第一部 中国医学の哲人 ③孫思邈  薬王の仁心

唐の初め、戦乱の気配がようやく遠のき、人々が穏やかさを取り戻しつつあった頃。西の山あいに、小柄な老人がひっそりと薬草を摘む姿があった。孫思邈、後の世に「薬王」と讃えられる男である。


その生まれは隋の乱世。貧しさと争いが絶えず、病に倒れても診る医もいない。孫思邈は幼いころから身体が弱く、何度も死にかけた。母の必死の看病で命を繋ぐたびに、「どうして病は、人から命を奪うのだろう」と胸に問いが芽生えた。


十三歳にしてすでに四書五経を読み終え、歴史、天文、算術にも通じたが、それでも病に苦しむ人々を救いたいという思いが拭えなかった。「人は、ただ生きていれば良いわけではない。 健やかで、心安らかに暮らせることが幸せなのだ。」十六で医学の道を志し、山にこもり、薬草と向き合った。


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孫思邈の診察は、噂が広まり山里に人が集まった。病に苦しむ者だけでなく、家族を亡くして打ちひしがれる者、将来を悲観して死に急ごうとする者も訪れた。


あるとき、皮膚にできたただれで苦しむ男が来た。見れば、膿が滲み悪臭が漂う。周囲の者は顔をしかめ、誰も近寄らない。孫思邈は恐れず患部を洗い流し、甘草と黄柏で熱を鎮め、苦参で毒を抜く処方を作った。「甘草の甘は和をもたらし、黄柏の苦は熱を抑える。 苦参は邪を払い清める。」そう語りながら、男に湯薬を与えた。


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別の日、若い娘が咳をこじらせ、胸が詰まり、夜に眠れないと泣きついた。「心配ごとはありますか。」と孫思邈は優しく尋ねる。娘は、家を失い、婚約者とも離ればなれになったと打ち明けた。孫思邈は頷き、「胸の病は、心の病から生まれる。 蘇子と半夏を合わせた薬で、気を和らげよう。」と処方を決めた。「涙を流しても良い。 それで楽になるなら、それも薬だ。」娘は声をあげて泣き、その晩から咳が軽くなったという。


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孫思邈の診療は、単なる薬だけではなかった。人の心に潜む苦しみを見逃さず、言葉で癒やすことを忘れなかった。そのため人々は「仁心の医」と尊敬を込めて呼んだ。


孫思邈のもとには、多くの弟子が集まった。あるとき弟子の一人が質問した。「先生、人には薬を分け与えるべきだと、なぜそこまでお考えなのです?」孫思邈は静かに笑った。「医は仁術。 財を積むより、一人の命を救う方が尊い。 もし薬を惜しめば、その薬は毒と同じになる。」弟子は深く頭を下げた。


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孫思邈は著作にも心を砕いた。薬草の採集法、煎じ方、毒消しの方法。さらに養生の心得までまとめあげ、『備急千金要方』を編んだ。「医の道は万金に値する。 しかし金が無くとも命を救わねばならぬ。」その精神を込めて「千金」と名付けたと言われる。


そこには・桂枝湯・麻黄湯・半夏厚朴湯・黄連解毒湯など、現代に残る数多くの処方が掲載された。同時に、食事や睡眠、心の持ち方に至るまで記され、医は病だけでなく、人の生き方を導くものだと示した。


「人を診るのではない。 人の一生を診るのだ。」孫思邈のこの言葉を、弟子たちは繰り返し胸に刻んだ。


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あるとき隣村で大きな火事があり、負傷者が山を越えて運ばれてきた。火傷に苦しむ子ども、骨を折った老人、泣き叫ぶ母親。孫思邈は夜通しで薬を煎じ、弟子に応急処置を教え、少しも休まず看病した。「この子には紫雲膏を。 やけどの痛みを鎮める。」「先生、紫雲膏は残りわずかです!」「ならば紫草を刻め。 胡麻油と蜜ろうで代用できる。」弟子たちは目を見張り、「まさに生きた薬王だ」と声を上げた。


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孫思邈は決して自らを偉いと思わなかった。むしろ、「私も医を学びながら死ぬのだ」と笑っていた。百歳に近づいてもなお、山野を歩き薬草を摘む姿があった。「人が生きるために必要なのは、 穏やかな心と、大地の恵みだけだ。」その背中は年老いても揺るがなかった。


やがて人々は彼を「薬王」と呼び、尊敬と感謝を込めて祠を建てた。だが孫思邈自身はこう記した。「私の名などどうでもよい。 救われた人の笑顔こそ、永遠に残るべきだ。」


その志は、唐を越え、宋を越え、中国医学の理想として語り継がれた。そして日本へも伝わり、医の仁という考え方を深く根づかせていくことになる。


孫思邈の物語は、「人を救うために、金や地位はいらない」という強い信念に満ちていた。その灯火が、次の世代を生きる者へと受け継がれていったのだ。

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