第32章「その音に、名前はない」
放課後の音楽室。
外では夕焼けが滲んでいて、
カーテン越しに差す光が、まるで煙のように室内を染めていた。
ピアノの鍵盤を、芽依がひとつ、またひとつ押す。
そこに言葉はない。
ただ、音だけが落ちていく。
「……今日、ことばが出ないの」
ことねがぽつりと呟いた。
彩葉がギターの弦を張りながら顔を上げる。
「うまくいかない?」
「ううん、うまくいかないっていうより……うまく言いたくない、って感じ」
芽依が一瞬だけこちらを見るが、やっぱり何も言わない。
「なんかね、今日に限って“名前”がつけられないの。
この気持ちに、タグとか、タイトルとか、なんにも浮かばないの」
ことねが言葉を探しながら、ノートを閉じる。
「……別にさ、無理に名前つけなくてもよくない?」
彩葉が、いつもの調子で軽く言う。
でもその声は、やさしかった。
「“名前のない感情”とか“名前のない音”とか、
そういうのが一番リアルじゃない?」
「……うん」
ことねが小さく笑う。
「でも、それって“ラップ”になるのかな……?」
その時だった。
芽依がPCに向かって、ひとつトラックを立ち上げた。
ノンビート。ピアノのサンプルがずれて重なり、遠くでスクラッチが滲む。
“未完成のビート”。
“未定義の音”。
「……これ、なに?」
ことねが問うと、
芽依が初めて、ぽつりと答えた。
「名前、ない」
その音を聴いた瞬間、
ことねの胸にわき上がってきたものは、悲しみでも喜びでもない。
ただ、「わかる」だった。
「……この音、わたしだ」
🎧 姫咲ことね・フリースタイル Verse:
『名前がない日を 生きていた
名前がないまま 笑ってた
名前じゃなくて 感情の音で
わたしは今 ここにいる』
『名札はいらない 看板もいらない
ただ“わたし”を音にするだけ
それが ラップだって言えるなら
今日も マイクを握っていい?』
「……それ、曲名つけるならなに?」
彩葉がことねに聞く。
「うーん……」
「“その音に、名前はない”とかどう?」
「……あ、それ、いい」
ことねが笑った。
芽依も、無言でうなずいた。
📍夜、町田駅前・小田急線ホーム下
猫丸が、べすと一緒に歩いている。
「……名前のない音って、たまに一番刺さるよな」
黒ラブが「ワン」と吠える。
「お前の吠え声も、案外ビート刻んでんのかもな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます