フィルムの向こうのひまわり
暁月 紡
第1話 止まった時間の音
真新しい制服のスカートが、春風にはためく。小野ひなこは息を切らしながらも、桜川高校へと続く坂道を軽やかに駆け上がっていた――。
そんな光景ばかりが、田中美咲の脳裏に蘇る。もう二度と、その軽やかな足音が聞かれることはない。
母、小野ひなこが旅立った。2025年、春。美咲が大学を卒業し、新しい社会人生活に胸を膨らませていた矢先のことだった。卒業式の華やかな興奮も冷めやらぬうちに告げられた、母の最期の宣告。美咲は、現実が急に色を失い、モノクロームの映画のように遠ざかっていくのを感じた。病室の白いシーツに横たわる母の顔は、あまりにも穏やかで、ただ深く眠っているかのようだった。その手が、幼い頃に握りしめた母の温かい手よりも、ずっと、ずっと冷たいことに、美咲はただ呆然とするしかなかった。涙は枯れ果てたのか、一滴も流れてこない。ただ、胸の奥が空っぽになったような、底の見えない穴がぽっかりと開いたような感覚だけが、そこに奇妙な重みとなって存在していた。二十歳の春は、こんなにも静かで、そして冷たいものなのだろうか。
通夜の会場は、ひなこの明るい人柄を慕う多くの弔問客で溢れていた。祭壇に飾られた遺影のひなこは、ひまわりのような、屈託のない笑顔でこちらを見つめている。美咲は、その遺影の横に立ち、親戚たちの助けを借りながら、慣れない手つきで弔問客の対応に追われた。形式的な挨拶と、型通りの「ありがとうございます」を繰り返しながらも、心ここにあらず。遠くで聞こえる、誰かのすすり泣く声も、線香のけむりも、聞こえるはずのない蝉時雨のように、ただ耳を通り過ぎていく。美咲の胸には、母との思い出が、走馬灯のように駆け巡っていた。リビングで一緒に見たくだらないテレビ番組。テストで赤点を取って、こっぴどく叱られた日の夜、こっそり作ってくれたホットケーキ。初めての失恋で泣きじゃくる美咲の頭を、何も言わずに撫でてくれた、あの温かい手。笑顔も、泣き顔も、そして、時にはぶつかり合った、些細な喧嘩の日々も。そのすべてが、今となっては美咲にとって、どんな宝石よりも愛おしく、そして、もう二度と手の届かないものになってしまった。
そんな美咲の前に、一人の女性が立った。黒い喪服に身を包んだその女性は、ひなこと同じくらいの年齢に見えた。見覚えのある顔立ちだが、どこか遠い記憶の中にいるようで、美咲にはすぐに誰なのか思い出せない。女性は祭壇のひなこの遺影に深々と頭を下げ、その長くしなやかな指先が、ほんの一瞬、遺影のフレームに触れた。その仕草に、深い親愛の情が込められているように見えた。それから、ゆっくりと美咲の方に向き直った。
「田中美咲さん……だよね?」
低いけれど、どこか温かさを感じる声だった。その声の奥には、美咲と同じ、深い悲しみが滲んでいた。彼女の瞳は、美咲の目を真っ直ぐに見つめ、そこにわずかな戸惑いと、隠しきれない優しさを宿していた。
美咲が戸惑っていると、女性は静かに続けた。
「森田れい。ひなこの、幼馴染の」
その名前を聞いた瞬間、美咲の脳裏に、古いアルバムのページがぱらぱらと捲られるように、記憶の断片が鮮明に蘇った。子供の頃、リビングの古いアルバムを引っ張り出してきて、飽きもせずに眺めていたあの写真たち。いつも母の隣にいた、少し無口で、でもいつも母の突拍子もない行動に、呆れたように笑っていた、あの女性。小学校の遠足で撮った写真、中学校の運動会、高校の文化祭でエプロン姿の母と並び、れいの作った飾りの前で、少し照れくさそうに微笑む姿。そして、母が「秘密の教室」と呼んでいた、薄暗い理科準備室の古いアップライトピアノのそばで、母と並んで笑っていた、あの人。母が病気で入院してからも、毎週のように見舞いに来てくれていたという。点滴のチューブにつながれた腕を見ても、いつも通り冗談を言って、母を笑わせていたと聞いた。母の口から「れいが来てくれたよ」と、いつも嬉しそうな声が聞こえていたことを思い出す。美咲が知らないところで、二人は最期の時まで、何かを分かち合っていたのだろう。それは、美咲が入り込むことのできなかった、母の人生の深淵な部分のように思えた。親友という言葉では片付けられない、もっと深く、絡み合った二人の「絆」。
「森田さん……」
美咲は、震える声でその名を呼んだ。喉の奥が詰まって、それ以上言葉が出ない。
れいが、美咲のわずかな動揺に気づいたように、少しだけ口角を上げた。
「ひなこから、話は聞いてたよ。美咲ちゃんが、もう大学卒業するんだって」
「はい……今年から、社会人になります」
美咲の声は、か細かった。れいは、そんな美咲の様子をただじっと見つめていた。その表情はやはり読めないが、その瞳には、美咲と同じくらいの深い悲しみと、そして何かを必死に堪えているような、静かな痛みが宿っているように見えた。言葉がなくても、そこに確かな共鳴がある。
通夜が終わり、斎場が静まり返る頃、美咲とれいは、他の親族から少し離れた斎場の隅で向かい合っていた。周囲のざわめきが遠のき、二人の間には、重い沈黙が横たわる。
「お母さん、何か言い残したこととか、あった?」
れいの声は、ひなこが生きている頃から変わらず、淡々としていた。しかし、その声の奥には、わずかな震えが隠されているようだった。美咲は、その僅かな震えを、聞き逃さなかった。
美咲は首を横に振った。
「ううん。最後まで、『ありがとう』って。それだけだった。それ以外は……何も」
美咲の言葉に、れいもまた、静かに頷く。
「そっか……ひなこらしいな」
れいが呟いたその言葉は、ひなこの全てを知っている者の、深い理解と愛情が込められているようだった。
美咲は、ふと疑問に思った。
「森田さんは……お母さんと、最後に何か話しましたか?」
れいは、少しだけ視線を逸らした。
「ああ……うん。いくつか、話したよ。でも、それは、またいつか、美咲ちゃんに話す機会があれば、ね」
その言葉の選び方に、美咲は何か深い意味があるのを感じた。れいが、ひなことの間で交わした、美咲にはまだ知ることのできない秘密がある。それは、美咲にとって、母の人生への、そしてれいとの関係への、新たな興味と同時に、わずかな疎外感を生んだ。言葉は少なかったが、その視線は美咲の深い悲しみを、ただじっと受け止めているようだった。それは、同情でも慰めでもなく、ただ静かに寄り添うような、不思議な、そして確かな温かさだった。
「ひなこ、最後まで、美咲ちゃんのこと、心配してたよ」
れいがポツリと漏らした言葉に、美咲はハッとした。その言葉は、凍り付いていた美咲の心の奥底に、ゆっくりと、しかし確実に溶けていく。
「元気で、幸せに生きてほしいって。それが一番の願いだって、いつも言ってた」
美咲は、胸が締め付けられるのを感じた。母は、最期まで自分を気遣い、自分の未来を願ってくれていたのだ。その事実に、ようやく、目頭が熱くなった。視界がぼやけ、熱いものが頬を伝い落ちた。温かい涙だった。枯れ果てたと思っていた涙腺から、とめどなく溢れてくる。美咲は、堪えきれずに嗚咽を漏らした。れいは何も言わず、美咲の背中にそっと手を置いた。その手の温かさが、美咲の嗚咽をさらに深くさせた。
通夜の後の、静かな帰り道。美咲は、れいと並んで歩いた。斎場を出た瞬間、ひんやりとした夜風が頬を撫でる。美咲は嗚咽を堪えようと必死だったが、隣を歩くれいは、美咲のペースに合わせてゆっくりと歩いてくれる。
「大丈夫?」
れいが短い言葉で尋ねた。
美咲は首を振って、なんとか声を出した。
「大丈夫じゃ、ないです……」
「そっか。無理しなくていい」
れいの言葉に、美咲はさらに涙が溢れた。無理に強がらなくていい、と言われたことが、美咲にとっては何よりも救いだった。この人には、素直な自分を見せてもいいのかもしれない。そんな感情が、美咲の心に芽生えた。互いに多くを語らないが、そこには確かに、ひなこという共通の存在を介した、新たな関係が生まれ始めていた。ひなこがいなくなった世界で、美咲は今、母の幼馴染という、これまで遠かった存在と、初めて真正面から向き合おうとしていた。それは、美咲がこれから歩む、新しい人生の始まりを告げるかのようだった。
翌日からの葬儀を終え、火葬。白い骨壺に収められた母の遺骨は、リビングの棚の上に静かに置かれていた。あまりにも小さく、そして軽かった。母の存在が、物理的にこの世から消え去ったという現実が、美咲の胸に重くのしかかった。数日が経ち、美咲は、がらんとしたリビングで途方に暮れていた。母のものが、あまりにも少ないことに気づく。生活感のある家具はほとんどなく、まるでモデルルームのような殺風景な部屋だ。生前から、「私がいなくなっても、あんたが困らんように、身の回りもきれいにしとくからな」と冗談めかして言っていたことを思い出す。その言葉通りの部屋は、母の気遣いであると同時に、美咲にとっては、母が本当にいなくなってしまったという現実を突きつけるようだった。何もない部屋は、美咲の心の中の空白と、まるで響き合うようだった。
大学を卒業し、新しい社会人としての生活が始まるこの春。本来なら、新しいスーツに袖を通し、期待に胸を膨らませていたはずの美咲は、この数日間、自室に引きこもり、カーテンの隙間から差し込む光さえ煩わしいと感じていた。頭の中では、新しい職場のデスクや、知らない人々に囲まれる自分を想像する。しっかりしなければ。もう大学生ではない。いつまでも悲しみに暮れていてはいけない。社会人としての責任感が、後ろ髪を引くように美咲の心を急かす。前を向かなければ。未来に進まなければ。頭では分かっているのに、心が言うことを聞かない。母の死を受け入れられない自分と、未来を見据えて進まなければならない自分。二つの感情が、美咲の心の中で激しくせめぎ合い、身動きが取れないように感じられた。
そんなリビングの片隅に、不自然に置かれた小さな段ボール箱が目に入った。簡素なガムテープで封をされた箱には、ひなこの癖のある、丸みを帯びた字で「思い出」と書かれている。美咲は、もう一度、箱の前に座り込んだ。開けるのが怖かった。箱を開けてしまえば、母が本当に「過去」になってしまうような気がしたのだ。だが、このままでは、前に進めないことも、美咲は薄々感じ始めていた。母の残したものが、もしかしたら、美咲自身を動かすきっかけになるかもしれない。
美咲は意を決して、恐る恐る箱を開けた。その中には、ひなこの生きてきた証が、ひっそりと息を潜めているようだった。古びたアルバムが数冊、茶色く変色した写真の束。そして、くしゃくしゃになった手紙の束の中から、ひときわ厚みのある封筒が目に留まった。封筒には、美咲の名前が、やはり母の丸い字で書かれている。
「美咲へ」
それは、母からの最後の手紙だった。美咲は、その手紙をすぐに開けることができなかった。指先が、わずかに震える。まだ、母の言葉を受け止める準備ができていない。この手紙を開けば、本当に母との別れが決定的なものになってしまう気がした。まるで、これまで見ないふりをしていた巨大な蓋を、自らの手でこじ開けるような。美咲は、手紙をそっと箱の中に戻し、その上に、見覚えのある古いフィルムカメラを置いた。あの文化祭で、ひなこが「サプライズやろ?」と笑って首から下げていた、祖父から借りたというカメラだ。レンズには埃が薄く被り、冷たい金属の重みが、美咲の手のひらにずしりと伝わってくる。
美咲は、そのフィルムカメラを手に取った。ひんやりとした感触が、なぜか心地よかった。レンズを覗く。ファインダーの向こうは、ただ暗いだけだ。シャッターを切る。カシャリ、と乾いた音が、静まり返った部屋に響いた。その音は、まるで、ひなこのいた世界から、もう一つの世界へと繋がる扉が開いたかのようだった。
その乾いた音が、ひなこがいたはずの時間を、静かに、そして確かに、止めてしまったようだった。しかし、同時に、その音は美咲に、新たな始まりの予感を告げているかのようでもあった。母が残したこの「思い出」の箱とフィルムカメラ、そしてまだ開けていない最後の手紙には、きっと、美咲がまだ知らない母の物語、そして、母から美咲へと託されたメッセージが隠されているに違いない。
美咲は、箱の中から一番古そうなアルバムを手に取った。表紙には、セピア色に色褪せた「桜川高校入学式」と手書きされた文字が見える。ひなこが高校時代に使っていたものだろうか。ページをめくると、そこに写っていたのは、真新しい制服に身を包んだ、まだあどけない笑顔のひなこ。その隣には、やはりあの森田れいが、少し硬い表情ながらも、ひなこに寄り添うように立っていた。二人の間には、写真越しにも伝わる、確かな絆がそこにあった。
美咲は、その写真を指でなぞった。母の青春の輝きが、今、静かに美咲の目の前に広がっていく。そして、その中に、いつもれいがいた。母とれいの間にあった、美咲には想像もできないほどの深い絆。それが、今の美咲にとって、どんな意味を持つのか。美咲は、まだ知らない。だが、このアルバムが、母の、そしてれいの、新たな物語の始まりを告げていることは、確かだった。美咲は、まだ見ぬ母の人生の断片を求めて、アルバムのページをゆっくりと捲り始めた。
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