第3話 ただ、側にいるということ

藤川千夏さんと初めて会ったのは、病室ではなく、自宅のリビングだった。

若く、明るく、そして驚くほど穏やかな笑顔。

遥は、その印象に拍子抜けするほどだった。


「保健師さん? わざわざありがとう。わたし、案外元気でしょ?」

そう言って笑う千夏さんの声は、病気のことを忘れさせるほど力強かった。


──でも、知っている。

この方が、がんの末期にあるということを。


彼女の病状は緩和ケアの段階に入っていた。

家族の希望で、在宅で過ごせる限りは自宅で、と決まったばかりだった。


訪問のたびに、千夏さんは遥を歓迎してくれた。

お気に入りの紅茶を淹れてくれたり、昔の旅行のアルバムを見せてくれたり。

痛みや体調の変化を聞くのが仕事なのに、気づけばいつも遥の方が話を聞いてもらっていた。


「ねえ遥さん、思うんだけど……

“最後まで生きる”って、“明日がある”って信じることだと思うの」


ある日、千夏さんはそう言った。

「明日があると思って寝ること。起きられなくなったら、それはそれでいい」


その言葉の強さに、遥は何も言えなかった。


千夏さんが手紙を託してくれたのは、最期の訪問の数日前だった。


「読まないでね。私がいなくなったら、渡してもらう用よ。

でもね、遥さんにはもう一通。今、読んでほしいやつ」


手渡された封筒の中には、短い言葉が綴られていた。



“何もできなくても、あなたが側にいてくれるだけで、私は生きていると思えました。”



その夜、遥は家で泣いた。

何度も、何度も、封筒を胸に抱きしめて。


翌朝、父の隣に静かに座った。

何も言わず、ただ、肩に手を添えた。

そのぬくもりが、ほんのわずかに震える父の指先に届くような気がした。


──話せなくても、何かが伝わる。

──ただ、ここにいる。それだけでいいときがある。


医療でもなく、言葉でもなく、

ただ“人としてそばにいる”という支え方があると、千夏さんが教えてくれた。


遥はもう、自分の無力さを恐れなくなった。


ポロシャツの袖をまくり、次の一歩を踏み出す。

誰かの一日が少しでも穏やかになるなら、それだけで、きっと意味がある。

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