八月三日(日):ハサミ


 これは、都内の美容専門学校に通っていた頃の、佐々木絵里香さんが語ってくれた、今も忘れられない、恐ろしい話です。

 絵里香さんが通っていたのは、渋谷から少し外れた場所にある専門学校で、美容師を目指す若者たちが集まる場所でした。授業では実技も多く、カット用のウィッグ、つまりマネキンの頭部を使ったトレーニングがほとんど毎日行われていたそうです。

 彼女は特に『カット技術』に興味があり、放課後も教室に残っては、一人で黙々とハサミの使い方を練習していたという話です。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 ある夏の週末、日曜日の午後でした。

 絵里香さんは、その日も遅くまで自主練のため教室に残っていました。学校は夏休みに入っていて、生徒は彼女一人だけ。教室の照明も最低限で、外はまだ明るいものの、室内は薄暗く、クーラーの効いた静かな空間にウィッグの並んだ棚が整然と並んでいたのです。

 絵里香さんは、自分の使い慣れたカット用ハサミを取り出し、目の前のウィッグに向かって作業を始めました。

「……とりあえず、軽くといて、全体の量を減らしていく感じで……」

 しかし、ふと違和感を覚えました。ウィッグの髪が、いつもより「重い」、そんな奇妙な気がしたのです。切るたびに、毛の断面から妙な湿気を感じ、手元のハサミが、少しずつきしむような感触に変わっていきました。

「……油切れかな?」

 そう思い、彼女は作業を止めて刃先を確認しようとした、まさにその時。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

「カチ、カチッ」

 教室の奥のウィッグ棚の方から、小さな金属音が響いてきたのです。それは、間違いなくハサミの……音。他には誰もいないはずなのに。

「先生?」

 声をかけてみましたが返事はなく、音もぴたりと止まりました。

 気のせいかと思い、再び作業に戻ろうとした、まさにその瞬間——

「……いたい」

 確かに、耳元で囁くような声がしたのです。それは、はっきりと、絵里香の耳に届きました。

 びくりと身を引いた絵里香さんは、思わず背後を振り向きました。しかし、そこには誰もいませんでした。

 ただ、教室の一番奥に置かれていた、使用されていないはずのマネキンの首が、さっきまでは正面を向いていたのに、いつの間にか絵里香の方に、不自然なほど少しずれていたのです。

 その顔——というよりは「顔らしきもの」の口元が、微かに開いているように見えたのです。

「……いたい」

 再びその声。そして、まさにその時でした。彼女の手に握られたハサミが「ギシ……」と不気味な音を立てて動かなくなったのです。

 恐怖で手を離すと、ハサミは床に落ち、そのまま「チリ……チリ……」というおぞましい異音とともに、まるで何かに吸い寄せられるように、ウィッグ棚の方へと滑っていったのです。

 絵里香さんはもう恐ろしくて、そのまま荷物も持たずに教室を飛び出したのです。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 数日後、再び登校した彼女は、その時落としたハサミを、信じられない場所で見つけました。

 教室の奥の棚の中、例のウィッグの足元に、まるで誰かに丁寧に置かれたかのように、きちんと置かれていたのです。

 しかし、そのハサミの刃先には、髪の毛では説明できない、薄い赤黒い染みがついていたというのです。

 それ以降、彼女はそのハサミを使うのをやめ、新しい道具に買い替えたとのことです。

 ただ、彼女が言うには──。

「夜の教室に一人で残ると、時々、あの“音”が聞こえる気がするんです。誰かが、何かを……切っている音が」

 あのハサミは、いったい何を切ってしまったのでしょうか。

 髪だけではない『何か』を──。

 もしあなたが、知らずにそのハサミを手にしてしまったとしたら。そしてそれが“また”勝手に動き出したら。その時、あなたはどうしますか?

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