七月十六日(水):水曜日の女

 蒸し暑く、まとわりつくような夜だった。不快な汗が肌にじっとりと張り付く中、私はいつもの帰りのバスに揺られていた。窓の外は、すでに漆黒の闇に沈んでいる。

 ぼんやりと視線を彷徨わせていると、前方、通路を挟んだ座席に、異様に白いワンピースを着た女が目に入った。その顔は細く、病的なまでに青白い。まるで血液が通っていないかのような、生気のない肌だった。無表情なその視線は、時折、窓の外の闇をじっと、獲物を狙うように見つめている。

 ふと、女の口元がかすかに歪んだように見えた。笑ったのか、それとも別の感情か。判別しようとする間もなく、その顔にぞっとするような感覚が走り、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。慌てて視線を逸らし、車窓の自分の顔に恐怖が滲んでいるのを見た。

 やがて、バスが大きな交差点の赤信号で停まった。蒸し暑さとは裏腹に、車内には妙な冷気が漂っているように感じた。肌を撫でるその冷たさは、まるで真冬の墓場にいるかのようだ。

 信号待ちの間、女は再び窓の外、交差点の隅を見つめ、ひどく乾いた声でぽつりと、耳に障る囁きを漏らした。

「……息子は、あそこで死んだんです」

 何事かと、恐怖に駆られながらも窓の外を覗き込むと、横断歩道の脇に、真新しい白い花束が供えられているのが見えた。まるで、つい先ほど、誰かの手によって置かれたばかりのように。

 背筋が凍りつき、私は息を詰めた。女はそれ以上何も言わず、ゆっくりと前を向き直した。その瞳には何も映っていないように見えた。まるで深い淵を覗き込んでいるかのような、空虚な瞳だった。


━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 どれくらいの時間が経ったのか、もはや定かではなかった。ただ、奇妙な静寂が車内を満たし、私の心臓の音がうるさく耳に響いていた。誰もいない空間で、自分だけの心臓がこれほどまでに騒がしいのかと、妙な冷静さで自分の異常を認識した。

 しばらくして、バスが私の最寄りの停留所に着いた。私は安堵と、わずかな焦燥感に駆られながら、いつものように降りる準備をする。この場所から一刻も早く逃げ出したかった。

 すると、女もまた、ほとんど同時に、ぬるりと立ち上がった。

 偶然? それとも、彼女は私を知っているのか?

 全身に鳥肌が立ち、私は嫌な予感を覚えながら、バスを降りた。夜の舗道は、街灯の光さえも吸い込むように暗く、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。まるでこの闇そのものが、私を飲み込もうとしているかのようだ。

 一歩踏み出すごとに、コツ、コツ、と軽やかな足音が背後からつき纏う。まるで自分の足音ではないような、不自然な響きだった。

 恐る恐る振り返ると、数メートル後ろに、あの女が立っていた。月の光を吸い込んだ白いワンピースが、闇の中でぼんやりと、だが確かに浮かび上がる。

 一定の距離を保ちながら、こちらをじっと見ているような気がした。いや、見られている。強く、私だけを、その何も映さない瞳で。


━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 長い、永遠にも思える時間が過ぎ、ようやく私の住むマンションが見えてきた。安堵は一瞬で、すぐに新たな恐怖に変わる。まるで安堵という感情が、この女の存在によって許されないかのように。

 エントランスに入ると、女もためらうことなく、まるで当然のように一緒に入ってきた。彼女の存在が、入り口の自動ドアを無機質に、しかし抵抗なく開閉させる。

 ボタンを押してエレベーターを待つと、すっと、音もなく、彼女が隣に立つ。その瞬間、周囲の空気が一気に冷たくなった。まるで、冷蔵庫の扉が開いたかのような、不自然で、生者の体温を奪うような冷気だ。

 エレベーターに乗り込み、私が住む階のボタンを押す。沈黙の中、女は無表情で扉を見つめていた。その顔は相変わらず青白く、生気が感じられない。まるで死んだ人間か、あるいはそれに近い何かを連想させた。

 やがて、エレベーターが目的の階で止まる。

 扉が開く直前、女は私の耳元で囁くような小さな声で呟いた。その声は、空気が震える音ではなく、脳の奥底から直接響いてくるようだった。

「……同じ階なんですね」

 私は息が止まりそうになった。

 扉が開くと、女はまるで浮遊するかのように、すぅ、と音もなく先に降りていく。その足は、地面に触れているのかさえ定かではなかった。

 私も、鉛のように重い足を引きずるようにして、その後を追った。


━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 ひどく長く感じる廊下を歩き、私の部屋の前まで来ると、女がぴたりと、微動だにせず立ち止まった。

 そして、冷たい視線で私をぞっとするほど深く一瞥すると、何も言わずに、ゆっくりとドアへ顔を向け──次の瞬間、すっと、影が扉の中に溶けるように消えた。まるで初めからそこに、影しか存在していなかったかのように。

 私はその場に立ち尽くしたまま、全身から血の気が引くのを感じていた。背中を冷たい汗が伝い、皮膚の全てが粟立っている。

 目の前のドアは、何事もなかったかのように静かにそこにある。しかし、その向こう側に何が待っているのか、私にはもう分からない。もはや、この部屋が安全な場所である保証は、どこにもなかった。

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