連続長編『コウノトリの巣箱』

サトウ サコ

どうせゆくのは闇か月

第1話『気鋭倶楽部』

 活動家12人が処刑されてから、早や5カ月が経った。私はというと、特に思想も企みもない学生のため、何もせずに日々を過ごしていた。ただ、活動家たちが活発に動いていた時分などは、親の目を盗んでこっそり発禁になった書籍などを集めたり読んでみたりしたものだ。だがそれはただ知的好奇心をこじらせていただけで、先程も述べた通り、決してこの日本国の転覆などを望んでいたわけではなかった。私に言わせれば、なるようになってくれればよかったのだ。 しかし実際、そんなことを言っては父に叱られるだろう。いずれ、私は日本を背負って立つ存在になるのだから。というのも、私の父の話をすれば納得がいくだろう。

 鷹藤たかとう 清吉きよきちという名を聞けば、大抵の人間は頷くだろう。私の家系は元公家で、制度が終わってから公爵という爵位に就いていた。もちろん政治にも参加しており、貴族院の制度から、後々は私が父清吉の跡を継ぐことになっていた。そのために父は私が政治にまったく無関心だと言うことをよしと思わなかったのだ。

 私の父がどのような人物だったのかと言うと、外見は一見物静かな紳士。しかし内面は頭の切れる人物であった。決して口達者ではない。どちらかと言えば口重なほうで、一日で父の声を聞かない日もある。しかし偶に口を開けば的確なことを言うので、父を知る者なら誰も父に弁論を挑もうとはしなかった。相手に気持ち良く話させておいて、相手がようやっと一息つこうかという時にぴしゃりとやってしまうのだ。それに、私の父には先見の明があった。

いつか、父は私を書斎に呼び出すと、学校でのあれこれを聞いた挙句、こんなことを言い出した。「清一郎せいいちろうよ、よくお聞きなさい。いずれこの国は変わる。私たちの立場も揺らぐ時が来るだろう。貴族院はいずれ廃止されるやも知れん。それはお前が生きているうちか死んでからかは分らんが、政治の道を歩むなら、自分本位に考えてはいけない。この国の現状、この国の将来を考えて己の剣を振るうのだ。富し者も、貧しき者も、すべてを考えるのだ。そうすれば、いずれ自分に返ってくる」

 当時の私はまだ幼き少年で、父の言っていることの半分も理解することができなかった。私の立場が脅かされる、そんな日など来るはずがない。そうぼんやり暮らしていた。だがいずれだんだんと世間を知るようになってから、父の言うことが現実に起こるのでは無いかと感じ始め、父の偉大さを実感するようになった。

 この話をすると、私の父のことを誤解する人間も現れるかも知れない。私の父は無口であったり、ある時はぴしゃりと物を言う人物ではあったものの、冷たい性格ではなかった。むしろ、温和で穏やかな人であった。なるべくなら人との争いを避け、文句や陰口を言わない。公爵という立場を考えると驚かれるかも知れないが、受け身な性格で、家庭内の舵はほとんどの場合母が握っていた。

 公爵夫人である母は、父とは対照によく喋る人であった。女性であるのに口答えが多く、好きな物は好きだと言い、嫌いなものはとことん嫌う性格であった。正義感の強い母は、悪を嫌う傾向にあって、活動家たちが活動していた時分には、彼らには大それたことはできっこないと言う父に対し猛反発していた。「彼らはいずれ大きな犯罪を起こすに違いない。今すぐ逮捕するべきです」

 彼らが逮捕されてから全て捨ててしまったが、私が発禁本を持っていたことを知ったら、母はきっと卒倒するだろう。しかし母も、勿論父もだが、私のことを叱らないだろう。私は今までの人生で一度も叱られたことがない。それは父母が私を甘やかしているからではなく、私が両親の前では真っ直ぐ素直に優しい少年を演じていたからだった。

 私は何の苦労もなく高等学校の学生になり、将来は当たり前のように帝国大学に通うものだとされていた。大人の前での振舞い方を知っていた私は、両親を含め彼らから絶大な信頼を得ていた。たとえ私が遅刻したとしても、きっと大事があったに違いないと咎められることは無いだろう。むしろ、心配されるほどだ。私は学校にいくのが怠くて喫茶店で時間を潰していただけだというのに。

 私は仲の良い何人かと気鋭倶楽部というのを組んでいた。表向きは放課後に集まって勉強会を開くと言う活動内容だったが、実際の所、勉学に励むことはほとんどなく、銀座の喫茶店なんかをぶらついては、煙草を吸い、仲間内で賭け事ばかりをしていた。倶楽部に集う人間たちは、私と同じく大人の前では真面目で勤勉で、要領も良かったため、例え不良に遊び惚けていても成績を落とすことは無かった。

 倶楽部の連中はほとんどが華族か政治家の息子たちだった。倶楽部は特に決まりがなく、集まりたい者が集まるという形式を取っていたが、いつしか私が倶楽部長の雰囲気になっていた。私の父が公爵であるからか、みなは私の顔色を伺い、私の機嫌を損ねないような立ち居振る舞いをしていた。私はそれをいいことに、実際に王様のような振る舞いをした。煙草を買いに行かせ、賭け事となると度々周りを巻き込んでいかさまをしたりした。それでも、彼らは私のことを神のように慕った。それは倶楽部の人間たちだけでなく、学校の同級生のほとんどがそういう態度を取ってきた。それがために、私はいよいよ付け上がっていたのかも知れない。全てが自分の思い通りになるのだと。

 倶楽部の一員に結城ゆぎという男がいた。彼は父が男爵で、貴族院には属していないものの、それでも戦争により高い身分を得た一家の末裔だった。彼は当時の日本人の感覚とはだいぶかけ離れた思想を持っていたが、学校では大変勤勉な男であり、大人からの評判も良かった。だが、その正体はかなりの遊び人で、倶楽部の中でも頭一つ抜けていた。噂によると夜な夜な遊郭に通っているとのことだ。

 ある日結城は煙草を燻らせながら、「なあ、鷹藤さん、面白い店があるんですよ」と話し始めた。倶楽部での集まりの際である。

「面白い店? 」

 喫茶店の苦い珈琲に口を付けて、私は聞き返した。

「そうそう。それが、新宿駅の近くにあるんですよね」

 新宿駅の近くに、ねえ。倶楽部の誰かが繰り返した。

「って何があったっけ? 」

「早稲田なんかは其処ら辺じゃなかったか」

 誰かが答えた。

「あとは田んぼだ」

 私の隣に座る花園が付け加えた。

「で、面白い店ってなんなんだ? 」

 私が尋ねると、結城はにやりと歯を見せた。「それはですねえ」と二重顎を擦る。

「芝居小屋です」

「芝居小屋あ? 」

 小坂が口をぽかんと開けたまま繰り返した。

「お前が芝居を見るとはなあ」

 私は結城のぽっちゃりした顔を眺めた。肉付きの良い頬に押しつぶされるように寄った小さな目。このぽっちゃり坊ちゃんの一家が軍人だなんて信じられない。こいつが戦場に居たら、狙いやすいだろう。タプタプな腹の肉が邪魔で上手く走れないだろうから。

 私がそんな目で見ているのにも気が付かず、結城は「へへ」と下品に笑った。

「ただの芝居小屋じゃないんですよ。遊郭がやってる芝居小屋なんです」

「遊郭が? 」

 と花園。煙をふうと天井に吐く。

「じゃあ、役者は遊女か」

 私が言うと、結城は「ご名答」と手を打った。

「面白い」

 私は結城に笑って見せた。私の興味を引いたのが嬉しかったのか、結城は満足気に背筋を伸ばした。

「その遊女は当然、体を売ってるんだろ? 」

 小坂が聞く。「当然」と結城が頷いた。

「なぜ芝居をしている」とまた小坂。

「芝居を観て、寝る遊女を選ぶのよ。ま、芝居だけ観て帰るって人もいるがね。どうです? 鷹藤さん」

 言いながら、結城は小坂から私に視線を移した。

「行ってみます? 」

 唾を飲んだ音が聞こえたのだろうか、結城は目を細めた。

「鷹藤さん、遊郭、行ったこと無いでしょ。どうです? 社会勉強だと思って」

 どうせ鷹藤さん、将来は政治家さんですから好きに遊ぶことなんてできないでしょうから。結城は付け加えた。

 私は煙草を吸った。

「怖がることは無いですよ。僕行ったことあるんですがね、芝居を打ってる意外、普通の遊郭と変わらないですよ」

 怖い、結城に言われて私は、自分が怖がっていることに気がついた。私は酒もやる、煙草もやる、賭け事もやる。しかし女を買ったことは無い。それに手を出してしまうということは、自分の中の何か、均等のようなものが崩れるような気がしたのだ。しかし、この結城が平然とやっていることを、私がやらない訳にはいかなかった。皆からの視線もある。皆のいる前で、私が尻込みする訳にはいかなかった。

 私が返答に詰まっているのに気がついたのだろう。結城は「それにね」とまた口を開いた。

「面白い遊女がいるんですよ」

「面白い遊女? 」

 私が繰り返すと、結城は「ええ」と笑顔を見せた。

「絶対に抱かせない遊女がいるんです」

「抱かせない遊女? なんだ、それ」

 小坂が体を前のめりにさせる。「遊女の癖に抱かせないっていうのか」

「それは、あまりにも見てくれが悪いから指名されないのではなく? 」

 花園がニヤニヤと茶々を入れる。

「いや、そこまで酷い見た目じゃないよ。まあ、高級遊女と比べると劣るがね」

 結城は言って、煙を上に吐く。

「で、抱かせないというのはどういうことなんだ? それで客は満足してるのか? 」

 私が尋ねると、花園が横から、「話芸が優れているのかもしれないよ」と冗談を言った。でも実際花園の言う通りだ。何か一芸秀でているに違いない。抱かれずに遊女を名乗っているのだ。実に奇妙な話だった。

「話芸はどうだか知らないがね、その遊女ってのは、僕等みたいなことをしてるんですよ」

「俺等みたいなこと? 」

 先程から私たちは、結城の言ったことを繰り返すしかできていない。

「賭けをやるんですよ」

 結城が答えた。

「賭け」

「ええ。花札やらチンチロやらやるんです。で、勝ったら抱かせてくれる。勝てなきゃ高い指名料だけ払って帰らされる。あそこの指名料は、下級の遊女でも高いんです」

「なるほどね。ということは、恐ろしく賭けに強いって訳だ」

「そうなんです」

 結城は「どうです、いよいよ面白いでしょう? 」と煙草の灰を落とした。私も釣られて灰皿に煙草を押し付けた。

「顔は特別綺麗だという訳ではありませんが、ハマる人が続出しているらしいですよ」

 鷹藤さん、女知らないでしょう、貴方。結城はいやらしく口角を吊り上げる。

「遊女なんかに貴重な童貞を捧げることはありませんよ。ただいつものように遊ぶだけでいいんです。怖いことなんて無いでしょう? 」

「僕が負けると? 」

 私が聞き返すと、結城は、ふふっと笑い声を漏らした。

「噂によれば、鬼のように強いと聞きますからね。さすがの鷹藤さんでも敵わないでしょう」

「分からないぞ」

 私は結城を覗き込むように見て言った。結城は私をまっすぐ見つめ、肉に押しつぶされた目を細めた。

「試してみますか」

 その一瞬、店内が静まり返ったような気がした。いや、私はどこかで確信していたのかも知れない。

「ああ、興味があるな」

 この答えが、私の人生を大きく変えてしまうことを。

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