第7話 “恐怖の支配者”の影――動かないクロちゃんの、静かなる“術”
今日は少し、静かだった。
いや、正確に言うと――僕が、不在だった。
理由? 蹄鉄(ていてつ)交換。
朝いちでユウナ先生に引かれて装蹄師さんのところへ行って、そのあと少し走って。
気づけば、昼までにはクラブに戻れない。
そのあいだ、厩舎では――
ちょっとした“事件”が起きていたらしい。
* * *
ラクが、蹄洗場のすみっこに目を向けたのは、昼下がり。
日差しはぽかぽか。風の音すら遠のいていた。
「……あれ? あの馬、さっきからずっと動かないな」
鹿毛の耳がピクリと動く。
視線の先にいたのは――クロちゃん。
黒鹿毛のクォーターホース。ベテラン。
いつも無口で動きも少ないけど、今日はそれにしても、静かすぎる。
「黒鹿毛の?」
マリリンは振り向きもせずに言った。
「あれ、今朝“あの人”が騎乗したのよ。午前のレッスンで。」
「“あの人”……?」
ラクが、眉をひそめる。
「気持ちの切り替えがまだできてないのかな? でも、あれ……固まりすぎじゃない?」
まるで魔法にかけられて、彫刻になった馬みたいだった。
マリリンが鼻を鳴らした。
「違うわ。運動のあと、“彼”がまた来るの。お手入れの時間よ」
“あの人”とか“彼”とか――
マリリンたちがそう呼ぶのは、ある男性インストラクターのこと。
「……なるほど」
ラクは噂で聞いたことがある。
“馬に厳しすぎる”と噂される、その人のことを。
そのとき、ゆっくりと、草を踏みしめてプリンじいさんが現れた。
「クロちゃんはな……あれはあれで、“術”を身につけとるんや」
「術……?」
「そうや。“あの人”と関わるときの、処世術や」
マリリンが静かに言葉を重ねる。
「黙って動かないこと。“従っている”ように見せること。
何をされても、びくともしない“いい子”のフリ。
それが、あの人を怒らせない、唯一の方法なのよ」
ラクの顔が曇った。
「怒らせたら、どうなるんですか? 蹴られたり、叩かれたり……とか?」
まさかと思って口にしたけど、マリリンもプリンも、否定しない。
「怒らせないように固まってるって……ただの防衛反応じゃないですか……」
「せやな」
プリンの声が、少しだけ低くなる。
「けど、そうせんとやっていけん奴もおる。
そうせんで、ここに“おれんくなった”やつも、実際おるんや」
「……もしかしてそれ、ジュピターシンフォニーのことですか?」
プリンがわずかに目を見開いた。
「知っとるんか?」
「はい。芦毛の、ちょっと神経質なサラブレッドだったって……。
僕、競走馬時代に一度だけ、一緒のレースに出たことがあるんです」
マリリンが、目を伏せて語り始める。
「あの子はね、ここに来たばかりのころ、”指示通りに動け”って圧をかけられすぎて……
馬房でも落ち着かなくなって、人が入るとビクッとして壁際に逃げてた」
プリンが、やさしい声で続ける。
「けどな、ジュピターシンフォニーは救われたんや。
ここでは”神経質すぎて使えない”言われてたけど、元・人気馬やしな。
引き取り先がすぐ見つかって、今は子どもの引き馬にも出とる。
穏やかな日々を、過ごしとるらしいで」
「……よかった」
ラクの声が、少しだけ軽くなる。
(少しの沈黙)
クロちゃんは、相変わらず微動だにしない。
その背中を見つめながら、ラクがぽつりとこぼす。
「“あの人”って……僕らとは、ほとんど関わらないですよね?」
マリリンが、珍しく少し慌てて言った。
「でも……聞いたの。彼、今度オリヴィエの担当になるらしいって」
プリンが、低くうなずく。
「人事異動ってか、馬事異動ってか……まあ、同じようなもんや」
「……っ」
ラクが小さく息をのむ。
「大丈夫かな、オリヴィエ……」
風が一度だけ、枝を揺らした。
プリンがしばらく黙ってから、ゆっくりと口を開いた。
「……まあ、“いなくなる”のは毎回ちゃう。
せやからな、もしあかんと思うたら――声、あげるんやで。
見とるやつ、おらんようでな。ちゃんと見とる馬も、おるからな」
3頭は、それぞれ、遠くの空を見上げた。
やがて、ラクがぽつりとつぶやいた。
「“あの人”っていうのは……高峯(たかみね)っていう名前のインストラクター、ですよね?」
夕方の光の中――
向こうでまだじっと動かないクロちゃんの耳が、ほんの少しだけ、ふるえた。
まるで、その会話を……全部、聞いていたかのように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます