七月二十五日(金):かき氷

 これは友人から聞いた恐ろしい話です。都内の住宅街に暮らすOL、藤田麻美(二十八歳)。彼女のささやかな趣味はカフェ巡り。そして何より、夏になると必ず口にする「かき氷」だった。中でも麻美が心待ちにしていたのは、自宅近くにひっそりと佇む老舗の和菓子店が、夏期限定で出すという天然氷のかき氷だった。

 その店は、賑わいの消えた古い商店街の端に、まるで時が止まったかのように佇んでいた。煤けた店先に、色褪せた赤い暖簾がたおやかに揺れる。見るからに昭和の面影を残す古めかしい店構えだが、天然氷を謳うそのかき氷は、巷の口コミサイトで「雪のようにふわふわで頭がキーンとならない」「一度食べたら他店のものは食べられない」と絶賛されていた。

 その年の夏も、息苦しいほどの猛暑が続いた。麻美は、仕事を終えると、吸い寄せられるようにその店へと足が向かった。

「いらっしゃい」

 店に入ると、腰の曲がった白髪の老夫婦が、暖簾の奥から姿を見せた。特に小柄な奥さんの顔には、深い皺が刻まれながらも、貼り付けたようににこやかな笑顔が浮かんでいた。

 メニューはわずか三種類。定番のいちご、抹茶。そして、どこか謎めいた「特製蜜」。去年、その奇妙なまでの風味に感動した麻美は、今年も迷わず「特製蜜」を注文した。

 店の奥から、氷を削る音が響いてくる。ガリ……ガリ……と、昔ながらの手回し式の氷削り機特有の、鈍い音だ。白い氷が、皿の上にこんもりと積まれていくのをカウンター越に眺めているだけで、麻美の胸は期待に高鳴った。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

「お待たせしました」

 そう言って運ばれてきたのは、雪のようにふわふわの氷に、透き通った蜜が惜しげもなくたっぷりとかかった、見るからに涼やかな一杯だった。一口。その瞬間、口の中で氷がすっと溶け、舌の上にじんわりと、形容しがたい甘みが広がった。

(ああ、やっぱり……最高だ……)

 麻美は夢中で食べ進めた。その時だ。ふと、得体の知れない違和感が、背筋を這い上がった。

 ――何か、ひどく冷たい視線を感じる。

 カウンターの奥。薄暗い棚の隅に、一体の古びた日本人形が、そこに座していた。その能面のような顔が、こちらをじっと見つめているようにしか思えない。

(え……こんな人形、前々からあったかしら……?)

 麻美はぞくりとしたが、気のせいだと自分に言い聞かせ、残りの冷たいかき氷に意識を集中した。


━━━━━━━刻━━━━━━━

  

 最後のひと口を、ゆっくりと、しかし名残惜しむように食べ終えた。スプーンを置くと、奥さんがいつの間にか背後にすっと現れ、貼り付けたような笑顔をさらに深くして、言った。

「……気に入っていただけたようですね。ありがとうございます」

 その言葉と、ぞっとするほど貼り付いた笑顔に、麻美は軽く会釈すると、一目散に店を後にした。


━━━━━━━刻━━━━━━━

  

 その夜、麻美はひどい喉の渇きを覚え、目を覚ました。

 妙に暑い。設定温度を低めにしているはずのエアコンが効いているにもかかわらず、全身からべっとりとした汗が噴き出していた。

 冷蔵庫の冷たい水を一気に煽り、寝室に戻ろうとした、その時だ。キッチンの隅に、白い何かが落ちているのが目に入った。

 ――氷のかけらだ。

(……なんで、こんなところに氷が……?)

 麻美が不審に思い、近づこうとすると、その氷は、じわりじわりと音もなく溶け出し、床に小さな水たまりができていた。

(おかしい……)

 疑問を抱えたまま寝室に戻ると、部屋の空気が、先ほどとは打って変わって異様に冷え込んでいた。窓は固く閉ざされているはずなのに、まるで冷凍庫の中にいるかのように、肌を刺すような寒さだ。

 そして、ベッドの上に、“誰か”が座っていた。私を、じっと見つめている。

 その全身は、まるで雪女のように、氷のように青白い。髪はびっしょりと濡れ、着ている服からは、冷たい水がとめどなく滴り落ちている。

 目が合った、その瞬間だった。そいつは、まるで感情を持たない人形のように、ゆっくりと口元をひきつらせると、掠れた声で告げた。

『最後の、ひと口……かえして』

 麻美は、喉から絞り出すような声にならない悲鳴をあげ、ベッドから転げ落ちた。だが、気がつくと、そこにはもう誰もいなかった。


━━━━━━━刻━━━━━━━

  

 翌日も、また翌日も、麻美は、まるで熱帯と極寒を行き来するかのような、異常な体調に苦しめられた。体は、内側から熱を帯びたかと思えば、次の瞬間には全身が凍えつくように冷え切る。

 職場の冷房がガンガンに効いていても、体の芯からの冷えは収まらず、逆に冷や汗が止まらないのだ。

 複数の病院で検査を受けたが、医師たちは皆首を傾げるばかり。原因は不明だった。

 ある晩、洗面台の鏡に映る自分の顔を覗き込むと、その目の奥に、まるで氷のように白く濁った何かが、不気味に浮かんでいるのが見えた。

 そして、その耳元で、あの冷たい声が、囁くように聞こえたのだ。

『かえして』

 言いようのない不安と、これ以上ない恐怖に駆られた麻美は、すべてを確かめるべく、再びあの店へと向かう決心をした。

 商店街の端まで来ると、いつもと変わらぬように、赤い暖簾がたおやかに揺れているのが見えた。

 だが、店の前に近づくにつれ、麻美の視界は絶望に染まった。店は固くシャッターが下ろされ、煤けた壁には、色褪せた「閉店しました」の張り紙が、虚しく貼り付けられているだけだった。

 ガラス戸の隙間から埃っぽい店内を覗くと、そこには、あの日本人形だけが、まるで麻美を待ち続けていたかのように、ぽつんと置かれていた。

 そして、白く濁ったガラスの向こうから、あの氷のように青白い顔が、憎悪を込めた瞳で、麻美をじっと見つめていたのだ。


━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 翌朝、麻美は、アパートの自室で冷たくなっているのを大家によって発見された。

 冷房など入れていない部屋の温度は、氷点下に近かったという。そして、麻美の遺体の周囲の床には、いくつもの小さな水たまりが残されていたという。

「……あの店はな、昔、夏場にかき氷で大繁盛しとったが、ある年、店で使っとった井戸の水にな、誰も気づかんうちに人が落ちて死んだんじゃ。それ以来、そこのかき氷を口にした客の中に、たまに連れて行かれるもんが出るようになったとようだ……」

 麻美が最後に口にしたあの「特製蜜」は、おそらく、その井戸の水で作られたものだったのだろう。

 だから、あなたも、この夏の暑い日に、もし冷たいかき氷を口にする機会があれば、くれぐれも気をつけてほしい。

 もし最後のひと口を口にした瞬間、ひどく冷たい視線を感じたら——それはもう、あなたが、あの「誰か」に取り憑かれている証拠だ。あなたの「最後のひと口」を返すまで、彼女は決して、あなたを解放することはないのだから……。

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