白い雲(短編集)

☃️三杉 令

白い雲の彼方へ

「ちか―」


 逆光で眩しい山頂方向からの声。


 おそらく(早く来いよー)って続くんだろうなと思いながら、千佳は目を細めてその声の主を見上げる。


(なんでこんなつらい思いまでして、健斗あいつと山に登っているんだろう)


 歩きにくい砂礫の斜面を恨めしく思っていると、思いがけないセリフが聞こえてきた。


「ゆっくり登ればいいよー 焦ってこっちに来るなよー」


 健斗、意外と優しいじゃん。千佳は少し彼を見直した。

 スタイルが良くて登山おたくで女の子のことなど放っておいてばかり。せっかく私が好きでもないアウトドアに付き合ってあげているのに、さっさと私を置いて登っていってしまう。


 体は細いけど筋肉質で、長い足が逆光のせいでよけいに長く見える。


(くそカッコいいじゃん)


「待ってえ、すぐに行くからー」


 千佳は声を張り上げて、今日一番の作り笑いを浮かべた。


(あっちから私の事、見えているんだろうか?)


 健斗の顔や姿が霞んできた。彼の周りが白一色だ。雲と同化しているのかな?

 でも夏なのに周りは涼しくてなんか変。ちょっと暗くなってきたかも。

 

「あれ、おかしいな?」これは幻覚?…… 学生の頃の記憶だ……



「千佳、大丈夫だよ。ゆっくり休みな――」


 健斗のそんな声が聞こえた気がした……



 ペルーの高山を登山中、悪天候で日本からやってきた女性クライマー二人は身動きがとれずにいた。千佳は低体温症に陥っていた。万事休すだった。


「千佳さん、気が付いた。連絡がつきましたよ! もう大丈夫です。助かりますよ! しっかり!」


 うっすらとパートナーの声が聞こえた。でも体の感覚が無い。返事もできない。もう現実と幻覚の違いが分からない。千佳はまた目を閉じた。もう彼女の瞼が開くことは永遠に無かった。



 千佳は白い世界の中、健斗の方へ登るのを止めて彼と自分の記憶を思い出すことにした。


 同い年の健斗は学生の頃から優れたクライマーだった。山岳カメラマンとしても優秀で、数々の貴重な登山ドキュメンタリー映像を取り、やがて世界的なクライマーとして羽ばたいていった。


 一方の千佳も医学の道を志しながら登山の魅力にも憑りつかれ、健斗ほどでは無かったが高山に挑戦する著名なクライマーになっていった。


 二人はクライマーとしてそれぞれの道を別々に進み続けた。三十代で健斗が結婚すると、千佳も伴侶を見つけ、二人とも各々別に温かい家庭を持ち、可愛い子供を授かった。


 健斗は世界的な山岳賞を3回も獲り、2024年、ついには世界第二の高峰K2を西壁から同じく優秀な先輩男性パートナーと挑むことになった。これは極めて難しい挑戦でアルパインスタイルで西壁にラインを残した者はまだ誰もいなかった。


 この困難な挑戦を前に、健斗は珍しく不安を吐露し自問した。(なぜ、こんな危険な挑戦をするんだろうか?)家族の顔が浮かび涙が出てきた。超一流のクライマーと言えどもK2西壁は極めて危険な未知のルートなのである。


 6月16日、健斗と先輩の二人は登山を開始した。と言っても高地は順応が必要で最終アタックまでには何週間もの日数が必要である。開始から40日もの長く厳しい準備と挑戦の日々が続いたのである。


 K2西壁は想像を絶する世界だった。滑り落ちたら止まらない急な斜面、今にも崩れそうな氷の塊、硬い岩肌、雪崩、ぱっくりと暗黒の口を開けるクレバス、陽の当らない極限の寒さ、そして8千メートルを超える酸素の薄い高所。

 

 2024年7月27日、41日目。キャンプ2を出た健斗らは高度7500mの地点でアタックを試みていた。


 この時二人が何を思って登っていたのか、日本で成功を祈っていた千佳にもわからない。


 そして運命はやってきた。遥か下から二人を望遠鏡で観察していたスタッフが見たものは、音もなく滑落していく二人の姿だった。二人は千メートル以上滑落し、帰らぬ人となった。


 残された二人の妻と幼い子供達は、大切な夫を、父を永遠に失ってしまったのである。時間を巻き戻すことはできない。いかに優れたクライマーにあっても全ての事故を防ぐことは不可能である。とくにヒマラヤの高所では……



 ――そしてまた、繰り返される悲劇にも屈せず、世界の登山家達は挑戦を続ける。

 まるでそれが人間の性であるかのように。


 なぜそんな未知の難所に挑むのか? 健斗達は生前言った。


「分からないからこそ、魅力があるんだと思う」

「登山も一種のアートだと思う。山に新しい線(ライン)を描くんだ」


 健斗らの死からおよそ1年が経った2025年6月、今度は千佳と女性パートナーがペルーの高山に挑んでいた。


 悪天候だった。優秀な女性クライマーと言えども人間として耐えられる寒さは一般人とさほど変わらない。


 高山の上部で身動きが取れなくなった二人は救援を呼び、待ち続けた。

 しかし悪天候は救援さえも阻み、二人を孤立させ続けた。


 やがて千佳の意識がまた薄れてきた。最後には愛する夫と息子の姿がぼんやりと浮かんだ。


 そして、何も感じなくなった。


 パートナーは何とか救助が間に合い、下山した。


 しかし、結局千佳は健斗の死から1年経過して彼の後を追う形になった。



 ✧ ✧ ✧



 白い雲が晴れてきた。


 千佳は空の柔らかな世界で再び彼の姿を見た。


「千佳、焦ってこっちに来るなって言ったじゃん」

「……健斗。来ちゃった。ミスったよね」

「君は無理するから……」

「人のこと言える? 奥さんとかお子さん、可哀そうだったよ」

「君もだよ」


 二人は互いの家族の事を想い、泣いた。

 同い年の40歳。まさかこんな事になるなんて。


 泣きはらした後、二人は悲しみを噛みしめて天国から自分達の家族をしっかり見守ることにした。



 ✧ ✧ ✧



 2040年、それから15年の歳月が流れていた。


 健斗と千佳は毎年7月になると、家族の様子を一緒に空から眺めることにしていた。天から見守るというのは本当にその言葉通りのことだった。


 その年、興味深いことがあった。


 健斗の娘と千佳の息子が二十歳近くなり一緒に登山をしたのだ。

 かつての自分達の様に、若い二人が希望に満ちて遥かな山を登っていく。



「あの子達が頂上に着いたら、天国からの祝福をしようね」


 千佳が言うと、健斗は優しく頷いた。

 

 やがて若い二人が手を取り合って頂上にたどり着いた。

 ふわりと白い雲の方から、優しい夏の風が二人を撫でていった。

 二人は風が来た方を見上げ、二つの白い雲がこちらを見ているように感じた。


 健斗の娘が言った。

「お父さんがいるみたい」


 千佳の息子が言った。

「僕のお母さんも」


「たぶん二人でよろしくやってるんじゃない?」

「だといいね」


 最後に健斗の娘が空に向かって叫んだ。


「お父さーん! 元気でやってるー? こっちはみんな元気だよー」


 山の上の白い雲がにこっと笑った。



  ―― 了 ――


 ※ 次のページに解説があります。

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