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ああ、それからが大変でした。
「あなたが埋めて」だなんて無責任なことを言われましても、当然ながら魔法というのは、何か適当な言葉を入れて発動するような簡単な代物ではありません。
魔女様が構築した魔法の内部構造を破壊せぬよう、魔女様が作った魔法の効果が変化せぬよう、私は細心の注意を払って最後の言葉を埋める必要がありました。
魔法の呪文とは作り手によって形式が大きく異なることが多くありますが、生前、魔女様が私には決して見せてくれなかった作りかけの魔法は、一見詩のようになっていました。
しかし他のページを見てみると、何やら私の見たことのない文字や記号で魔法が綴られていましたので、どうやら魔女様はいつもこの形式で魔法を作っている訳ではないようです。
何故最後の三ページ分の魔法を普段と異なった形でお作りになったのでしょう。残念ながら答え合わせはもう出来ません。
私は一度椅子に腰を落ち着けて、ひたすらじっくりと呪文を読み込みました。
『太陽は雲を被り 星は宇宙に逃げ帰り
残された花 黙って散る訳も無く
緑の腕は土を抱え 種を抱え 蕾を抱え
虹色の髪が頬を撫でる
しかし命よ その愛を振り払え それはもう要らぬ物
荒波に身を投げ 急流に弄ばれ 暗がりの中 尚消えぬ物を見つめよ
光など無い
ただ其の先にある黒い物を掴めよ
それが何時か己を救うと信じて
時に人は 独りである 動物も 植物も
魔女も独りであり 人形も独りである
生命は独りの絆で世界に繋がれている
故に 独りで詠え 独りで踊るのだこの詩を
照明のない暗い舞台でも演目を止めることは許されない
観客は虚空を見つめている
しかし止めてはならない それはやがて愛に代わるものとなる
愛に代わるものは執念となる
そうして愛はようやく消える
そうして花はようやく開く
その花畑を踏み荒らす 裸足で踊り狂う
命の絨毯はいい心地だ
素足に絡みつく執着
わたしを掴んで離さない怨恨
これが生き物の愛だ 美しく尊い愛だ
光よ 遥か昔に潰えた星よ
そこから見える命に 果たしてどんな価値を見いだせる
開かれた道の先に待ち受けるのは絶望だった
ならばこの詩でその道を飾ろう 地獄に相応しい景色を贈ろう
醜く咲き誇る命よ 裂いた運命をもう一度繋いでみせよう
長く太く蔓を這わせよ 柔らかくあたたかく鮮やかな色を広げよ
踏まれても決して朽ちることのない 強かな縁となれ
自ら隔てた世界だが
それでもわたしは』
……呪文は、ここで途切れていました。
最期の力を振り絞って書いたのでしょうか、終わりに近付くにつれ、文字が少し歪んだりかすれたりしていました。
『それでもわたしは__』魔女様はこの続きに何をお望みなのでしょう。
私に何をお望みなのでしょう。
私は魔女様から頂いたあの杖を手に取り、来る日も来る日も魔法の試行を行いました。
杖には約六百年分の魔女様の魔力が蓄えられておりましたので、魔力不足とは無縁でした。魔女様に差し上げた分の魔力も、いつの間にやらもうすっかり元通りになっています。
そうしてようやく私は気付いたのでした。もとより、魔女様は私を死なせるおつもりなど毛頭無かったのでしょう。私はあの方の巧妙なやり方に感心を覚えるしかありません。
ずるいお方です。気づいたところで私はもう、貴方に文句のひとつも言えないというのに。
魔女に、お墓を作って弔う、という習慣はありません。
彼女達は命が尽きると、体が徐々にくずれて砂になり、その砂はやがて風に乗って辿り着いた世界の果てで、静かに永遠の眠りにつくのです。
ですので、人間はお墓に手を合わせ死者と語らうことができますが、魔女様には、それができないのでした。
魔法が完成したのは、それから百年余りの年月が過ぎた頃でした。魔法作りに夢中になっていたので、正確な日数はもうわかりません。
私は何日も何日も机に向かい、我ながら可笑しく思うのですが、いかにも人間らしく頭を掻いて悩みながら、やっとの思いで完成させたのでした。
早速、とまだ日も昇らないうちに外に出て、本と杖を片手に、もはや暗記してしまった長い呪文を一言ずつ口に出しました。
やがて最後の言葉を、噛み締めるように口にすると、小さく、しかしはっきりと杖の先端に光が灯ったのです。
魔法が問題なく発動したことがわかり、私は百年分の大きな達成感を感じました。
灯った光は地面に落ち、そこには淡い桃色の小さな花が咲きました。花からはだんだんと緑の蔓のようなものが伸び、それは何か明確な意思を持った生き物のように、地面を這ってどこかに向かい始めます。
私は一体何を生み出したのだろうかと少しの不安を覚えましたが、発動した魔法を止めようにも、私にはやり方がわからないのでどうしようもありません。
仕方なく私は蔓を辿っていくことに決めました。
私は止まる様子のない蔓の後ろを、ひたすら真っすぐ着いていきました。
どれだけ歩いたのでしょう。
太陽はすっかり頭上で輝いており、かと思えばあっという間に地平線の彼方へ沈んでいきました。
昼を越え夜を越え、場合によっては世界を半周するまで止まらないのではと錯覚するほど、本当に長い距離を歩いて行きました。
丸々十日かけてようやく蔓は目的地に着いたようで、突然ピタリと成長を止めました。
私もやっと足を止めて、大きく息を吐きました。こんなに歩いたのは、魔女様に魔法をかけられた時以来です。
実を言うと私に疲労を感じる作りはないのですが、それでもいつか宿った私の精神は疲労に似たものを感じているようでした。
私は一体どこに辿り着いたのでしょうか。歩く動作にばかりに気を取られていた私は、そこで初めて視線を上げてみました。
「……」
思わず、息を呑んで足を引きました。
もしあとほんの少しでも前方に体の軸を傾けていれば、今頃私は間違いなく真っ逆さまに落下していたでしょう。
さすがの私も今回ばかりは肝が冷えました。肝臓なんて無いはずなのですけど。
そこは、なんと亀裂の一歩手前なのでした。かつて魔女様が、ご友人だったリリカ様との大喧嘩によって出来たものです。
大喧嘩。あの世界に大きな衝撃を与えた二人の魔女の戦いの発端は、ただの喧嘩でした。
ただその喧嘩の当事者達が、お互い強大な力を持つ魔女だったため、あれ程の被害になってしまったというだけで、二人からしたら、『たまたまちょっと白熱しちゃったいつもの喧嘩』でしかなかったのでしょう。
リリカ様のお話は、私が作られてからのたった三日の中でも幾度となくお聞きしました。更に三十年の旅の中でも、魔女様は何度もリリカ様のことを口にしていました。
最後の喧嘩の仲直りが出来なかったことを、少なからずお気になさっているご様子でした。
それだけ魔女様にとって、リリカ様は大切なお友達だったのだと思います。
『本当はね、あんな亀裂、いつでも簡単に飛び越えていけるのよ。でもリリカちゃんが頑なにわたしと口を利こうとしないから、少しほとぼりが冷めてから会いに行こうと思ってたの。まさかわたしが会いに行く前に死んじゃうなんてね!』
脳内に魔女様の姿が浮かび上がります。そうそう、確かそんなことをおっしゃっていました。
長命種の魔女は時間の感覚を掴むことが苦手と聞きますし、魔女様もリリカ様がお亡くなりになられて初めて過ぎ去った時間の長さを知ったのでしょう。
さて、話を戻しますが、どうやら蔓が目指していたのはこの亀裂のようです。一体こんなところに何の用があるというのでしょう。
見ると、何やら蔓は東に向かって急激な成長をし始めていました。
一本のそれは途中で何度も枝分かれし、やがて何本もの蔓が絡み合って網のようになりながら、亀裂をまたいで対岸へと向かっているようでした。
更に道すがら、色とりどりの小さな花を咲かせていくものですから、網は段々と花のアーチのようになっていきます。
向こう岸に辿り着くと蔓はその場で、蛇がトグロを巻くかのように丸くなり、それっきり動かなくなってしまいました。
私はその姿を見てひとつの可能性に気付きます。
魔法で作られた植物は通常、術者が魔法を解除しない限り枯れることが無く、また自然の命あるものよりもかなり丈夫です。
強度は術者の魔力にもよりますが、今回私が使ったのは魔女様の杖であり、そこに宿る魔女様の魔力ですので、よほどのことが無い限り壊れることはないでしょう。
もしかしたら__もしかしたらの話ですが、これは、橋になるのではないでしょうか。
魔女様が最期に残した魔法は、自ら壊してしまった世界を修復するための、あの方なりの償いなのでは。
そのことに気付いてから私は、何度も何度も何度も、あの長い魔法の呪文を繰り返し唱え続け、亀裂を覆うように蔓を伸ばしていきました。
ほつれてしまった洋服を、細い糸で縫って繕うかのように、少しずつ、魔女様と私の魔法で、橋をかけていきました。
二つの国を繋ぐ、大切な架け橋です。
魔法によって壊された世界は、魔法によって修復されようとしているのでした。
ある時突然、杖から魔力が消えました。
いつの間にやらそこにあるのはただの木の枝に変わり果てていて、もう魔法の力は跡形もなく無くなってしまっています。
私は焦りました。これではもう魔法が使えない、まだ亀裂全体の一割すら覆えていないだろうに!
しかし、すぐに問題がないことを悟るのでした。
ふと足元から、花びらが一枚舞い上がったのです。
視線を下げてみると、いつの間にか辺りには一面の花畑が広がっていました。蔓から咲いた小さな花々が連なって、このように見事な花畑になったようです。
試しに一歩、その存在を確かめるように踏みしめてみると、小さな花々は、その花びらいっぱいに私という存在を受け止めてくれ、力強く押し返してくる気さえします。
私にはない、儚くも凛々しい生命の鼓動を感じ、私の視界は流れるはずのないものでじわりと滲みました。
ああ、魔法でできた、偽物の命ですが、こんなに美しく輝いています。
魔女様は以前この魔法について、「効果は大した事ない」だなんておっしゃいましたけれど、そんなはずがございません。
何年も何百年も生命を分断してきた亀裂を塞ぐ魔法。
そんなものを目の当たりにして一体誰が、大した事ない、だなんて言えるのでしょうか。
確かに魔女様からすれば、一度で亀裂を覆いきれない『大した事ない』魔法なのでしょうけれど、少なくとも私のような力の弱い人形は、そのようなことは到底思えないのでした。
「わーっ! 橋?! 橋だ! お花の橋がかかってるーっ!」
突然、背後から飛び込んできた元気の良い声に、私の意識は戻されました。
振り向いて声の主を探すと、わずか5歳程の幼い男の子が、ガラス玉のように透き通った瞳を大きく開けて、驚愕の眼差しをこちらに向けていました。
彼はどこからともなく現れた得体のしれない花の橋に躊躇なく飛び込み、私にまっすぐ駆け寄ってきます。
「お兄さん! お兄さんがこの橋かけたの?!」
そして無邪気に私に問いかけました。
私は人と話をするのはかなり久しぶりのことでしたので、一瞬言葉が詰まってしまいました。
「い……いえ、私だけではなく、私の、……御主人様も、です」
「ごしゅじんさま? へーえそうなんだ、そうなんだ、すごいねえーっ。あのね、ほんとはぼくが大きくなったら、ここにでっかい橋をかけるよって、お母さんと約束してたんだ。でも、お兄さんたちに先こされちゃったみたいだなあ」
「そうだったのですか。それは申し訳ないことをしました……。
……そうだ、代わりと言ってはなんですが、この本を持って行ってはくださいませんか」
私は片膝をついて目線を合わせ、男の子に両手で魔女様の本を差し出しました。男の子はきょとんとしています。
「えほん?」
「いいえ、これは私の御主人様が書いた、魔法の本です」
「まほう! おばあちゃんから聞いたことあるよ! あれっ、じゃあもしかしてこの橋って、まほうでできてるの?!」
男の子は足元を見て、興奮したように飛び跳ねました。
「よくわかりましたね。この本にはね、この橋をかける魔法が書かれているのです。なのでこの先、もし君が魔女に出会うことがあったら、この本を渡してくださいませんか。そして、もっとたくさんの橋をかけてくれるようお願いして欲しいのです」
男の子は両手でゆっくりと本を受け取り、本の表紙に描かれた白く瞬く星を、小さな指で確かめるようになぞりました。
「わかった、ぼくがわたしてあげる!」
男の子は本を両手でしっかりと抱え、走り去っていきました。
その小さな背中が見えなくなった頃、私は花畑から一際大きく花開く純白の花を一輪だけ手折り、杖だったものを握り締め、花畑を後にしました。
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