5 無と雨は共に詠う

この世は全て無に還るらしい。

その言葉を聞いた彼女はノートに走らせていた鉛筆を持った手をピタリと止めた。

「それで?」

彼女は視線をノートから離すことなく続きを促した。

お互い階段に座り、膝に置いたランドセルを机代わりに宿題をしていたときだった。

「人はゼロに始まり、ゼロに終わり、還るんだって」

彼は算数の宿題の答え、ゼロと書いたときに彼女にそう言った。

「還る?」

止めた手を再び動かしながら彼女は続きを促した。

「虚空?って言うんだって。そこは何もない場所でゼロで生まれたときにこの世に現れて、ゼロが終わった時に還って溶けてまたそこの一部になるんだって」

「一部に・・・ね」

お互い宿題の手を止めることなく会話を続ける。

少しずつ夕焼けが紫に染められていく気配を感じながら、彼女はちらりと横目で彼の様子を伺った。

見た目に変化はないが、その心は少しずつ夕焼けのように虚空とやらに染められていっているのだろう。

「だからこの世で地位やお金ばかり見ずに過ごしなさいって。全部溶けて無に還って一つになるんだからって」

そこで初めて彼は彼女の方を向いた。

いつもと変わらないその表情に見えるその目は、すでに遠いどこかを見つめている。

「どうしてそれを私に話すの?」

彼の目を真っ直ぐと見つめ、そう尋ねれば彼は可笑しそうに笑った。

「だって君も似たような存在なんでしょ?」

「・・・誰に聞いたの?」

宿題を終え、ランドセルにノートと筆箱をしまいながら彼女は尋ねた。

「知らないよ。それこそ君がよく知っているんじゃないの?」

子供らしからぬ笑みを浮かべ、首を傾げた彼の頭をこつんと叩くと彼女はため息を吐いた。

「知っているようで知らないよ。私はそれを無と呼んでいるんだもの」

「虚空じゃなくて?」

「虚空と名乗っているのはそれ自身でしょ」

彼女はランドセルを背負うと勢いよく立ち上がった。

もうすぐ日が完全に沈む。

それまでに戻った方がいいだろう。

「私にとって無・・・君が言う虚空っていうのは心がぽっかりと空いていることだもの。もし、世界の虚空というものがゼロに始まりゼロに終わるものならば私にとっての虚空は飢えであって、それを埋めるために何かを渇望しているんだよ」

「それで?」

「だからあらゆる想い、優しいも醜いも嬉しいも愚かもそして無も全て灯り揺らいで響いて新しい灯が空へ還ってまた降り下りてくる世界で、その何かを知るためにそして様々な人たちの想いを見届け受け入れるのが私」

「うん」

「だからゼロに始まりゼロに終わる世界は私の世界じゃない」

「知ってるよ。昨日、聞いたから」

「虚空に?でしょ」

付き合いが長いからねと彼女は呟いた。

「隙あらばゼロに取り込もうとしてくるいたずらっ子だからね」

呆れたようにそう言うと、彼女は歩き出した。

彼もそれに続いて自然と隣に並んで歩き出した。

「虚空も君の言う世界も、それぞれの一つの世界だからね」

「本来、死後は想像であり創造の世界で、同じ世界でも創り出す空間が違うはずなんだから一緒に存在出来るわけないんだよ。…誰かが想像と創造を、思想を固定させない限り」

含みのある言い方をすれば彼はゆっくりと大人びた表情で口角を上げた。

気まぐれな虚空に選ばれた人間は神として存在する。

そのまま歳をとらずに何百年も過ごす者もいれば、ある一定まで成長してから歳をとらなくなる者、人間のまま寿命を迎える者もいる。

彼がいつまで神として存在するかは知らないが、神となった以上、虚空の意思を尊重するだろう。

「君の世界もそうなの?」

「私の世界じゃないよ。雨灯は」

いつの間にかふわりと彼女の頭に白い耳が生えていた。

「雨灯は様々な想いの灯が雨として降り下りる場所。私はそこを行き来しているに過ぎないよ」

ランドセルが消え、白い九つの尾を揺らしながら彼女は微笑んだ。

黒髪も青光りする白髪へと変わり、ミディアムヘアだった髪も腰まで伸び輝いて見えている。

「雨灯は誰もが行き来が出来る想いの場所。だけど、出入口の窓はその時の想いによって姿を変えるから同時に入る以外に同じ世界には入れない」

彼女の目の前には波紋を広げたような窓が姿を現していた。

「そして、ゼロに始まりゼロに終わる君も入れない」

彼女は隣に立っている彼にそう言うと、残念でしたと笑った。

「私達はある意味、対なんだよ。虚空が始まりと終わりを司るなら雨灯はその間を司る。そのバランスが壊れちゃったら私達は存在できなくなる」

それなのにと彼女は不満そうに彼を見つめた。

「そっちの世界はすぐに還っておいでって強引に手招きするから困るんだよね」

「虚空は寂しがりなんだから仕方ないよ。特に君とは付き合いが長いみたいだからね」

「私は長生きなだけだよ。そっちの世界とそんなに接したこともないし」

彼女は窓を潜りながら、彼の方を振り向いた。

「君がこれからどうするかは見届けるけど、こちら側に手を出すなら容赦はしないよ?」

「しないよ。君の話なら対なんでしょ?それなら今まで通り仲良くしようよ」

そう微笑む彼の背後にはいつの間にか黒の空間が現れていた。

「・・・そう言ってすぐに君達は嘘を吐くからね」

わざとらしくため息を吐くと、彼女はそのまま窓を潜った。

それに合わせるように彼も黒の空間へと身を預ける。

「それじゃあ」

「また明日」

夕焼けが紫に完全に染められた頃、二人の姿は消え、その場には静寂が訪れていた。


翌日、通学路を隣に並んで歩く二人の姿があった。

楽しげに嬉しげにしかし何かを警戒しているかのようなその姿は、何かを秘めているようで詠っているようだった。

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