宿の出会い
「あそこ右に入るで」
津和野城下町って書いてあるからそうなんだろうけど、信号もないのかよ。ここまでは、そんな感じの道だったけどね。わお、曲がってみるとヘアピンかよ。おい、またかよ。どんなとこに行こうって言うんだ。
この辺から津和野市街だと思うけど、右手に見えるのは津和野駅みたいだな。けっこうオシャレな駅だよ。さすが津和野だ。お土産さんみたいなのもあるし、風情のありそうな食べ物屋さんとか、なんかわかんないけど立派そうな家もあるじゃないの。
「里芋焼酎なんかあるんやな」
ホントだ。さすが津和野だ。また源氏巻屋さんがあるけど津和野だよね。これはオムライスの店みたいだけど、さすが津和野だ。
「ここみたいや。隣が駐車場ってなっとるから、停めさせてもらお」
新しそうだけど、良かった、ちゃんとフロントで受付してくれてルームキーもちゃんとあるぞ。湯村温泉のスマホが命みたいなところより、ちゃんと人がいて出迎えてくれるところの方が千草は嬉しいな。さて今夜のお部屋は、おっとダブルベッドか。
「やっぱりベッドは普通にベッドの方がエエな」
上段の間はなんか落ち着かなかったものね。荷物を片付けたら、まずはお風呂だ。ここのお宿なんだけど、なんとなんと温泉なんだよ。さすが津和野だ、掘れば温泉まで湧いてくる。
これは気持ち良いぞ。とにもかくにも、しっかり磨いておかないと。湯上りの女は艶っぽくなると言うけど、さらに決め手はそこに漂う石鹸の香りのはず。あれこそが清楚な千草のような女を引き立たせてくれるんだよ。
コータローはラウンジで待ってくれたのだけど、へぇ、ラウンジの窓越しのところに鯉が泳いでるぞ。鯉が横長の長方形になってるから、掘割の鯉をイメージしてるはず。さすがは津和野だ。
お茶のサービスもあるのが嬉しいな。まめ茶っていって津和野特産らしいけど、これこそ津和野のお茶だ。ラウンジの隣のロビーもオシャレで楽しそうだ。津湾百景てのに因んでる感じみたい。部屋に戻ってソファで肩寄せ合って座るとまるで本当の恋人同士みたいじゃないの。
「あのな、オレらは恋人を越えた夫婦やで」
そうなんだけど、なんかさ、恋人同士で旅行に来ている気分になるのよ。あははは、そんな旅行に憧れてたな。だってさ、大学生のカップルにもなるとラブラブ旅行に行くじゃないの。あれって絶対に楽しそうだもの。
「千草は二年しかあらへんかったもんな」
短大だったからね。入って一年したら最終学年なのは愛想なさすぎた。短大だって最終学年になれば卒業あれこれもあるし、就活だってあるものね。もっともそれ以前の問題が巨大すぎたのは置いとく。コータローは六年もあったのよね。
「まあな」
コータローは大学によって違うと前置きしてたけど、どうも試験に追いまくられる感じだったらしい。それも学年が上がるほどシビアになって行ったのか。これもコータローに聞いて初めて知ったのだけど、その試験って全診療科にあるらしくて、
「卒業試験ともなると眩暈がしそうやった」
千草なんか聞いてるだけで眩暈がしそうだった。とにかく最終学年の半分ぐらいがひたすら試験に追いまくられ、やっと卒業できたら、
「ラスボス国試がおるってことや」
試験範囲と言っても、コータローは教科書レベルとしてるけど家庭の医学どころのレベルじゃないのよね。その教科書レベルの医学書を読んで理解できるところまで行くだけで大変なんてものじゃなさそうだもの。
医者になるのも甘くないね。でもカップルもいたって言うか、コータローにもいたものね。やっぱりラブラブ旅行に行ったよね。
「まあな」
ところでさ、女子医学生っているじゃない。やっぱり医者と結婚するものよね。
「昔はそうやったらしいけど、今やったらそんな事しとったらあぶれるわ」
女医さんなのにあぶれるの?
「単純な算数や。今は四割以上が女子や。男の医者が根こそぎぐらいで女医と結婚せんと数が足らん」
なるほど! 千草が一人取っちゃって悪かったかも。食事の時間になってお食事処へ。基本は懐石みたいだけど、利き酒が出来るじゃない。千草もコータローも酒飲みだけど純ビール党ではない。
ビールも好きだけど他のお酒もOKで、もちろん日本酒も好きなんだ。やっぱり懐石に一番合うのは日本酒でしょ。さすが津和野だ。料理もお酒も美味しい。
「千草は津和野が憧れやもんな」
そうなんだよね。女子だから津和野に憧れたって構わないようなものだけど、理由ははっきり言ってない。なんとなく津和野って語感に魅かれたぐらいかな。でもね、でもね、これって短大時代からずっとあったんだよ。
あの頃は乙女の夢みたいだったかな。好きな人と津和野に旅行して、そこで結ばれるみたいなもの。あの頃はいつか千草に白馬の王子様が現れてくれて、千草を幸せにしてくれると信じてたのよね。
「エエ夢やんか。だいぶ力不足なんは我慢してくれ」
そんな事があるもんか。千草が夢で望んだってありえないぐらい良い男がコータローだ。だいたいだぞ、これだけ千草にとって都合が良い男が、この世に他に存在するはずがないだろ。まさに夢にさえ現れようがない白馬の王子様だ。
だからね、今日津和野に来てまた一つ夢が叶ったんだよ。すべてを捧げ尽くしても足りないぐらい愛してる相手と津和野に来る夢がね。もう嬉しくって、嬉しくって、
「水鳥先生じゃないですか」
はぁ、誰だと思ったら藤島監督だ。藤島監督はまさに旬の売れっ子監督なんだ。
「奥様も変わらずお美しくて羨ましい」
千草も知ってるんだよ。
「ご一緒しても宜しいですか」
藤島監督が席を移動してきて、
「カンパ~イ」
まさかこんなところで出会うなんて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます