第10話:私たちの「社会契約」
八月の太陽は、容赦というものを知らないらしい。
あの日、僕たちは、宮下詩織という名の固く閉ざされた貝殻の前で、完膚なきまでに叩きのめされた。夕立がすべてを洗い流してくれたら、この無力感も少しは薄れるかと思ったが、現実は非情だ。雨上がりのアスファルトは、熱気を孕んだ湿気をむわりと立ち上らせ、世界を巨大なサウナへと変貌させただけだった。不快指数は、僕の自己嫌悪と比例するように、ぐんぐんと上昇していく。
僕たち五人は、それぞれの家に帰り、それぞれの孤独な夜に沈んでいた。スマートフォンの画面だけが、暗い部屋の中で煌々と光っている。グループチャットの画面には、仲間たちの、傷ついた獣のような、痛々しい言葉が並んでいた。
莉奈:『やっぱ、やめよ。あの子を苦しめるのは、違う』
健太:『俺たち、なんか、間違ってんのかな』
雪菜:『ごめんなさい。私が、最初に晶くんにお願いなんかしなければ……』
美玲:『わたくしたちの掲げる正義は、あの方にとっては、わたくしのお母様がおっしゃる「愛」と同じ、「押し付け」でしか、なかったのかもしれません』
胸が、ずきりと痛んだ。誰も、悪くない。悪いのは、全部、僕だ。僕が、彼女を「デジタルの亡霊」などという記号でしか見ず、その心に土足で踏み込んだせいだ。僕は、キーボードに指を置き、たった一言だけ、打ち込んだ。
『すまなかった。僕が、間違っていた』
送信ボタンを押した瞬間、後悔と、ほんの少しの安堵が、同時に押し寄せた。もう、やめにしよう。僕たちの、この独りよがりな正義ごっこは。真央と和也には申し訳ないが、これ以上、新たな犠牲者を生むわけにはいかなかった。
その頃、僕たちの知らない場所で、小さな奇跡が起ころうとしていることなど、知る由もなかった。
暗闇に、無数のモニターの光だけが明滅する部屋。そこは、宮下詩織の聖域であり、城であり、世界から身を隠すための、完璧なシェルターだった。彼女は、指先だけで、デジタルの海を自在に泳ぎ回る。そこに、彼女を傷つける言葉も、嘲笑する視線も、存在しない。あるのは、0と1で構成された、冷たい、しかし、裏切らない情報だけだ。
彼女は、僕たちが家の前で呆然と立ち尽くしていた時から、ずっと、僕たちのことを調べていた。SNS、学校のデータベース、街の防犯カメラの映像。あらゆる情報を駆使し、僕たち五人の、剥き出しのプロフィールを作成していく。
相田晶。冷静沈着を気取る、捻くれ者。だが、その実、仲間たちからの信頼は厚い。
結城雪菜。感情的で、直情的。だが、その涙は、誰よりも他人の痛みに寄り添う。
鈴木健太。脳筋で、短絡的。だが、その拳は、友を守るためだけに、握られる。
橘莉奈。派手な見た目と、乱暴な言葉遣い。だが、その背中には、幼い弟妹の生活が、かかっている。
高嶺美玲。檻の中の令嬢。だが、その瞳には、初めて見つけた「自由」の光が、宿り始めている。
「……はぐれ者」
詩織は、小さく呟いた。
完璧な人間など、どこにもいない。誰もが、何かを抱え、何かに苦しみ、それでも、必死に手を伸ばしている。
彼女のマウスカーソルが、僕たちのグループチャットのログの上で、止まった。
『すまなかった。僕が、間違っていた』
僕の、その一言を、彼女は、食い入るように見つめていた。
馬鹿な人たちだ、と思った。
自分たちの正義を信じて疑わない、独善的な人間だと思っていた。なのに、こんなにも簡単に、自分たちの過ちを認め、傷つき、立ち止まってしまう。
あたしとは、違う。
あたしは、自分を守るために、世界との間に、高い、高い壁を築いた。誰も信じない。誰とも関わらない。それが、あたしが自分と交わした、たった一つの「ルール」だった。
でも。
この人たちは、違う。
傷つけ合い、それでも、互いを許し、支え合おうとしている。
その姿は、あまりにも不器まっちょで、危なっかしくて、そして――。
詩織の指が、キーボードの上を、滑った。
彼女は、一つのウィンドウを開いた。そこには、真央と和也が最後にアクセスした、カウンセリングサイトの、どす黒いソースコードが表示されている。解析は、ほとんど終わっていた。いつでも、このデジタルの闇の、一番奥まで、潜ることができた。
だけど、潜らなかった。あたしには、関係のないことだから。あたしのルールを、破るわけにはいかないから。
でも。
もし。
もし、この人たちとなら。
新しい「ルール」を、作ることができるかもしれない。
翌日の午後。僕のスマートフォンの画面に、一件の、奇妙な通知が届いた。
差出人は、不明。本文には、ただ一言、こう書かれていた。
『昨日の公園。一人で来てください』
僕の心臓が、どくん、と大きく跳ねた。昨日の公園。詩織の家の近くの、あの、古びた公園だ。差出人は、間違いなく、彼女だろう。
グループチャットに、そのことを報告すると、案の定、仲間たちは大騒ぎになった。
健太:『罠だ! 絶対に罠だ! 一人で行くな、晶!』
雪菜:『私も行く! 晶くん一人になんて、させられないよ!』
莉奈:『まあ、落ち着けって。でも、一人ってのが、気になるよな』
美玲:『わたくしの家の者を、手配しましょうか?』
やめろ、話が大きくなりすぎる。
僕は、深呼吸をして、返信した。
『大丈夫だ。行ってみる。ただし、何かあった時のために、君たちには、近くで待機していてほしい』
これは、僕と、彼女の、一対一の問題だ。仲間たちを、巻き込むわけにはいかない。
約束の公園は、昨日と同じく、気怠い夏の午後の光の中にあった。蝉の声が、まるで耳鳴りのように、頭に響く。
ブランコ、滑り台、鉄棒。誰もいない遊具たちが、強い日差しを浴びて、熱を放っている。
僕は、ベンチに腰掛け、彼女を待った。
五分、十分。時間は、ゆっくりと、しかし、確実に過ぎていく。
彼女は、来ないのかもしれない。昨日のことは、ただの気まぐれだったのかもしれない。
僕が、諦めて立ち上がろうとした、その時だった。
「……相田さん」
背後から、小さな声がした。
振り返ると、そこに、彼女は立っていた。
宮下詩織。初めて見る、彼女の、本当の姿。
長い、少しだけ癖のある黒髪。夏だというのに、肌の白さは、陶器のようだった。着ているのは、よれよれのTシャツと、ジャージ。その姿は、「デジタルの亡霊」という、禍々しい異名とは、あまりにもかけ離れた、ごく普通の、どこにでもいるような女の子だった。
ただ、その大きな瞳だけが、怯えた小動物のように、僕をじっと見つめていた。
「……来てくれたんだな」
僕は、できるだけ、優しい声で言った。
彼女は、こくりと頷いた。そして、僕から数メートルの距離を保ったまま、口を開いた。
「……あたしと、契約、してくれませんか」
「契約?」
「あたしは、人を信じません。人は、平気で、嘘をつくし、裏切る。だから、あたしは、あたし自身と、ルールを決めました。『誰とも、深く関わらない』って」
彼女の声は、か細かったが、その言葉には、彼女が生きてきた、壮絶な時間が滲んでいた。
「でも」
彼女は、続けた。
「あなたたちの、チャットを見ました。あなたたちは、あたしが今まで見てきた人たちとは、少しだけ、違うのかもしれない、って、思いました。……ほんの、少しだけ」
彼女は、僕の目を、まっすぐに見た。
「だから、新しいルールを、作りたいんです。あたしと、あなたたちの、五人の間でだけ、通用する、『社会契約』を」
社会契約。その言葉に、僕は、息を飲んだ。僕たちが、今まで、何度も議論してきた、あのテーマだ。
「どんな、ルールだ?」
僕が尋ねると、彼女は、震える声で、しかし、はっきりと、言った。
「このグループの中では、誰も、誰も傷つけない。嘘をつかない。裏切らない。そして、何があっても、最後まで、味方でいること」
「……それが、君の、契約条件か」
「はい」
それは、あまりにも、純粋で、そして、切実な願いだった。
彼女が、どれだけの人に傷つけられ、裏切られてきたのか。その言葉だけで、痛いほど伝わってきた。
僕に、その契約を結ぶ資格があるのだろうか。僕だって、彼女を「ハッキングの天才」という記号でしか見ていなかった。僕だって、彼女を傷つけた、加害者の一人だ。
「……僕には、その資格はないかもしれない」
僕が、正直な気持ちを口にすると、彼女は、静かに首を横に振った。
「相田さんは、『間違っていた』って、言いました。自分の過ちを認められる人は、信じられる、って、……そう、思いたいんです」
その言葉に、僕は、胸を突かれた。
僕は、仲間たちに、メッセージを送った。
『みんな、来てくれ。今すぐに』
数分後。公園の入り口から、雪菜、莉奈、健太、美玲が、息を切らしながら、走ってきた。
彼らは、僕と、詩織の、ただならぬ雰囲気を察し、何も言わずに、僕の隣に立った。
僕は、詩織が提案した「社会契約」の内容を、みんなに話した。
誰も、何も言わなかった。
ただ、その場の全員が、詩織の、その痛切な願いを、真摯に受け止めているのが、空気でわかった。
最初に口を開いたのは、雪菜だった。
彼女は、一歩、詩織に近づくと、深々と、頭を下げた。
「ごめんなさい、詩織ちゃん! 私、あなたの気持ちも考えずに、調査のことばかり……! あなたを、絶対に傷つけないと、約束します!」
彼女の瞳からは、大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちていた。
次に、莉奈が、少しだけ照れくさそうに、頭をかきながら言った。
「……あたしも、悪かった。あんたのこと、根暗なオタクとか思ってたし。でも、もう、そんなふうに、見た目で判断したりしねえ。約束する」
健太も、まっすぐに詩織を見て、言った。
「俺も、お前にひどいこと考えちまった。だが、もう、この拳は、仲間を守るため以外には使わねえって決めたんだ。お前も、今日から、俺の仲間だ」
そして、美玲が、優雅に、しかし、力強く言った。
「わたくしも、約束いたします。この同盟は、誰一人として、見捨てません。それが、わたくしたちの、新しい『秩序』です」
一人一人の、心のこもった言葉。
詩織の、大きな瞳から、堰を切ったように、涙が、溢れ出した。
彼女は、その場に、へなへなと、座り込んでしまった。
「……う、そ……」
しゃくりあげながら、彼女は言った。
「誰も、あたしに、そんなこと、言ってくれなかった……。みんな、あたしを、気味悪がって、避けて……。あたしが、ここにいちゃ、いけないんだって、ずっと思ってた……」
その姿は、もう、「デジタルの亡霊」ではなかった。
暗い部屋で、たった一人、膝を抱えて泣いていた、小さな、女の子の姿だった。
雪菜が、その隣に駆け寄り、その小さな背中を、優しく抱きしめた。
「もう、一人じゃないよ、詩織ちゃん。私たちが、いるから」
その光景を、僕たちは、ただ、黙って見つめていた。
蝉の声が、いつの間にか、少しだけ、遠くに聞こえる。
西に傾きかけた太陽の光が、木々の葉を透かして、きらきらと、彼女たちの涙を照らしていた。
こうして、僕たちの、五人のはぐれ者同盟は、本当の意味で、一つになった。
僕たちの「社会契約」は、法律でも、哲学書の中の言葉でもない。
ただ、互いを思いやり、決して裏切らないという、温かい、涙に濡れた、約束だった。
しばらくして、泣き止んだ詩織は、腫れた目を擦りながら、立ち上がった。
そして、僕たちに、一枚の、USBメモリを差し出した。
「……これ」
「これは?」
「あたしが、調べた、すべてです」
彼女は、はにかむように、少しだけ、笑った。それは、僕たちが初めて見る、彼女の、はにかんだ笑顔だった。
「契約、成立、ですよね? これから、よろしくお願いします。……仲間、たち」
その言葉の、温かさに、僕の胸は、熱くなった。
図書室に戻り、詩織が持ってきたUSBメモリを、ノートパソコンに差し込む。
画面に表示された情報に、僕たちは、息を飲んだ。
そこには、佐伯が、過去に勤務していた、いくつかの学校の名前と、その時期に、不自然な形で自殺、あるいは、不登校になった生徒たちのリストが、びっしりと、並んでいたのだ。
点は、繋がり、線になった。
いや、これは、線ではない。
佐伯という、名の通った悪魔が、何年にもわたって描いてきた、おぞましい、死の星座だった。
僕の背筋を、冷たい汗が伝った。
僕たちの戦いは、まだ、終わっていない。
むしろ、ここからが、本当の始まりなのだ。
窓の外では、夕焼けが、空を、血のように、赤く染めていた。
それは、まるで、これから僕たちが立ち向かう、巨大な闇の、深さを、暗示しているかのようだった。
だが、もう、僕たちは、一人じゃない。
ふと、隣を見ると、四人の仲間たちが、僕と同じ、決意に満ちた目で、画面を見つめていた。
僕たちの正義は、明日も、きっと、理不尽さに怒り、悲しみに寄り添うだろう。
答えなんかない、と知りながら、それでも、僕たちは、考え続ける。
この、涙に濡れた「社会契約」を、胸に抱いて。
それが、僕たちが見つけた、たった一つの、真実なのだから。
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