4章 ハニーエンジェルアイドル クーネル様
ニート歌姫メロ
商業都市タヴロッサの喧騒はまるで巨大な獣の胃袋の中のようだった。
行き交う人々の怒声にも似た呼び込み、荷馬車が石畳を削る不快な音、そして様々な食べ物が混じり合った、むせ返るような匂い。
その混沌の只中を一台の車いすが、えっちらおっちらと進んでいた。
(うぅ……人が多い……怖い……馬車が轢き殺しに来る……)
車いすを漕ぐ少女の名はメロ。
腰まで伸びた濡れ羽色の髪、おっとりとしたタレ目がちの大きな瞳。道行く男たちが思わず振り返るほどの儚げな美貌を持つ彼女だが、その表情は不安と疲労で完全に死んでいた。
彼女の下半身は分厚く野暮ったいローブで隠されている。
それは決して人目に触れさせてはならない、彼女の種族の証を隠すためであった。
(それにしてもこの『くるまいす』という乗り物……なんと非効率的なのでしょう。我が故郷の海ならば、尾びれを一振りするだけで、どこへでもすいーっと行けましたのに……)
メロはセイレーン族である。
上半身は人間、下半身は魚。優雅な歌声で船人を惑わすという、海の歌姫。
そんな彼女がなぜ陸のど真ん中で、文明の利器(物理)に四苦八苦しているのか。
理由はただ一つ。
敬愛してやまない、かつての主君を探すためであった。
(ああ、クーネル様……。今いずこにおわしますか……。クーネル様さえいらっしゃれば、わたくし、こんな汗水たらして車輪を回さずとも一日中ぷかぷかと浮きながら、お歌を歌って、美味しいものを食べて、ぐーすか眠っていられたものを……!)
そう、これこそがメロの行動原理の全てであった。
彼女はかつての主君――魔王軍四天王『黄金のクーネル蛇将軍』の統治下で送っていた、究極のニート生活を取り戻すためにはるばる魔王領からやってきたのである。
忠誠心? もちろんある。
あるにはあるがそれ以上に「働きたくない」「美味いもの食って寝てたい」という、生命体としての根源的な欲求が彼女を突き動かしていた。
「ひぃっ!?」
すぐ脇を猛スピードの馬車が走り抜ける。
泥水がメロの綺麗なローブに無慈悲に跳ねた。
「もういやですわ! 帰りたい! 海に帰って、アザラシのお肉を食べながら昼寝したい!」
涙目で半泣きになりながら、それでも彼女は車いすを漕ぐのをやめなかった。
懐から取り出した、一枚の紙。
そこには数日前にこの街の冒険者ギルドに張り出されたという、一枚の似顔絵が描かれていた。
『聖女クーネル様! ロックボアを単独討伐した勇者様を奇跡の力で癒した慈愛の乙女!』
(……似てませんわ。全然似てませんわ。わたくしの知るクーネル様はもっとこう、獲物を前にした蛇のように獰猛で、金貨の風呂に浸かりながら高笑いなさるような、畏怖すべきお方。こんな、ぽやーっとした顔の少女ではありません)
その似顔絵は美化に美化を重ねた結果、もはや原型を留めていなかった。
だがその名と、黄金の髪という特徴だけは一致している。
追放された時の様子を聞くに、姿形は一致している。
メロはか細い希望を胸に、滞在先とされている宿屋へと、最後の力を振り絞って進むのだった。
◇◇◇
ガタピシと音を立てる安宿。
一番奥の部屋の前にたどり着いたメロはぜえぜえと肩で息をしながら、震える手で、その古びた木の扉をとんとん、と叩いた。
「い、いらっしゃらなかったらどうしましょう……。もうわたくし、一歩も動けません……。このまま、ここで干物になってしまう……」
最悪の事態が脳裏をよぎり、メロの目に再び涙が浮かぶ。
その時だった。
「なんじゃ、騒々しい。妾は今、惰眠を貪っておる最中……」
扉の向こうから聞こえてきたのは紛れもなく、聞き慣れた主の声。
だがその声は記憶にあるものより、随分と甲高く、幼い響きを持っていた。
ガチャリ、と。
扉が開かれる。
そこに立っていたのは噂通りの小柄な金髪の少女だった。
年の頃は十六、七。陽光を溶かしたかのような長い金髪に爬虫類を思わせる鋭い金色の瞳。
その姿はかつての威圧的な大蛇の面影は微塵もない。
だがその瞳の奥に宿る、傲岸不遜ごうがんふそんな光だけは寸分違わず同じだった。
「……クーネル様、ですよね?」
メロの唇から、か細い声が漏れた。
「ん? おお、メロではないか。貴様、なぜこんな所に」
少女――クーネルは眠たげな目をこすりながら、面倒くさそうにメロを見下ろした。
その瞬間、メロの中で、なにかがぷつりと切れた。
「く、クーネル様あああああああああああああっ!!」
わっと、堰を切ったように泣き崩れるメロ。
彼女は車いすから転げ落ちるのも構わず、クーネルの足元に這いつくばった。
「おおおお、おいたわしや……! なんというお姿に……! あんなに三十メートルはあろうかという巨大で神々しいお体だったのにこんな、こんなチワワのように小さくなられて……! 鱗の一つ一つがダイヤの如く輝いておいでだったのに今ではつるつるのただの人間のお肌ではありませぬか! うっ、うっ、うわあああん!」
「なっ、こら、泣きつくな、鬱陶しい! それに誰がチワワじゃ、誰が!」
クーネルは内心で悪態をつきながらもどこか満更でもない気分で、メロの号泣を受け止めていた。
追放されて以来、自分をここまで慕ってくれる者など、一人もいなかったのだから。
「まあ入れ。話を聞いてやる。して、他の者どもはどうした。妾が追放されて、さぞや悲しみに暮れておるであろうな?」
クーネルはふんぞり返って、メロを部屋へと招き入れた。
彼女は当然、自分の配下たちが主を失った悲しみで、血の涙を流しているものと信じて疑っていなかった。
しかし、メロの口から語られた魔王軍の現状はそんなクーネルの甘い想像を木っ端みじんに打ち砕く、地獄のような報告だったのである。
「まず……! まず申し上げたいのはですね、クーネル様……!」
部屋に入るなり、メロは再びわっと泣き出した。
「飯が飯がとてつもなくまずいんですうううううっ!」
「……は?」
クーネルはぽかんとした。
報告の第一声がそれか。
「あのガロウ様とゼノン様が牛耳るようになってからというもの我らの食事はカビの生えた黒パンと、泥水に芋の皮を浮かべただけのヘドロにも劣るスープだけになってしまいました! ぎちぎちで、酸っぱくて、食べるとお腹がぎゅるぎゅる鳴るんです!」
「おぬしのう、いの一番に言うのがメシの話か?」
クーネルの顔色が呆れ顔に変わる。
しかし、メロの嘆きは止まらない。
「クーネル様がいらっしゃった頃は毎日がご馳走でした……。朝は魔獣グリフォンの目玉焼き、昼はロックボアの丸焼き、夜はクラーケンの足のカルパッチョ……。あの日々を思うと、涙が……うっ、涙が止まりません……!」
「うむうむ、そうじゃろう。久々に食べたいのう…」
(我ながら、完璧な食生活じゃったな。ああ、思い出すだけで腹が減ってきたわい)
クーネルは自分のことのように深く頷く。
話の論点が完全に「部下の福利厚生」から「失われた美食ライフ」へとすり替わっていることに二人とも気づいていない。
「それに! それにですね!」
メロは涙で濡れたローブの袖で、ぐいっと鼻を拭った。
「やたら、働かされるんです!」
「は?」
「わたくしたちセイレーンは歌を歌うのが仕事! それ以外は海辺でぷかぷか昼寝して過ごすのが生態なんです! なのに……なのにあのガロウ様は『女も戦力だ! 城壁の修理を手伝え!』などと仰って、わたくしたちを強制労働させるのです! 見てください、このヒレ! 石運びのせいで、もうボロボロですわ!」
メロはそう言って、ローブの裾をまくり上げ、痛々しくささくれた自身の尾びれを見せた。
「ゼノン様もゼノン様です! 『諜報活動に貴様らの歌声は有効だ。人間界に潜入し、情報を集めてこい』などと……! この車いすでどうやって潜入しろと仰るのですか! 無茶です! 横暴です! パワハラですわ!」
もはや、ただの愚痴である。
クーネルは呆れ顔でその嘆きを聞いていた。
「なんじゃお前は……。要するに飯がまずくなって、働かされるのが嫌で逃げてきただけではないか。忠誠心はどこいった」
「クーネル様の軍が強かったのは、別に支配に興味ないけど、ただ強い連中の結束があったからです。みな、頑張りたくない一心で頑張っていたのです。ちゅーせいしんより、まず自分です」
「おのれ、主に向かってぬけぬけと」
だがメロの口から語られる魔王軍の現状はクーネルにとって聞き捨てならない情報を含んでいた。
「して、そのガロウとゼノンはどうなのだ。あの二匹、仲良く手を取り合って、妾の領地を治めておるのか?」
クーネルが尋ねると、メロはぷいっと顔を背け、忌々しそうに吐き捨てた。
「とんでもない! あの御二方、今や犬猿の仲ですわ! 来る日も来る日も魔王城で怒鳴り合って、勢力争いを繰り広げております!」
メロの話を要約すると、こうだ。
武力による支配を推し進めたい、脳筋のガロウ獅子王。
「力だけでは統治できん! 必要なのは知略と情報だ!」と主張する、冷徹なゼノン蜘蛛公。
二人の主義主張は水と油。
クーネルという共通の敵(であり、便利な金づる)がいなくなった今、その対立は表面化し、魔王軍を二分する内乱寸前の状態に陥っているらしい。
「ガロウ様は『金など戦場で奪えばよい!』と無計画な侵攻ばかり。ゼノン様は『無駄な戦は避け、内政を固めるべきだ』と、ガロウ様の軍への補給を渋る始末。おかげで、我ら下っ端は板挟みで、もうへとへとですわ……。あぁ、クーネル様が懐かしいと嘆いております…」
「ふん。ざまぁない。クーデターで増えた手下を掌握しきれぬガロウと、妾を守らずクーデターを素通りさせたおぬしら、全員が因果応報じゃ」
クーネルは腕を組んで鼻を鳴らした。
同僚たちの醜い争いを心の底から嘲笑っていた。
「どいつもこいつも目先の欲望しか見えぬ愚か者よ。ガロウは力任せの猪武者、ゼノンは数字しか見えぬ粘着蜘蛛。滑稽の極みじゃな」
だがその嘲笑の裏で、クーネルは冷静に現状を分析していた。
そして、その顔から、すっと笑みが消える。
「……だが笑えんのう」
メロの話はクーネルにとって絶望的な事実を突きつけていた。
今の魔王軍はガロウとゼノンという、二人の四天王がそれぞれ軍を率いている。
つまり、敵は二人。兵力も以前の倍。
「……今のこの貧弱な人間の体では……どうにもならん」
たとえ、酒を飲んで一時的に力を取り戻せたとしてもそれはあくまで一個人の武勇に過ぎない。
軍隊を相手にするにはあまりにも無力。
武闘派のガロウ一人ですら、正面から戦えば勝ち目はないだろう。
ましてや、その裏で、知略に長けたゼノンが蜘蛛の巣のような罠を張り巡らせているのだ。
下手に手を出せば、返り討ちに遭い、今度こそ完全に息の根を止められるのが関の山。
現在は拮抗状態。
クーネルの影響を排除しきれなかったガロウ。
かといって、今から改めて殺すわけにもいかない。
クーネルが人間のまま死ねばどうなるのか誰もわからないのだ。
人として死ねばガロウの勝ち。
もし転生して呪いが解けば、クーネルを筆頭にし、くすぶってる厭戦感情が爆発して、再革命にになる。
クーネルは人として死ぬ可能性があるから手を出せず、ガロウとゼノンは蛇将軍として蘇える可能性があるから手を出せない。
「このまま我慢してたら、お仕事から解放されて元の暮らし戻れるのでしょうか…」
「それはないぞ。やつらは反乱分子を今でこそ取り入れようと躍起じゃがな、いずれ無理だと分かれば粛清に走るはずじゃ」
「え、こ、こんなにやって、最後は皆殺しですかぁ!? いやですぅ、戻ってきてくださいクーネル様ぁ!」
「これは速さ勝負となる。妾が力を戻して反乱軍をつくるか。それともやつらが先に反乱分子を粛清し切るか。それまでどちらも手を出せぬ」
とはいうものの、財産も兵力もそして絶対的な力も失った今、復讐への道はあまりにも遠く、険しい。
クーネルは奥歯をぎりりと噛みしめた。
追放されて以来、初めて感じる、完全な「手詰まり」という名の焦燥感。
「クーネル様……?」
主君の険しい表情にメロが不安げな声をかける。
クーネルははっと我に返ると、いつもの尊大な笑みを顔に貼り付けた。
「ふん、まぁ案ずるな、メロ。あの程度の雑魚、妾が本気を出せば指先一つでひねり潰してくれるわ。今は力を蓄える時というだけじゃ」
強がり。
それはメロもそしてクーネル自身も痛いほど分かっていた。
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