あの『秘密の教室』の夢を、形を変えて、ここで実現したいって」
れいの言葉に、美咲は、母の夢の深さを知った。高校時代の夢が、形を変え、この場所で続いていた。しかし、その夢は、田中先生の死と共に、途絶えてしまっていたんや。
「美咲ちゃん……」
れいが、美咲の目を真っ直ぐ見つめた。その瞳には、深い悲しみと共に、まだ消え去ってない、確かな光が宿っていた。
「ひなこは、ほんまに、あんたのことを最後まで心配しとった。でも、それと同じくらい、あんたの未来を、心から願っとったんや。あんたには、あんたらしく生きてほしいって。そして、この場所で、あのピアノの音を、また響かせてほしいって……そう願っとったんやないやろか」
れいの言葉が、美咲の胸に、深く、深く染み渡った。母の最後の手紙の「れいを訪ねてみてほしい。そして、あの子と、私の、あの教室での夢を、あんたにも、ちょっとだけ知ってほしいんや」という願い。そして、この場所で見つけたピアノ。その全てが、まるで一つに繋がっていくようやった。
美咲は、再び、窓の隙間からピアノを見つめた。埃を被ったその鍵盤は、もう何年も音を奏でてへんのやろう。でも、美咲には、そのピアノから、母とれい、そして子供たちの歌声が、今にも聞こえてくるような気がした。
「森田さん……このピアノ、もう一度、音を鳴らしたい。お母さんと、森田さんの夢、私に、少しだけ手伝わせてもらえませんか?」
美咲の声は、澄んでいて、迷いがなかった。それは、母の愛に包まれ、れいとの絆を深めてきた美咲自身の、新しい決意の音やった。
れいは、美咲の言葉を聞くと、ゆっくりと頷いた。その顔には、涙の跡が残っていたけれど、そこに浮かんだ笑顔は、美咲がこれまで見た中で、一番穏やかで、そして希望に満ちた笑顔やった。
「ありがとう、美咲ちゃん。ひなこも、きっと喜ぶわ」
肥後橋から阿波座へ。美咲とれいの旅は、失われた時間の中に、新たなメロディを見つけ出した。廃墟と化した集会所の窓から差し込む夕陽が、二人の横顔を優しく照らしていた。このピアノが、再び音を奏でる時、きっと、止まっていた美咲の時間は、完全なハーモニーとなって、未来へと響き渡るんやろう。
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