七月二十七日(日):空海
これは、今から数年前、東京の某出版社に勤める編集者、島田宏人(31歳)が体験した、忘れられない出来事です。霊や宗教など一切信じなかった彼が、その身に受けた、あの背筋が凍るような記憶は、今でも島田の脳裏に焼き付いて離れません。
仕事の一環で、島田はとある『心霊特集ムック』の制作を任されていました。
テーマは、『空海と霊場の謎』。
四国八十八箇所を取材し、弘法大師・空海の“今も生きる”信仰を、科学的な視点で読み解くという企画でした。
実を言えば、島田は霊や宗教など一切信じていませんでした。
「『弘法大師? 即身成仏? ……ファンタジーだよな』」
ですが、締切は待ってくれません。彼は必要に迫られ、高野山にある、とある古寺を訪れることになったのです。
その寺は観光ルートから外れた場所にひっそりとあり、かつて空海が立ち寄ったとされる伝承を持つのですが、今では廃寺同然でした。
紹介してくれた地元の学芸員が、こう言ったんです。
「『……この寺には“弘法の間”が残ってる。空海が、かつて一晩泊まったという記録があってね。昔からあの部屋で夜を過ごすと、“その姿”が見える、って噂があるんだよ』」
島田は鼻で笑いました。
「『泊まれますか?』」
学芸員は、顔色を変えて忠告しました。
「『止めた方がいいよ。……冗談抜きで』」
ですが、企画的には、どうしても『泊まってみた編集者の体験談』が欲しかったんです。
島田は、その時はまだ、事の重大さを知らずに、意気揚々と“弘法の間”に泊まることを決めたんです。
━━━━━━━刻━━━━━━━
その部屋は、畳八畳。
中央に墨で書かれた掛け軸がかけられており、そこには達筆でこう書かれていました。
『一切衆生 悉有仏性』
(すべての者に仏の性があるという意味です)
部屋の隅に、小さな木製の座像が置かれていました。
空海の肖像。ですが、その表情はどこか歪んで見えました。
「『……怖いっていうか、ただ古いだけだな』」
そう呟いて、島田は持参した取材ノートを広げました。
寺の構造、年表、伝承などを書き写していきます。時刻は、すでに22時を過ぎていました。
すると……。
畳の上を、何かがずるりと這う音がしました。
見ると、黒い袈裟の裾のような布が、畳の隅からすうっと、引っ込んでいくのが見えたのです。
「『……誰か、いるんですか?』」
返事はありません。ですが、確かに、部屋の奥に“人の気配”がするのです。
空気が、明らかに変わりました。
湿って重い。まるで、目に見えない何かが部屋全体に染み込んできたような、ひどい息苦しさでした。
ふと視線を感じ、掛け軸に目をやりました。
さっきまで、ただの無地だった墨の余白に……。
まるで、墨がにじみ出るように、新しい文字がくっきりと浮かび上がっていたのです。
『七月二十七日、開眼の刻』
島田の体温は、まるで氷水に浸かったかのように、一気に下がりました。
「『……なんだよ、これ』」
部屋の空気は、まるで熱で揺らぐかのように、歪み始めました。
天井の梁の上から、ひっそりと、白い指が一本、その姿を現したのです。
━━━━━━━刻━━━━━━━
次の瞬間、もうそこには、部屋の中央に誰かが座っていました。
黒い法衣に、長い数珠を携え、真っ直ぐな背筋で……。
ですが、その顔は、まるで視認を拒むかのように、影のようにぼやけて、はっきりと見えません。
島田が声を出そうとする、その前に、その存在は静かに、しかし確実に、動き始めました。
ゆっくりと、あの歪んだ表情の座像に向かって手を伸ばしました。
ゴトッ、と。
座像が倒れました。
その瞬間、部屋の空間そのものが、まるで裂けるように開きました。部屋の中にあるはずのない、石の階(きざはし)が、ガラガラと音を立てて畳の下から現れたのです。
それは、どこまでも深く、黒く、ただただ下へと続く石段でした。
その底からは、不自然なほどに冷たい風が、ぞっとするほど吹き上がってきました。
そして、その階段の底には、何かが、確かに存在していたのです。
無数の白い僧衣が、うごめいていました。よく見れば、それは顔のない者たち。口が裂け、耳が欠け、額に不気味な印を刻まれた、おびただしい影たちだったのです。
その中心に、ひときわ大きな法衣をまとった影が、じっと立っていました。
その時、島田の手帳が、まるで意思を持ったかのように、勝手に開いたのです。
白紙だったページに、血でもにじんだかのような、墨の字がゆっくりと浮かび上がってきました。
『すでに開眼せり 次に坐すは誰ぞ』
島田は、その意味がまったくわかりませんでした。
ですが、彼の体は、まるで操られるかのように、勝手に正座を始めました。
手が、膝の上にまるで縫い付けられたように乗り、背筋が伸びていきます。そして、彼の意思に反して、ゆっくりと目を閉じそうになっていきました。
「『……待て』」
必死に声を上げ、立ち上がろうとしましたが――その瞬間、もう彼の体は、ピクリとも動かなくなっていたのです。
━━━━━━━刻━━━━━━━
翌朝。
学芸員が様子を見に来たとき、島田はあの不気味な“弘法の間”の中央で、正座をしたまま、まるで石像のように動かなくなっていました。
その目は大きく見開かれたままで、口元だけが薄く、奇妙に笑っていた、という話です。
その後、病院に運ばれましたが、原因不明の“昏睡状態”と診断されました。
ですが奇妙なことに、島田の瞳孔は完全に開いたままで、脳波にだけ、ごく微細なパターンが検出された、というのです。
まるで、今もなお、何かを“視続けている”かのように……。
そして、彼の取材ノートの最後のページには、こんな一文が残されていたと聞きます。
『空海は生きている――その座に入れば、視えてしまう』
七月二十七日は、空海がこの世に現れたとされる日です。
ですが同時に、あの部屋で、あの座で、“次なる目覚め”が起こる日でもあるのかもしれません。
そう、それは、まだ誰も、その真実を知らないだけで……。
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