七月二十九日(火):格安物件

 これは、今から数年前、かつて埼玉の山間に住んでいた、小林さんという方から直接聞いた、ゾッとするような不気味な出来事です。

 小林さんは三十代の男性で、当時はとある建築会社に勤めていました。職場から少し離れた山のふもとにある中古の一軒家を格安で購入し、週末には庭いじりや釣りなど、自然に囲まれた静かな暮らしを楽しんでいたそうですよ。

 ある年の梅雨明け直後、まさにこの時期の火曜日でした。小林さんは早朝から現場に出ていたため、帰宅したのは夜八時を過ぎていました。夏の空気はまだじっとりと湿っており、庭には虫の声とカエルの合唱がけたたましく響いていたそうです。

 その日は珍しく、家の裏手にある細道にふと人影が見えました。街灯もないその道を通る人間は滅多におらず、小林さんは『珍しいな』と思いながらも、あまり気に留めなかったそうです。小さな懐中電灯の明かりを手に、小林さんは自宅の勝手口から中に入りました。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 その夜、まさに彼が寝入ろうとしたその時、奇妙なことが起こったのです。

「カサ……カサ……」

 天井の上から、微かに音が聞こえてきたのです。最初はネズミか鳥が迷い込んだのだろうと考え、気にも留めませんでした。しかし、その音は徐々に、そして確実に近づいてきて、やがて天井の一点、ちょうど小林さんの枕元にある場所でぴたりと止まったのです。

「……そこに、いる」

 そう思った瞬間、背筋に氷を流し込まれたような感覚が走り、小林さんは布団の中で恐怖に息を潜めたのです。

 そのまま何事もなく朝を迎えたものの、天井裏が気になり、小林さんは仕事帰りに脚立を使って点検口を開けてみました。すると、埃まみれの板張りの床には、いくつもの『小さな裸足の足跡』がついていたということです。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 まさか、本当に誰かが、そこを歩いていたのです。しかも、子どものように小さな足で……。

 小林さんはその日から、夜になると必ず鍵をかけ、窓のカーテンも二重に閉めるようになりました。ですが、それでも音は毎晩のように聞こえ続け、その場所も徐々に移動していったのです。ある夜にはトイレの天井から、またある夜には風呂場の上から……。

 そして一週間が経ったある夜、恐怖はさらに、明確な形をとって現れました。小林さんが風呂から上がろうとした、まさにその瞬間でした。

「ピチャ……ピチャ……」

 床に水が落ちる音がします。シャワーは止めたはずなのに。おかしいなと思いながら振り返ると、風呂場の天井、ちょうど照明の真下に、『小さな手の跡』が水滴と一緒に、くっきりと浮かび上がっていたのです。指が五本、まるで何かを掴むように、しっかりと天井に張りついていました。

「うわっ!」

 思わず声を上げ、小林さんは風呂を飛び出しました。翌日、大工の知人に頼んで天井裏を徹底的に調べてもらいましたが、やはり人が入れるようなスペースはなく、ましてや子どもが歩くような余地はどこにもなかったということでした。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 その後、小林さんは夏が終わると同時にその家を手放してしまいました。どうしても夜の音と気配に耐えられなかったのだそうです。

 あの足跡も、あの手の跡も、一体誰のものだったのでしょうか。

 夏の夜、山の静けさの中にまぎれて現れる“何か”が、今もなお、あの家の天井裏を、ひっそりと歩き回っているのかもしれませんね……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る