第4話『私が欲しいのは愛だけ』
「……それだけなの。私が欲しいのは、愛だけ。」
その言葉が、砂の夜に溶けて消えた。
◇
契約の儀式が終わっても、体の奥で赤い呪印がじんじんと疼いていた。
胸元から肩、腕、腰へと刻まれた“砂の紋様”は、夜の風に触れるたび淡く赤く光り、まるで私の血流そのものが形を持って浮かび上がっているようだった。
ルディアと契約を交わしてから、私は変わった。
……そう、変わったはずだった。
痛みに耐えて、血を流し、キスで契約を交わして。
もう、私は“奪う側”になったはずだった。
でも――
「……怖い?」
ルディアの声がした。
その声は柔らかくて、でもどこか突き放すように冷たい。
私は返事をしなかった。
塔の外、契約の石のそばに座り込んだまま、私はルディアの足元に視線を落としていた。
「さっきまで、あれほどの覚悟を見せておきながら?」
「……覚悟は……した。」
「なら、なぜ目を逸らすの?」
彼女の問いは、鋭利な刃のように私の胸を切り裂いた。
それでも、答えは出なかった。
言葉にしようとすると、あの日の記憶が喉を塞いだ。
彼の部屋の、冷たい床。
私を見なかった彼の目。
泣きながら私を刺したあの女の、笑顔。
全部、胸の奥で腐った果実のように膿んでいる。
私は、それらを未だに言葉にできずにいた。
「……怖いのは……」
私は指先を見つめた。赤い紋様が薄く光っていた。
「また、愛されないんじゃないかって……」
その瞬間、ルディアの瞳がわずかに揺れた。
「私がどれだけ“覚悟”をしたって……どれだけ“奪おう”としたって……」
「……」
「私のことなんか、誰も本気で欲しがってくれないんじゃないかって……」
その言葉を口にしたとたん、胸の奥がぐしゃぐしゃになって、呼吸が苦しくなった。
「愛されたいだけだったのに」
また、その言葉が漏れた。
それは、私の死の間際に漏れた呟き。
それは、私が生き返ってまで願っていること。
ただ、それだけ。
◇
「──それでいいのよ」
ルディアの声が、今度は風のように静かだった。
「その願いがあるから、あなたはここにいる」
「……え?」
「“愛されたい”という願望。それこそが、この世界で“奪う覚悟”を持てる唯一の鍵なの」
私は顔を上げた。
ルディアの銀髪が風に揺れていた。月光を受けて、まるで夜空の断片みたいにきらきらと輝いていた。
「人はね、“空っぽの器”のままじゃ、何も得られない。奪うことも、与えることもできない」
「……器……?」
「あなたの“愛されたい”っていう願いは、器そのものなのよ」
「でも、それって……ただの欲じゃないの?」
「ええ、そうよ」
ルディアは笑った。ひどく冷たい、美しい笑みだった。
「だからいいの。人はね、“綺麗な動機”じゃなきゃ動いちゃいけないなんて、誰が決めたの?」
ルディアはゆっくりとしゃがみ込み、私と目線を合わせた。
「“誰かを愛したい”っていう優しさより、“愛されたい”っていうエゴのほうが、ずっと強いのよ」
その言葉に、私は心が震えた。
「あなたは、間違ってない」
その言葉に、私は泣きそうになった。
「あなたのその願いは、汚くなんかないわ。“生きたい”って叫ぶのと同じ。だから、誇っていい」
「……でも……」
「愛されたいのなら、奪っていいの。誰かの心を。誰かの手を。誰かの“ぬくもり”を」
ルディアの手が、私の指をそっと握った。
「あなたの傷に、蓋をするためじゃない。あなたの空っぽを、満たすためよ」
「……」
「私は、あなたの“最初の味方”になる」
その言葉が、胸に染みた。
私が欲しかったのは、これだった。
“本気で、私を肯定してくれる誰か”だった。
優しいだけじゃない。
利害抜きの親切でもない。
私の欲を、醜さを、エゴを知った上で、それでも「いていいよ」と言ってくれる誰か。
それを、私はずっと、ずっと欲しがっていた。
◇
「ねぇ、ルディア」
私は震える唇で言った。
「私、怖い。だけど……」
言葉に詰まって、息を吸った。
「私、愛されたい。……ずっと、誰かに」
その言葉に、ルディアの瞳が細くなる。
「そう。なら、まずは一人目──私を愛しなさい」
ルディアが立ち上がると、青い布を翻して踵を返す。
「最初に“あなたを奪う”のは、私よ」
その背中に、赤い月の光が差し込んでいた。
◇
砂の宮殿の回廊を歩いていると、足音が吸い込まれていくのがわかった。
赤い砂は細かく、サラサラと音を立てて私の足跡を飲み込む。
「奪う覚悟……」
私は呟く。
「愛されたいだけなのに、それには“奪う”って選択肢しかないんだ……」
まるで皮肉みたいだと思った。
でも、誰かに「あなたを欲しい」って言ってもらうには、きっとそれくらいの“図々しさ”が要るのだ。
控えめで、優しくて、何も言わずに尽くしていた私は、あの女に包丁を握られ、床に倒れて終わった。
ならもう、遠慮なんか、いらない。
私は、奪う。
私だけを見てほしい。
私のことだけを、大事にしてほしい。
他の誰でもない“私”に、愛を向けてほしい。
だから私は──
奪ってでも、欲しい。
私が欲しいのは、ただひとつ。
「……愛だけだよ」
◇
塔に戻った夜。
ルディアは塔の屋上で風に当たっていた。
「ねぇ、ルディア」
私が声をかけると、彼女は振り返らずに答えた。
「何?」
「私、やる」
「何を?」
「全部。奪うこと。愛されること。欲しいって、言ってもらうこと」
風が鳴る。
「私、覚悟する」
ルディアが笑う気配がした。
「それでこそ、契約者ね」
赤い空を背景に、彼女が静かに振り返った。
その瞳は、もう敵だった。
でも、味方でもあった。
「私が欲しいのは、愛だけ」
私の言葉が、風に乗って、砂の夜空へ消えていく。
その先に、愛があるなら。
私は、もう遠慮なんかしない。
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