《第1章:血と砂の花嫁契約》
『血の夜、赤の世界』
彼の部屋にいるのは、私だけのはずだった。
「おかえり」って言いたかった。
彼が帰ってきたら、笑って抱きついて、「お疲れ様」ってキスしたかった。
小さなチョコケーキにローソクを立てて、写真を撮って笑い合って、これからも一緒にいる未来を信じたかった。
三年付き合って、誕生日の夜にサプライズを仕掛けるなんて、大学生みたいで幼いかもしれないけど、それが嬉しくて仕方なかったんだ。
スマホの画面を何度も見ながら、彼の「今日は遅くなるかも」というメッセージに、「頑張ってね」って心の中で応援していた。
玄関の鍵が回る音を聞いたとき、私は膝の上で手を握りしめて、息を潜めていた。
どんな顔で迎えようか、笑って「おかえり」って言おうか、それともふざけて「遅いよ」って頬を膨らませようか。
それだけで胸がいっぱいで、息が苦しかった。
でも。
「ねぇ、ここって意外と綺麗にしてるんだね。男の一人暮らしにしては、さ?」
女の声がした。
高くて、甘くて、無邪気に笑う声だった。
「おい、声が大きいって」
彼の声が続いた。
私の大好きな声だった。優しくて、少し低くて、疲れているときにはその響きが胸を撫でてくれるような声。
「えー、だって、ほら……ここでキスとか、しないの?」
女の声が近づいてくる。
玄関の壁に隠れる私の体のすぐ横で、笑い声と、何かが擦れる衣擦れの音が響く。
「……もう、バカだな」
笑っている。彼が、笑っている。
私の知らない笑い方で。
「……誰、だろうね、この人」
玄関の電気がついて、影が床に伸びる。
私は動けなかった。息ができなかった。
心臓が変な音を立てて、指先が冷えていくのがわかった。
女が私を見つけたのは、ほんの一瞬のことだった。
「え……誰?」
彼がその言葉に気づいたのも、一瞬だった。
「お前、なんで――」
彼の目が私を見て、大きく見開かれる。
でもその瞳はすぐに泳いで、私を直視できなくなった。
「おい、なんでいるんだよ」
「おかしいでしょ」
女が笑っていた。
その笑顔は壊れたお人形みたいで、頬が引きつって、目が笑っていなくて、唇だけが吊り上がっていた。
「いるわけないじゃん、こんなとこに。だって、あんたと私は――」
「やめろ」
彼が掴もうとした手を、女が振り払った。
「邪魔なんだよ」
女の手が、台所に伸びる。
包丁だった。
私は、動けなかった。
「ずっと邪魔だったんだよ、あんたが」
女の笑い声と泣き声が混じった声が耳を打つ。
「私がこの人のこと、どれだけ好きかわかる? わかる!? わかるわけないよね、だってあんたは――」
「やめろ、やめろって!!」
彼の声は震えていた。
私のことなんか見ていなかった。
ただ、女の手にある包丁だけを見ていた。
女が私に向かって走り出した。
足音がフローリングを叩く音が近づいて、刃先が光を反射するのが見えた。
「邪魔なんだよ、あんたがあんたがあんたが!!」
刃が振り下ろされる。
刺された瞬間の痛みなんて、覚えていない。
ただ、何かが体の中にめり込んで、肺の奥から空気が漏れる変な音がした。
息ができなかった。
冷たいのか熱いのかもわからなかった。
目の前で女が泣きながら笑っている。
「ねぇ、なんで……なんであんたがいるのよ……あんたがいるから、あんたがいるから……!」
包丁が抜けて、また振り下ろされる。
あたりに赤い液体が飛び散った。
血だ。私の血だ。
彼が何かを叫んでいる。
女が何かを叫んでいる。
でも聞こえなかった。
耳鳴りがする。頭の奥でキーンという音が続いて、視界が赤く滲んでいく。
私は倒れ込んで、床に転がった。
冷たいはずの床が温かかった。私の血で濡れているからだと、頭の片隅で理解した。
「愛されたいだけだったのに……」
声が漏れた。
小さく、小さくて、誰にも届かない声だった。
彼が泣いていた。でもそれは私のためじゃなかった。
女が泣き笑いを続けていた。私の血まみれの体を見ながら。
「愛されたいだけだったのに……」
それが私の最後の言葉だった。
◇
目を開けると、赤い空が広がっていた。
雲ひとつない空は血のように赤く、沈みかけた太陽が砂漠を真紅に染め上げていた。
体を起こすと、砂の感触が背中を擦った。
赤い砂。熱くて、サラサラと乾いた音を立てる砂の上に、私は寝転んでいた。
血は流れていなかった。
傷はどこにもなかった。
「……ここは……」
言葉が口から漏れた。
喉が焼けるように乾いていた。
周囲には誰もいなかった。遠くまで続く赤い砂漠と、ひび割れた瓦礫の塔がひとつだけ、地平線に向かって突き刺さるように立っていた。
歩くしかなかった。
歩き出すと、裸足の足が砂に沈む感触があった。
歩くたびに足跡がつくけれど、すぐに赤い風が吹き、跡を消してしまう。
砂漠を吹き抜ける風は熱く、私の髪を揺らした。
自分が生きているのか死んでいるのかもわからなかった。
ただ、心臓だけは確かに動いていた。
ドクン、ドクン、と血の音が耳に響く。
私は、生きている。
生きているけど、生きていたくなんてなかった。
「愛されたいだけだったのに……」
小さく呟いた声が、風にさらわれて消えた。
◇
瓦礫の塔の前に立ったとき、太陽はまだ沈んでいなかった。
扉は壊れかけていた。
中から青白い光が漏れている。
私は引き寄せられるように扉を押した。
中には冷たい空気が漂っていた。砂漠の熱が嘘のように消え、ひんやりとした石の匂いがした。
奥に、一人の女が立っていた。
銀の髪が揺れていた。
深い青の瞳が私を見つめていた。
「ようこそ、砂の宮殿へ」
女が口を開いた。
その声は甘く、冷たく、私の胸の奥をえぐるような響きを持っていた。
「あなたは、愛されたいのよね?」
私は答えられなかった。
ただ、その言葉が私の奥底で響き続けた。
「愛されたいのなら、奪う覚悟を持ちなさい」
女がゆっくりと私の前に歩み寄る。
「私の名はルディア。この砂の宮殿の主よ」
ルディアと名乗った女が、私の頬に触れた。
その指先は冷たかったけれど、なぜか熱が伝わってきた。
「あなたがこの世界で生きるなら、その願いを叶えてあげる。ただし――」
ルディアの瞳が赤く光った。
「愛を奪う覚悟を、持ちなさい」
その言葉が私の胸に突き刺さった。
愛されたいだけだったのに。
奪われて死んだだけなのに。
次は私が――
奪う番だ。
赤い砂が私の周囲で舞い上がった。
その中でルディアが笑った。
「ようこそ、新たな世界へ」
赤い砂の世界で、私の新しい物語が始まる。
愛されたいと願い続けながら、今度は愛を奪う覚悟を持って。
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