第3話:第二の静寂
六月の太陽というのは、どうしてこうも無遠慮なのだろうか。梅雨の中休みだとかなんとか天気予報士は嬉しそうに語っていたが、生徒の自主性を重んじるという名の放任主義を貫く我が母校の、冷房のスイッチに固い意志で指を触れようとしない用務員のおっさんのせいで、教室はすでにサウナのような様相を呈していた。窓から吹き込む風は、グラウンドの砂埃と、名も知らぬ初夏の花々のむせ返るような甘い香りを運び込んでくる。その香りは、つい先日までこの教室にいたはずの真央の、シャンプーの香りに少しだけ似ていた。
「なあ晶、これ見てくれよ」
僕、相田晶(あいだ あきら)の冷静沈着を地で行く思考回路を、けたたましい声で遮ったのは、親友の結城雪菜(ゆうき ゆきな)だ。彼女は僕の前の席を陣取り、まるでこれから世紀の大発見を発表する考古学者かのように、大げさな身振り手振りで一枚の紙を机に広げた。その紙は、先日僕が彼女に見せられた真央の遺品、あの日記の一部だった。
「見てくれって言われてもな。昨日も見たじゃないか、雪菜。僕の記憶が正しければ、この一週間、僕たちは毎日これを見ている。そろそろこの紙、僕の顔を覚えて『よっ、また会ったな』くらいの挨拶をしてきそうだぞ」
僕は額の汗を手の甲で拭いながら、できるだけ気だるそうに言った。僕の冷静沈着キャラは伊達じゃない。どんな時でもクールに対応する。それが僕のジャスティスだ。心の中では、汗だくの雪菜の必死な形相に、思わず「ぷっ」と吹き出しそうになるのを必死でこらえていることなど、おくびにも出さない。彼女の真っ直ぐな瞳は、潤んだ子犬のように僕を捉えて離さない。反則だろ、その目は。
「そういうことじゃないんだって! 昨日まではただの点だったんだよ。でも、今朝気づいたんだ。この点が、線になるかもしれないって!」
「点? 線?」
僕は眉をひそめた。雪菜が指差す先には、真央の丸っこい字で書かれた文章が並んでいる。その中に、確かに不自然なほど哲学的な記述が散見された。「絶対的な善も悪もない。すべては立場と解釈次第」――。まるで、どこかの哲学入門書から丸写ししたような、生前の彼女らしくない言葉たち。
「いい? 真央が自殺する一ヶ月前、『クラスメイトの視線が怖い』って相談してくれたことがあったんだ。あたし、その時ちゃんと聞いてあげられなくて……」
雪菜の声が少しだけ震える。僕は黙って彼女の言葉を待った。こういう時、下手に慰めの言葉をかけるのは逆効果だ。彼女は自分の力で立ち上がりたいのだ。僕は、彼女が立ち上がるための壁か、あるいは杖にでもなればいい。
「それでね、この日記! この『視線が怖い』って書いてある時期と、この哲学的な言葉が出てくる時期が、ぴったり重なるんだよ!」
「……なるほど」
確かに、言われてみればそうだ。彼女が何かに悩み始めた時期と、何者かの思想に染まっていく時期が符合している。これは偶然か、それとも。
「誰かが真央に、こういう考えを吹き込んだんじゃないかって、あたしは思うんだ。そして、その誰かが、真央を自殺に追い込んだ犯人なんじゃないかって!」
「飛躍しすぎだ、雪菜。それはまだ憶測の域を出ない」
僕は冷静に、しかし少しだけ優しさをにじませて言った。
「それに、犯人探しなんてしたって、真央は帰ってこないんだぞ」
「わかってる! そんなこと、わかってるよ! でも、このままじゃ真央が浮かばれない! あたしは真央のために怒りたいの! 真央の代わりに、あたしが泣いて、怒って、それで……それで犯人を見つけ出して、同じくらい辛い思いをさせてやりたいんだ!」
雪菜の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。その涙は、机に広げられた日記のコピーの上に、小さな染みを作った。僕は天を仰いだ。やれやれ、正義の味方はいつもこうだ。すぐに怒り、すぐに泣く。感情のジェットコースターが激しすぎる。だが、そのジェットコースターに、僕もいつの間にか乗せられてしまっているのも、また事実だった。
「……わかったよ。手伝う。ただし、僕のやり方でやらせてもらう。いいな?」
「晶……!」
ぱあっと顔を輝かせる雪菜。現金なやつめ。だが、まあ、親友のその笑顔を守るためなら、一肌脱いでやりますか。
こうして、僕と雪菜の、素人探偵ごっこが始まった。と言っても、やることは地味だ。まずは情報収集。真央が生前、誰と親しくしていたか。誰と揉めていたか。聞き込み調査である。僕たち二人は、まるで敏腕刑事ドラマの主人公にでもなったかのような気分で、昼休みの教室を練り歩いた。まあ、実際はただの不審者二名だったわけだが。
最初のターゲットは、クラスの女子グループの中心人物、通称「姫」こと、高飛車な笑みが特徴の女子だ。彼女なら、クラスのゴシップには精通しているはずだ。
「ねえ、ちょっといいかな?」
雪菜が意を決して声をかける。姫は、取り巻きの女子たちと高級そうなスイーツ専門店の紙袋を囲んで談笑していたが、僕たちに気づくと、あからさまに「何?」という顔をした。その顔には「あなたたち下々の者と話す時間など、一秒たりとも持ち合わせておりませんのよ、おほほ」と書いてある。読める、読めるぞ。
「真央のことなんだけど……。最近、何か変わったこととかなかったかな?」
「さあ? 別にぃ?」
姫は、小指でくるくると髪をいじりながら、興味なさそうに答える。その態度に、雪菜の眉がぴくりと動いた。いかん、こいつは短期だ。キレるぞ。
「何か知ってること、あるんじゃないの? 同じクラスだったんだから」
「知らないって言ってるでしょ? しつこいなー。ていうか、あんたたち、まだ真央のこと引きずってんの? 暗くなーい?」
姫の言葉に、雪菜の堪忍袋の緒が、ブチッという幻聴と共に切れたのがわかった。
「あんたねえ! 友達が死んで、悲しくないわけないでしょ! それとも何? あんたは心が鉄でできてるわけ!?」
「はあ? 意味わかんない。ていうか、友達って言っても、別にそこまで仲良くなかったしぃ」
一触即発。周囲の生徒たちが、遠巻きにこちらを見ている。やばい。このままでは昼休みのワイドショーのトップニュースになってしまう。「親友の死の真相を追う少女、教室で乱闘!?」なんて見出しが目に浮かぶ。僕は慌てて雪菜の肩を掴んだ。
「やめろ、雪菜。行こう」
「でも、晶!」
「いいから!」
僕は半ば強引に雪菜を引きずって、その場を離れた。背後から「ウケるー」という姫たちの嘲笑が聞こえてくる。廊下に出た途端、雪菜は僕の手を振り払った。
「なんで止めるんだよ、晶! あいつ、絶対何か知ってるよ!」
「怒りに任せて問い詰めたって、何も聞き出せやしない。それに、ああいう手合いは、僕たちの知らないところで、もっと陰湿な方法で真央を傷つけていた可能性だってある」
「……どういうこと?」
「SNSだよ。今の時代、いじめの主戦場はネットだ。僕たちはそっちを洗うべきかもしれない」
僕の言葉に、雪菜ははっとした表情を見せた。そう、僕たちはまだ、事件の入り口にすら立っていなかったのだ。
その日の放課後、僕たちは図書室の隅の席で、ノートパソコンを囲んでいた。雪菜は、真央のご両親から許可を得て、彼女のSNSアカウントのログイン情報を預かってきていた。
「すごい量だね……」
雪菜がげんなりした声で言う。真央のアカウントには、友達との楽しそうな写真や、たわいもない日常のつぶやきが、それこそ星の数ほど投稿されていた。一見、どこにでもいる普通の女子高生の、きらきらした日常だ。
「この中から、手がかりを見つけるのか……」
「気が遠くなるな。だが、やるしかない」
僕たちは手分けして、膨大な量の投稿やダイレクトメッセージに目を通し始めた。カチ、カチ、というマウスのクリック音だけが、静かな図書室に響く。窓の外では、茜色の夕日が校舎を染め、木々の葉をきらきらと輝かせている。風が吹くたびに、ざあっと葉擦れの音がして、まるで世界がため息をついているように聞こえた。
数時間が経っただろうか。僕の目は、しょぼしょぼと霞み始めていた。画面の小さな文字を追い続ける作業は、思った以上に精神をすり減らす。
「……ん?」
その時、僕はある一つのメッセージに気づいた。それは、真央が自殺する一週間前に、匿名の捨てアカウントから送られてきたものだった。
『君は、とても優しい人だね』
その一文から始まるメッセージは、最初は真央を褒め称え、彼女の優しさを肯定するような内容だった。だが、読み進めるうちに、その論調は徐々に歪んでいく。
『君のその優しさは、時に君自身を苦しめるだろう』
『君は、自分のことよりも、他人の幸せを願ってしまう』
『もし、君一人がいなくなることで、五人の人が幸せになれるとしたら、君はどうする?』
背筋が、ぞくりと冷たくなった。これは……。
「雪菜、これを見てくれ」
僕の声は、自分でも驚くほどにかすれていた。雪菜は僕のただならぬ様子に気づき、画面を覗き込む。彼女の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
「これ……何なの……」
「トロッコ問題だ」
僕は呟いた。五人を助けるために、一人を犠牲にするか。有名な倫理学の思考実験だ。だが、これは思考実験などではない。現実だ。誰かが、真央に対して、この悪魔の問いを突きつけていたのだ。
『君が生きていることで、君の家族は苦しんでいるんじゃないかな?』
『君が頑張れば頑張るほど、周りの人間は、君の優秀さに嫉妬して、不幸になっているんじゃないかな?』
『君が消えること。それは、世界にとって、一つの『善』になるのかもしれないよ』
言葉巧みに、真央の良心に訴えかけ、彼女を精神的に追い詰めていく。これは、巧妙に仕組まれた、言葉による殺人だ。
「ひどい……」
雪菜が、絞り出すような声で言った。彼女の肩は、小刻みに震えている。
「誰なの……。こんなことするの……」
犯人は、真央が抱いていたであろう、漠然とした自己肯定感の低さや、思春期特有の万能感と劣等感の揺らぎを、的確に見抜いている。そして、そこに哲学的な言葉を巧みに織り交ぜることで、自らの行為を正当化し、真央に死を選択させようとしている。これは、異常なまでに人間の心理を理解している人間の仕業だ。
「……先生、かな」
ふと、僕の口からそんな言葉が漏れた。
「え?」
「いや……」
僕は首を振った。確証はない。だが、僕の脳裏には、あの担任教師、佐伯の顔が浮かんでいた。いつも穏やかな笑顔を浮かべ、生徒たちの心に寄り添う、あの完璧な教師の姿が。
その時だった。図書室のドアが、ガラリと音を立てて開いた。僕と雪菜は、びくりとして顔を上げる。そこに立っていたのは、クラスメイトの男子生徒だった。
彼の名前は、和也(かずや)といったか。あまり目立たない、いつも教室の隅で静かに本を読んでいるような、大人しい生徒だ。僕たちと目が合うと、和也は少し気まずそうに会釈して、足早に書架の方へ消えていった。
「なんだ、和也か。びっくりした」
雪菜が、ほっとしたように胸をなで下ろす。僕も、張り詰めていた緊張の糸が少しだけ緩むのを感じた。
しかし、この時の僕は、まだ知らなかった。
この、ほんの数秒の邂逅が、彼と言葉を交わす最後の機会になるということを。
そして、この事件が、まだ序章に過ぎなかったということを。
翌日の朝、教室は異様な雰囲気に包まれていた。昨日までの、無理に明るく振る舞うような空気はどこにもない。誰もが押し黙り、俯き、互いの顔色を窺っている。まるで、目に見えない分厚い鉛の空気が、教室全体に澱んでいるかのようだった。
僕と雪菜が教室に入ると、数人の女子生徒が、泣きじゃくりながらこちらに駆け寄ってきた。
「雪菜ちゃん……! 大変なの……!」
「どうしたの? みんな、落ち着いて」
「和也くんが……。今朝、学校の裏の森で……」
女子生徒の言葉は、途切れ途切れで、要領を得なかった。だが、その断片的な言葉と、教室に充満する絶望的な空気から、何が起こったのかを察するのは、難しいことではなかった。
――二番目の犠牲者。
僕の頭の中で、冷たい声が響いた。
昨日、図書室で会ったばかりの、あの大人しい男子生徒、和也が、自殺した。
教室は、完全なパニックに陥った。泣き叫ぶ女子生徒。呆然と立ち尽くす男子生徒。誰もが信じられないといった表情で、ざわめき、動揺し、怯えていた。一ヶ月の間に、同じクラスから二人も自殺者が出たのだ。偶然で済まされるはずがない。これは、呪いか、それとも――。
そこに、担任の佐伯が、静かに入ってきた。
彼は、教壇の前に立つと、悲痛な表情で、ゆっくりと口を開いた。
「……みんな、落ち着いて聞いてほしい」
その声は、いつものように穏やかだった。だが、その声に含まれた悲しみの色は、いつもよりずっと濃いように感じられた。
「今朝、残念な知らせが、学校に入りました。私たちの仲間である、和也くんが……亡くなりました」
佐伯の言葉に、教室の嗚咽が一層大きくなる。
「先生も、信じられません。どうして、こんなことが続くのか……。先生の力が、及ばなかった。本当に、申し訳ない……」
佐伯は、深々と頭を下げた。その肩は、かすかに震えているように見えた。彼の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。生徒たちの人気も高い、心優しい先生。彼もまた、この悲劇に心を痛めているのだ。多くの生徒が、そう思っただろう。
だが、僕は見てしまった。
頭を上げた佐伯の、その一瞬の表情を。
彼の口元は、確かに悲しみの形に歪んでいた。目には涙を浮かべていた。
しかし、その瞳の奥。ほんの一瞬、ほんのわずか、きらりと光った、暗い喜びの色を。
まるで、自分の思い通りに物事が進んだことを、密かに愉しんでいるかのような。
この悲劇的な状況すら、嘲笑っているかのような。
――悪者は、いつも笑っている。
僕の脳裏に、いつか雪菜と話した、あの言葉が蘇る。
「みんな、辛いと思う。悲しいと思う。でも、だからこそ、私たちは、命を大切にしなければならない。彼の分まで、私たちは強く生きていかなければならないんだ」
佐伯は、涙を流しながら、そう語り続けた。
その顔には、完璧なまでの、悲しみに満ちた、優しい「笑顔」が張り付いていた。
僕の背筋を、再び冷たい汗が伝った。
違う。この男は、悲しんでなどいない。
この状況を、心の底から、楽しんでいる。
疑念は、確信に変わろうとしていた。
僕たちの敵は、人の心を持たない、悪魔だ。
そしてその悪魔は、今、僕たちの目の前で、聖職者の仮面を被って、涙を流しながら、笑っている。
外では、先ほどまでの快晴が嘘のように、厚い雲が空を覆い始めていた。じっとりと湿った空気が、開け放たれた窓から流れ込んでくる。やがて、ぽつり、ぽつりと、大粒の雨が降り出し、グラウンドの乾いた土を濡らし始めた。それはまるで、この教室の混乱と絶望を、空が一緒に泣いているかのようだった。
いや、違う。これは、涙雨なんかじゃない。
これは、これから始まる、長い戦いの幕開けを告げる、狼煙だ。
僕は、隣で静かに涙を流す雪菜の肩を、そっと抱いた。彼女の震えが、僕に伝わってくる。
大丈夫だ、雪菜。
僕が、必ず、お前と、そして真央と、和也の無念を晴らしてみせる。
たとえ、相手がどれだけ狡猾な悪魔だろうと、この僕の、冷静沈着を地で行く頭脳と、ほんの少しばかりの勇気で、必ずその仮面を剥ぎ取ってやる。
僕は、教壇の上で悲劇の主人公を演じる偽善者を、冷たい怒りの目で見据えながら、固く、固く、心に誓った。
雨脚は、次第に強まっていた。
それは、これから僕たちが立ち向かうであろう、困難な道のりを暗示しているかのようだった。
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