第6話 カワイソウって言うな。けっこう幸せやで。

その日、ローズガーデン乗馬クラブに、ちょっと珍しいお客さんが来た。

いかにも「近所からふらっと来ました」感満載のファミリー――

父、母、小学1年生くらいの男の子と、幼稚園の妹。


ぽかぽか陽気のせいか、みんな上機嫌。

放牧場の柵の向こうで草を食んでいたマリリンに、男の子が駆け寄って言った。


「ねえ、あの馬に乗ってみたい!」


その声にマリリンがふっと顔を上げた瞬間、

横から母親の声が飛んできた。


「ダメよ。お馬さん、かわいそうでしょ。競馬とか乗馬って、動物虐待なのよ」


え?


……え?


「カワイソウて、なら何で来たんや?ここ乗馬クラブやぞ?」


と、近くにいたプリンじいさんが、つぶやくように突っ込んだ。


「……動物園と勘違いしてるのかも」とラク。


「カワイソウよね?ね、パパ?」


母親の声は小さいけど強い圧を感じる。


何て答えるんだろう?って思ってたら、


父親がもっともらしく、頷きながら言う。


「たしかに。人間のために働かされるって意味では……まあ、虐待って言えなくもないかもな」


男の子はきょとんとしていたが、やがて小さな声でつぶやいた。


「……そっか、かわいそう、なんだ……」


僕は近くで水を飲んでいたけど、その言葉に背筋がピクッと反応した。

そしてそのまま、ぶふっ……と水を吹きこぼした。


僕らは興味津々で続きに聞き耳をたてていたけど、ファミリーはもう何も言うことがなくなったみたいだった。


「さあ、もう帰りましょ」


母親が急かした。


帰り際、妹ちゃんだけは最後までニッコニコの笑顔で手を振ってくれた。


「ばいばーい、おうまさん!」


マリリン、プリン、ラクの3頭が、それぞれ違うタイミングで尾を振った。

まるで、空気を読んだかのように。


しばらく、誰も何も言わなかった。

風が、木々の葉をゆらして通り過ぎていった。


プリンが、ぽつりと口を開く。


「……カワイソウ、ねぇ。ほな、“カワイソウ”て何やねん……

わしら今、草も水もあるし、脚も痛ないし、けっこう幸せやけどなぁ」


「うん」

ラクが小さく頷く。


「僕も……競馬はちょっとキツかったけど、ここに来てからは全然違う。

走れって言われても、走るのは僕だし。自分で決めてる感、あるよ」


一度言葉を切ってから、彼はぽつぽつと続けた。


「……競走馬時代はね、走れ、走れ、ばっかりでキツかったんだ。

ゲートが開いた瞬間、脳が真っ白になるくらい必死で。

他のこと考えてる余裕なんて、なかったよ。

ただ、前に出る。それだけだった」


マリリンが鼻を鳴らした。


「ふふ。人間って、“自由な馬”の定義すら、自分たちで勝手に決めるのよね。

乗馬は虐待? もし本当にそうなら、私はあんなに張り切って走ってないわよ。……まあ、相手によるけど」


「お、言うたな」

プリンがニヤリと笑う。

「あのヘタなインストラクター来たときの、おまはんの顔、忘れられへん」


「……あれは別。背中が不愉快すぎただけよ」


ラクはしばらく黙っていたけど、地面を見つめながら口を開いた。


「でもさ、あの男の子……途中で“カワイソウ”って顔になってた。

あれ、なんか……ざらっとした。背中が、ちょっと重くなった気がした」


マリリンは、ほんの少し目を伏せたあと、前を向いた。


「人間って、“かわいそう”って思うことで、自分がいい人になれた気がするのよ。

でもそれって、本当の優しさかしら?」


プリンが、ゆっくりと首を振る。


「ま、人間には人間の生き方があるんやろ。

けどな、“かわいそう”って言葉で、わしらの誇りまで削らんといてほしいなぁ……」


……沈黙。


僕は、ずっと考えていた。


「じゃあ……僕たちは、かわいそうじゃないんだよね?」


その問いに、マリリンがまっすぐ前を見据えたまま答えた。


「少なくとも、自分の脚で立ってるうちは、そうよ」


風が、尾をくすぐる。

その言葉が、じんわりと、僕の背中にしみ込んでいった。


* * *


──じゃあ、“カワイソウじゃない馬”ってどんな馬なんだろう?

野生の馬?


でも──野生の馬って、今じゃほとんどいない。


「野生の馬」という名前で知られていた馬たちの多くも、実は人間が飼育していた馬が野生化した「野生化馬」だった。

完全な意味での「野生の馬」は、もうほとんど絶滅してしまったんだ。


いちど人と暮らしはじめた馬たちは、もう“人間のいない世界”には戻れないんだ。

それがいいことなのか、悪いことなのか、僕にはわからない。


でも、僕たちは人と一緒にいることで、生きてきた。

働きすぎて、体を壊すこともある。

でも、人と心を通わせる瞬間が、嬉しくないわけじゃないんだ。


だから――


「僕たちは、カワイソウじゃないよ」


この言葉を、いつかあの男の子にも伝えられたらいいな、と思った。

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