幼児期母に殺されかけた記憶が突然蘇った話
水森 凪
第1話
さて。
すみませんがかなりえげつない話となります。実話なのでお許しください。
私は三人姉妹の末っ子として生まれました。
姉二人は美人で頭もよく、超無口で、母親に対しては「はい」「ごめんなさい」ばかりで
口答えらしいものは一切しませんでした。
それでも、病的に癇癪持ちで完璧主義だった母は、ケチのつけようのない姉二人をしょっちゅう罵倒していました。
先生に、学校で無口すぎると言われて恥をかいた。学年一番が二番に落ちた。痩せすぎだ、わたしが虐待してると思われる。お習字の授業で朱でなおされた(当然の指導だと思うのですが)
ネタはいくつでもありました。そのたびに母は顔を真っ赤にして姉二人を罵り続けました。
そこに、見てくれも頭も悪い、奇矯な行動が多くすぐ行方不明になる末娘の私です。
これ以上怒りようがないぐらい母は毎日私を怒っていました。
行方不明になるのは仲間と隣町への冒険ごっこに出かけるからだし、目についた高い木に登っては降りられなくなるからです。
校庭中に足で絵を描いて先生に怒られたり、勉強を一切しないので100点満点とは思えない点を取ったり、下校中に手招きされた一人暮らしのおばあさんの家でおやつを食べたりして、もういちいち雷を落とされました。
何も悪いことはしていない姉たちは怒られればごめんなさいと頭を下げていましたが、常識はずれのことばかりしている私はいちいち言い返していました。
頬をひっぱたかれても、睨み返していました。
母はいつも言っていました。
ここに1000人の子供がいればあんた以外の子を選ぶ。それがどんな子であってもかまわない、あんた以外であればそれでいい。バカ、き〇がい。病院へ入れ。あんたなんか私の子じゃない。
父は寛容な人で、勉強はできないけれど昆虫マニアで芋虫毛虫を片端から拾ってはかごで育てる私を面白がって、こういう子が一人はいてもいいじゃないかと、
「虫愛ずる姫」と私を呼んで可愛がってくれました。
絵を描くのだけは得意だったので、日曜画家の自分の血を継いでくれたと喜んでいました。
けれど母にとって私は「生まれそこないの恥の象徴」だったのだと思います。優秀な姉たちに比べて、私だけを父が贔屓するのも許せなかったのかもしれません。
私が中学に入るころ母はますます荒れ始めました。
丑三つ時にいきなり私の部屋にお酒をもって入ってくる母の姿の恐ろしさと言ったら。
「起きなさい!」
頭はカーラーでぐしゃぐしゃ、ネグリジェからは乳首が見え、眼の下にはどす黒いクマ。もともと美人なのでさらに迫力が凄くて幽霊なみなのです。そして、勉強机の上に酒瓶をドンとおいて言うのです。
「あんたのおかげで人生が楽しくない。ねえ、生きる事ってどうしてこんなに怖いの。眠れないし悪夢ばかり見るし、私に襲い掛かるのは不幸ばかり。あんたが悪いのよ。だからあんたも飲みなさい」
そしてコップになみなみついだ日本酒を私に強引に飲ませるのです。とうに本人は真っ赤。飲ませられすぎて吐き気がして、喉がカーッと熱くなりました。
父は愛妻家で収入も十分で大きな家に生んでいたし、本質的に優しい人だし、姉二人も美人で優秀だし、末娘の私はちょっと出来が悪くてやんちゃだけれど、それは母をあのどん底まで落とす理由になるでしょうか。
伯母たちは、できの悪い夫とモノを投げ合うような夫婦げんかをしては、母のことを
「あんな上品な旦那様と結婚して、子どもたちの出来もいいし、なんであんなにいつも不幸そうな顔をしているのかわからないわ」としきりに言っていました。
では、惚れて結婚したという父はそんな母をどう思っていたのか。
結婚して子供を産んだ後変貌し、怒ると手を付けられなくなる母から、父はひたすら逃げていました。私から見ても明らかに母の憂鬱さといい突然の怒りの爆発といい尋常ではなかったので、今では薬で何とかなったのではと思います。
でも当時、父も母も、「精神病院は気が変になった人のいくところ」として、選択肢に入れていませんでした。
姉二人も私も結婚して子供に恵まれたころ、母は突然の腹膜炎に倒れました。
救急車で担ぎ込まれた病院でも、姉妹親戚友人の名をあげては罵詈雑言を叫び続けていました。罵倒された中には母を心配していた伯母たちもいました。母は一種の精神の病気な上に、腹膜炎でまともな呼吸ができずに二酸化中毒状態だったと思うのですが、(呼吸困難になるとこれのせいで正気を失うことがあるそうです)私は急を聞いて駆け付けた伯母たちに申し訳なくてたまりませんでした。
肺活量が常人の半分しかないので全身麻酔はかけられない、従って手術はできない。
それは以前からわかっていたことでした。
私たちはなすすべなく、「パパ大好き、パパ大好きよ」と言い続けて弱っていく母を見守ることしかできませんでした。父は母の手を握って泣いていました。
「手術ができないのでは、なすすべがありません、残念ですが」
これがお医者の見解でした。
ただ、長年罵倒し続けた私に対して、ほかの見舞客がふと誰もいなくなった瞬間
「あなたが一番優しかったわ。あなたは優しい目をしてるの」と母は言ってくれました。
これは本音だろうか譫言だろうか、本当は少しでも自分のことを愛してくれていたのだろうかと、私は戸惑いながらも、なんと嬉しいことを言ってくれるのだろうかとただ感激していました。
言葉を口にしたのはそれが最後で、家族や親せきに看取られて、「お腹が痛い」と訴えて三日目の朝、母は意識を失い、息を引き取りました。
そして、不可解な記憶は母を失った後、三十代の終わりごろ突然現れたのです。
私は、母と二人きりで海に行った。
電車に長いこと乗った。どこの海岸かははっきりわからない。
当時、自分は小学校二年ぐらいだったろうか。
スーパーまで外出すること自体、息苦しさから嫌っていた母が、一番疎んでいた私だけを連れて、それも嫌いな「海」に行くことなど珍しいを通り越しています。
しかし夢ではなく、今も現実として詳細に思いだすことができるのです。
高い崖の続く下に狭く入り組んだ浜辺が続き、そこを母は無言でズンズン進んでいくのです。
「どこまで行くの?」
聞いても応えはありません。
ただ、「早く来なさい」というだけです。
沖合の波はだんだん高くなり、気が付くと満潮を迎えていました。足元の砂浜はどんどん狭くなります。
「ママ、砂浜がなくなっていくよ。溺れちゃうよ」
さすがに、荒れてゆく海を見て怖くなった私は言いました。
ついに、崖にへばりついても砂浜が見えない状態になると、母はいきなり踵を返し、私の方を一切見ないで駆け戻りました。頭を出している岩を伝って。
でもこっちは体の小さい子供なので、岩に飛び乗って移動することができません。そのうちに、見えていた岩がなくなっていきます。母の姿も小さくなっていきます。
「ママ、戻ってきて! 溺れちゃうよ!怖いよ!」
一番大きい岩の上に立ってそう泣き叫んでいると、腰まである長靴をはいた漁師さんがざぶざぶ海からやってきて、「危ねえなあ」とひょいと私の腰をつかんでつかつかと母のもとへ私を運んでくれました。
「奥さん、子どもを忘れちゃいけねえな。何やってんだよ」
確かそう言ってとがめていたと思います。
「まあ、この子ったらグズグズしていくら呼んでも来ないで。困っていたんです。ありがとうございます」母は作り笑顔で私を抱きとめました。
嘘だ、ひとことも呼ばれてなんかいない。
母は満潮の海に私を置き去りにしようとしたんだ。そのための海行きだったんだ。私は直感しました。
家に帰るまで、ひとこともお互い口をきかなかったのは憶えています。
後のことはさっぱり思いだせません。
息を引き取る間際になって、最後の最後、「あなたがいちばんやさしい」と言ってくれた母が、実は、小学校低学年の自分を海で〇そうとした?
咀嚼できないこの出来事を、私は無意識のうちに封印してきたのでしょうか。
理不尽なことで怒られ続けた姉二人は、納骨して十年たっても母のお墓参りもしませんでした。
仏壇に手を合わせることもしません。遺影を見るのが怖くて顔が上げられないというのです。あなたはいまだに私の思い通りになっていないと、そう怒られる気がして、遺影を見ることが怖くてできないというのです。
まともに笑顔の遺影を見ることができる私の方が、殺されかけても、傷は浅いのでしょうか。
それでも。
あの荒れた海で泣き叫んだ時のことを思い出すと
あの漁師さんがいなければ自分はこの世にいなかった。
この事実をどう受け止めて、お彼岸にお墓参りをするとき何と話しかけていいかわからなくなる自分がいるのです。
それでも、母のことを恨む気持ちはありません。
生きているうちに、もっとたくさん、母の笑顔が見たかった。大好きよ、という言葉を聞きたかった。そればかりを思うのです。
だから、
「あなたがいちばん優しかった」という言葉は、いつまでも大切な言葉として胸の奥の宝物になっているのです。
私はとても優しい人と結婚して、思いやりのある、そして切れるように頭のいい子供二人(長男長女)に恵まれました。
このことを喜んでくれますか?
私が生きていて幸せなことを喜んでくれますか?
どうかそうでありますように。
あなたにするべき治療を父に強く進言しなくてごめんなさい。
どうか天国では父と穏やかに暮らしていてください。
望み通りの子供ではなかったかもしれないけれど、私は産んでもらってよかったと思っています。
私はお墓参りのたびにいつも母にそう話しかけるのです。
<了>
幼児期母に殺されかけた記憶が突然蘇った話 水森 凪 @nekotoyoru
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