第5話 優雅なる侵攻──マダム・エンマとイヤーネットと、にんじんと。

ローズガーデン乗馬クラブに、新しい秩序が芽吹いている。


──中心にいるのは、あの人。

東京からやってきた移住者にして、初騎乗ではズシンときた“あの背中”。

そう、我らがエンマ夫人である。


* * *


最初は礼儀正しく遠慮がちな新入会員。


でも彼女は、底知れぬパワーと人当たりの良さを両立する希少種だった。

社交スキルが尋常じゃない。


更衣室ではこうだ。


「まぁ素敵〜!それ、江間さんが作ったんですか?」

「いえいえ、白井さんの雰囲気に合うと思って、つい……つたない手仕事でお恥ずかしいんですが」

(※実際の仕上がりは百貨店レベル)


「でも白井さん、ほんとに乗馬お上手ですよね。騎乗姿がきれい!私もあんなふうに乗れるようになりたいわあ」

「えっ、そんな……♡」


──誉めて、褒めて、ほめ倒す。

もはや”誉め殺し外交”の域。


白井さんはじめ、古参の年功序列上位マダムたちでさえ、気がつけば


「江間さんって、ほんと感じがいい方よね」

「ちょっと、馬柄のポーチ見た?あれ手作りですって」

「あの丁寧さ、見習いたいわ」


……とすっかり手中に収まっている。


クラブの空気が、じわじわと「エンマ夫人寄り」に傾いていく。


さらにエンマ夫人のすごいのは、ローズガーデンで知り合ったばかりの女性会員たちを次々と自分が主催している手芸教室にさりげなく勧誘していったことだ。


エンマ夫人の自宅教室で作った、色とりどりの馬柄の手提げ袋や巾着、ポーチを見せ合いっこするのが更衣室で流行していた。


ずっと専業主婦だと聞いたけど、まるでさりげなくグイグイ契約取ってくるトップ営業みたいな人だ。


恐るべしエンマ夫人。


* * *


そんな中での、イヤーネット事件である。

(イヤーネットというのは、音に敏感な馬の耳につける耳カバーのことだ)


ある日エンマ夫人は片手にお手製のバッグ(カスパルみたいな馬のシルエットの柄のやつだ)を下げて厩舎に現れた。


満面の笑みをたたえて僕らの馬房に近づいてきた。


な、何?

何が始まる?


エンマ夫人がおもむろにバッグから取り出したのはこれまたお手製のイヤーネット。


「オリヴィエくんにはグレージュにフランス国旗ライン」

「マリリンちゃんには……やっぱりオランダカラーよね、オレンジ!」


完璧な色選び。品のいい布地。絶妙なレースの分量。


そして、トドメはセットで添えられるにんじん。

しかもただのにんじんじゃない。水分多めで甘みの強い、品種を選んでいる気配すらある。


マリリンは「私はね!イヤーネット要らない派なのよ!」なのに、エンマ夫人から一緒に差し出された大袋のにんじんを見て、黙った。


「……まあ、センスは悪くないわよね」


プリンじいさんがすかさずツッコむ。


「にんじん外交やな」


ラクもため息をついた。


「……見事な布陣だった」


──馬たちは、完全にエンマ夫人に“もてなされることの悦び”を知ってしまったのだった。



そして問題は、僕である。


イヤーネットも、にんじんも、ありがたくいただく。


でもそこじゃない。


エンマ夫人の乗り方が変わらないことだ。

ズシン、ズシンと響くたび、カワイイの声がこだまする。


「カワイイ……オリヴィエほんとに……ありがとうね……」

(※こちらこそ、背筋限界です)


ユウナ先生が「今日もがんばったね」とにんじんをいっぱいくれたけど、できれば背中の筋トレ回数を減らしてほしい。


* * *


その夜、放牧場でプリンにぼやいた。


「クラブ全体が……なんか、江間夫人仕様になってきてない?」

「せやな。うちのクラブ、**今ちょうど“エマ期”に入ったとこや」

「……エマ期?」

「誉めて包んで食べさせる。“文化と癒しの三点攻め”やな」


……たぶん、そういう時代なんだ。

にんじんと共に支配される、やさしい懐柔。


どうか、背中だけは軽くしてほしい。


それでもエンマ夫人は熱心にユウナ先生のレッスンを受け続けた。


──まいったな。あの背中にも、成長はあるんだろうか。



* * *



──それから、春が過ぎ、初夏がやってきた。


江間夫人は僕に乗ってレッスンを続けた。


彼女はカワイイ、と言い続け、僕はニンジンをもらい続けた。


僕はいつしかエンマ夫人を背中に乗せている時、重力について客観的に考え始めるようになった。


自分の筋肉や背骨の感覚ではなく、この力の原理について意識を向けることにしたのだ。


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