第1章「この町にビートは響くか?」
放課後の町田高校、夕焼けに染まる教室で姫咲ことねは机に向かっていた。ノートの端に走り書きした言葉たち――それは韻を踏んだ短いフレーズの断片。彼女は周囲に誰もいないのを確認すると、小さくラップのように口ずさんでみる。だが声にならない。喉の奥で言葉が震えるだけだ。「…やっぱり無理だよね」ことねはため息をつき、ノートを閉じた。 「ことねー!まだいたの?」元気な声が教室の入口から響いた。結城彩葉が鞄を肩に掛けて駆け寄ってくる。彩葉はクラスでも人気者で、その明るさは夕陽に負けないくらい輝いていた。「もう帰ろうよー。今日サイゼ行くんでしょ、忠生の!」彩葉が笑顔で言うと、ことねは「あ…うん」と静かに頷いた。 二人は並んで校舎を出る。町高の門を抜けると、いつもの帰り道だ。彩葉は楽しげにおしゃべりを続ける。「ねえ、今日さ、サイゼ着いたらミラノ風ドリア頼もう!あとデザートも半分こしよ?」ことねは相槌を打ちながらも、心ここにあらずだった。ノートに書き留めたリリックが頭から離れない。いつかこの言葉を声にしてみたい――心の奥で小さな炎が揺れているのをことね自身感じていた。 サイゼリヤ町田忠生店に到着すると、店内には放課後の学生たちがちらほら集まっていた。二人は窓際の席に腰を下ろす。彩葉はさっそくドリンクバーへ向かい、ことねはその間にカバンからノートを取り出してぱらぱらとめくった。ページの端には自分だけの言葉が詰まっている。誰にも見せたことのない秘密のリリック…。ことねはページを撫でながら小さく息を吐いた。 「何見てるの?」戻ってきた彩葉がグラスを二つ置いて尋ねる。ことねははっとしてノートを閉じ、「ううん、なんでもない」と笑って誤魔化した。彩葉はジト目で「怪しい〜」と笑う。「ノート貸して?」と冗談めかして手を伸ばすと、ことねは「だ、ダメ!」と珍しく慌ててノートを鞄にしまいこんだ。「おお、焦ってる焦ってる。何書いてんのさ〜?」彩葉は面白がってニヤニヤする。ことねは耳まで赤くしながら、「…別に、ただの落書き」と小声で答えた。 彩葉はストローをくわえてジュースを飲みながらスマホを取り出す。「そーんな大事に隠すってことはさ、ひょっとしてラブレターだったり?」ニヤリとからかう。その言葉にことねはぷるぷると首を振った。「ち、違うよ!」――心拍数が跳ね上がる。彩葉の勘は鋭い。ラブレターではないが、自分の心を記した言葉という意味では図星だった。 「冗談だってば」彩葉は笑い、スマホの画面に目を落とす。「それより、見て見て。今日ね、町田駅前で即興のラップサイファーがあるって!毎週土曜にやってる人たちいるらしいよ。面白そう!」そう言って彩葉はとびきりの笑顔をことねに向けた。 ことねの胸がドキリとする。「ラップサイファー…?」頭の中で言葉が反響する。町田駅前でラップ――そんな世界が身近にあるなんて思いもしなかった。「行ってみようよ、ことねも興味あるでしょ?」彩葉が身を乗り出して誘う。「え、でも…」ことねは戸惑って視線を落とした。興味がないわけではない。むしろ心臓が高鳴っている。けれど自分なんかが行っていいのだろうか、不安が足をすくませた。「わたし達さ、いつも学校とサイゼの往復ばっかじゃん?たまには都会に繰り出そう!」彩葉はウインクする。「町田駅前って東京都だけど神奈川みたいなもんでしょ?他県デビューだよ!」ことねは思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を手で隠した。 「…少しだけ、覗くだけなら」ことねが小さく呟くと、彩葉は「決まり!」とテーブルを叩いた。「じゃ、ご飯食べたら行こ!まだ時間あるしさ」こうして二人は急遽予定を変更し、町田駅へ向かうことになった。 *** 日が暮れかけた町田駅前は、昼間とは違う顔を見せていた。駅前には大きなバスターミナルがあり、周囲を丸井やルミネなどの商業ビルが取り囲んでいる。行き交う人々の足取りもどこかせわしない。そんな喧騒の片隅、駅前広場の一角に小さな人だかりができていた。 「ね、あそこじゃない?」彩葉が指差す先には、十数人ほどが輪になっている。その中心で一人の青年がリズミカルに体を揺らしていた。携帯スピーカーから重低音のビートが流れ始め、夜の空気を震わせる。 「Yo、町田ステーション、揺らす振動!」青年が声を張り上げると、仲間たちが「フゥー!」と盛り上げる。彩葉は興奮してことねの腕を引き、人垣の近くへ。「この街の喧騒もすべてBGM!」青年がライムを刻むと、ビートに合わせて手拍子が起きた。「おおっ!」とどよめきが上がる。ことねは息を呑む。マイクもない路上なのに、その声は胸に直接響いてくるようだった。これがラップ――頭で思い描いていたよりずっと魂がこもっていて、生々しくて眩しい。 「次、誰かやる人いる?」青年が一通りフリースタイルを終えると、周りに声をかけた。仲間の一人が「じゃあ次オレいくわ」と手を挙げる。その時だった。不意に彩葉がことねの背中をぐいっと押したのだ。「ほら、ことね!チャンスだよ!」突然のことでことねは前につんのめり、輪の中に半歩踏み込んでしまった。 「あ…」視線が一斉に自分に集まる。心臓が耳元で爆音を立てる。ことねは固まってしまった。声を出さなきゃ。しかし頭が真っ白になる。「お、やるの?」先ほどの青年が優しく笑って促す。「だ、大丈夫…です」ことねは蚊の鳴くような声で答え、一歩下がろうとした。 ポケットの中で手が震えている。違う、ほんとは私だって――勇気を出せ!今逃げたら後悔する。耳の奥でビートが鳴り続ける。ことねは震える唇を開きかけた。 ノートに綴ったリリックが脳裏に蘇る。心の底から絞り出すように、ことねはか細い声で韻を踏み始めようとした。
無口な私に宿る言霊
胸の鼓動が刻む16小節のドラマ
声にならない叫びもいつかは空へ
沈んだ街に光放て
――最初の一行が口を出たか出ないかという瞬間、ことねの声は喉の奥で途切れてしまった。透明な壁に遮られたように、それ以上言葉が続かない。張り詰めた沈黙が輪の中心に落ちた。「…ご、ごめんなさい!」ことねは顔を真っ赤にして頭を下げ、その場から飛び出した。 「ことねっ!」彩葉が慌てて追いかける。人混みをかき分けて広場の端まで駆けてきたところで、彩葉はことねの肩を掴んだ。「待ってよ!」息を切らしながら言う。ことねは下を向いたまま、悔しさでいっぱいだった。目の奥が熱い。「…恥ずかしい」と震える声が漏れる。彩葉は優しく微笑んだ。「全然恥ずかしくないよ!少ししか言えなくても、ことねの言葉はちゃんと響いてた。みんな真剣に聞いてたもん!初めてであれだけやれたのすごいって!」その言葉にことねは目を丸くした。ほんの一行でも、自分の声が誰かに届いたなんて――胸の中で温かいものが広がっていく。 「大事なのは踏み出したことだよ」彩葉が背中をさする。ことねは涙を拭って小さく頷いた。確かに、自分は半歩でも踏み出せたのだ。 ふと、背後から低い声がした。「…ビートはまだ止まっちゃいないぜ?」振り返ると、猫の刺繍入り帽子をかぶった初老の男性が立っている。ことねと彩葉がキョトンとする中、男はニヤリと笑って続けた。「心の中の16ビートが鳴り続ける限り、リリックは生きてるもんさ」そう言い残し、スタスタと人ごみに消えていく。 「今、『根津猫丸』って名乗ってた…? 何あのおじさん、怪しすぎ!」彩葉はぽかんとした後、吹き出した。彼女につられてことねもくすりと笑う。さっきまでの緊張が嘘のように、二人の笑い声が駅前に溶けていった。 笑い終えると、彩葉はことねの手を握った。「ねえ、ことね。私決めたことがあるんだ」真剣な眼差しに、ことねは「え…?」と瞬きをする。彩葉は言葉を続けた。「ことねのラップ、もっと聞きたい。ちゃんとやってみようよ!二人でラップユニット組まない?」思いがけない提案にことねは目を見開く。「で、できるかな…」戸惑うことねに、彩葉は力強く頷いた。「大丈夫、私も協力する!普段静かなことねの中には熱いものがあるでしょ? そのギャップに合う名前…Silent Riotとかどうかな?」 静かな暴動――自分の中の静けさと熱い衝動。その両方を表すように感じられる響きだった。「Silent Riot…」ことねは小さく繰り返す。胸がトクンと高鳴った。「…いい、すごくいい」気づけば言葉が口をついて出ていた。先ほどまでより少しはっきりした声で。 空を見ると、駅前のビル群の上に夜の幕が降り始めていた。喧騒は相変わらずだけど、その中で自分の声がほんの少し響いたことをことねは思い出す。遠くでまだビートの残響が聞こえる気がした。「この町に…ビートは響くかな?」ことねがぽつりと呟く。 「響くよ、絶対!」彩葉が即答し、ことねの手を引く。「さ、帰ろ!今日から作戦会議だね!」彩葉に続いて、ことねも歩き出した。胸の奥で、16小節の鼓動が高鳴り始めていた――。
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