Part of Me

寛ぎ鯛

第1話 白のスカーフ

 汽笛が、低く長く鳴った。

 駅の裏手、夕闇に沈む小道には人影もまばらで、誰かが小さく咳払いをした音すら、やけに遠く響いた。


 隼人は、背負った軍用の布袋を下ろすと、金具の留め具にそっと指をかけた。

 中身は最低限の荷と、野営に備えた布物資、それに――白い、柔らかな布。

 差し出されたとき、澪は何も言わなかった。ただ、握った手がほんの少し震えていたのを、隼人は知っている。


 「持ってて」と彼女は言った。

 「それだけでいいから」


 ほんとうは、もっと言いたいことがあったのだろう。

 けれど、言葉の先を彼女は噛み殺し、隼人は聞き返さなかった。


 風が吹くたびに、白布の端がかすかに揺れる。

 まるで、肩に羽が生えているかのように。


 彼女の手で結ばれた布は、首元できゅっと結ばれたまま、隼人の喉の下にじっと触れている。


 彼は、それを何度も確かめるように指でなぞった。

 忘れないように。忘れたくないから。


 ――戦争が、きっと奪っていく。

 名も、夢も、顔も、言葉も。

 それでも、帰る。

 白い布が、どれだけ泥に汚れようと、血に染まろうと。

 それが、帰る道の目印になるのなら。


 ホームには出征兵たちの列があった。

 誰もが似たような服に身を包み、表情を剥がされ、無言で並んでいた。


 澪は、群れから離れた影のなかに立っていた。

 傘もささず、古びたカーディガンの袖を握りしめながら。


 隼人が歩み寄ると、澪は一歩だけ近づき、けれど抱きしめることはしなかった。

 代わりに、そっと彼のスカーフを結び直した。


 「……緩んでた」


 それだけだった。

 もう一度、言葉にすれば涙になってしまうのだと、ふたりとも知っていた。

 言葉にしないというやさしさが、この時のなかで許される、数少ない贈りものだった。


 列車が入ってくる音がして、空気がぴんと張った。


 澪は、隼人の目を見て、口を開いた。

 けれど、名を呼ぶ直前で唇を噛んだ。

 言えなかった。言わなかった。

 そして、言わせなかった。


 隼人は、ただひとつ頷き、そして背を向けた。


 列車のステップに足をかけると、後ろから吹いた風が、白い布をふわりと揺らした。

 あの瞬間、澪の手が、何かを握りかけて、そして離すのが見えた。


 彼女の中にもう一つの命があることを、隼人は知らない。

 その夜、彼女が何度も腹をさすっていたことも。


 ただ、彼は思っていた。

 あの白い布は、羽なんかじゃない。

 でも、たとえ地を這ってでも、この布をつけて、必ず帰る。

 そう、信じていた。

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