『正義の味方はいつも怒り、悪者はいつも笑っている』――言葉で心を殺す“笑顔の教室”で、僕らだけが泣いていた。

Gaku

第1話:笑顔の悪魔と、泣きじゃくる正義

七月の光は、時として暴力的だ。

梅雨の気まぐれな置き土産である湿気を、まるで巨大な蒸し器のように加熱しながら、容赦なくコンクリートを白く照らし上げる。県立湊(みなと)高校の校舎は、その暴力的なまでの陽光を全身に浴びて、蜃気楼のようにぼんやりと輪郭を揺らめかせていた。

「ねえ晶(あきら)! これヤバくない!? マジでヤバいって!」

鼓膜を直接ハリセンで叩かれたような衝撃に、俺、相田晶はゆっくりと顔を上げた。目の前には、俺の幼馴染であり、クラスメイトであり、そして感情の表現方法が哺乳類というよりはアメーバに近い単細胞生物、結城雪菜(ゆうきゆきな)が、一枚のプリント用紙をブルブルと子鹿のように震わせながら立っていた。

「なんだ、また数学の小テストか? 平均点マイナス20点くらいか?」

「ひどっ! ていうか、なんで点数まで具体的に予測してんの!? エスパー!?」

「お前の学力低下は、もはや超能力がなくとも観測できる自然現象だ」

俺がクールに(我ながら惚れ惚れするほどクールに)言い放つと、雪菜は「ぐぬぬ…」とリアルに効果音が聞こえそうな顔で唸り、プリントを俺の机にバンッ!と叩きつけた。その勢いで、俺が読んでいた文庫本のページが数枚めくれてしまう。迷惑千万である。

「見てよこれ! 今回はマジで自信あったのに! 徹夜で公式覚えたのに! なんでサインコサインが逆になってんの!? あいつら双子みたいで紛らわしいのが悪い!」

「それはお前の頭が悪いだけだ」

「晶のそういうとこ、ほんっとデリカシー・ゼロカロリーだよね!」

ぷりぷりと怒る雪菜を横目に、俺は教室全体をぼんやりと見渡した。

七月の教室。窓は開け放たれ、グラウンドから吹き上がってくる熱風が、気だるい午後の空気をかき混ぜている。風に揺れるカーテンが、差し込む光を遮っては通し、床に明滅する光の四角形を作る。その光の中で、チョークの粉と埃が、まるで意思を持ったかのようにキラキラと舞っていた。風に乗って、刈られたばかりの芝生の匂いと、むせ返るような夏草の香りが鼻腔をくすぐる。どこかの運動部が発する気合の入った声、吹奏楽部が奏でる少しだけ音の外れたチューニングの音。

平和だ。あまりにも平和で、退屈で、そして、かけがえのない日常。

教室の隅では、体育会系の星、筋肉ダルマこと健太が、プロテインの新しいフレーバーについて熱弁を振るい、その周りに数人の男子が「マジかよ!」と目を輝かせている。あいつの頭の中は、きっとダンベルとプロテインと「勝利」の二文字で構成されているに違いない。

窓際の席では、クラスのトップカーストに君臨するギャル、莉奈が、これまた数人の女子を侍らせてスマホの画面を覗き込んでいる。「このネイル、超かわいくない?」という甲高い声が、熱風に乗って俺の耳まで届いた。彼女の周りだけ、世界の彩度が三段階くらい上がっているように見える。

その斜め前では、まるで空気遠近法で描かれた背景画のように、富豪の令嬢、美玲が背筋を伸ばして静かにハードカバーの本を読んでいた。彼女の周りだけ、俗世の熱気が届かない結界でも張られているかのようだ。

そして、その後ろの席。教室の権力勾配の最下層、あるいはそんなものとは別次元に存在する特異点、ネットオタクの詩織が、長い前髪で顔を隠し、今日も気配を完全に消している。たぶん、俺以外のクラスメイトのほとんどは、今この瞬間に詩織が教室にいることすら認識していないだろう。

多様な生態系。まさに、県立湊高校2年B組という名のジャングル。そして俺は、そのジャングルを一番高い木のてっぺんから、冷静に、しかしほんの少しの面白さをもって観察する、孤高のゴリラだ。いや、ゴリラは違うな。なんだっていいが。

「聞いてるの、晶!?」

「ああ、聞いてる。サインコサインが裏切ったんだろ」

「裏切ったの! あたしの努力をあいつらは嘲笑ったんだ!」

「落ち着け。三角関数に人格はない」

俺がそう言ってため息をついた、まさにその時だった。

ガラッ、と。

やけに力の抜けた音を立てて、教室の前方のドアが開いた。

入ってきたのは、俺たちの担任、佐伯先生だった。いつもニコニコと人の良さそうな笑顔を浮かべ、少し頼りないところもあるが、生徒一人ひとりと真摯に向き合う姿勢から、男女問わず絶大な人気を誇る教師だ。

だが、今日の先生は、何かが違った。

いつもの人の良い笑顔が、まるで能面のように顔に張り付いている。血の気が引き、その顔色は、使い古したチョークのように真っ白だった。

教室のざわめきが、まるで水を吸ったスポンジのように、じわじと音を失っていく。健太のプロテイン談義も、莉奈のネイル自慢も、ピタリと止んだ。

熱風と、遠くから聞こえる部活の音だけが、やけに大きく響いている。

佐伯先生は、ゆっくりと、震える足で教壇に立った。その手は、何かを強く握りしめているのか、小刻みに震えている。

ゴクリ、と誰かが唾を飲み込む音がした。

俺の隣で、さっきまで小テストの点数に憤慨していた雪菜も、その異様な雰囲気を察して、不安そうな顔で先生を見つめている。

「……みんな、聞いてくれ」

絞り出すような、掠れた声。

先生は一度、言葉を切り、ぎゅっと目を瞑った。再び開かれたその瞳は、赤く充血していた。

「……落ち着いて、聞いてほしい」

なんだ。何が起きたんだ。

クラスの全員が、固唾を飲んで先生の次の言葉を待っていた。

心臓の音が、やけにうるさい。

「……今朝、クラスメイトの……真央さんが……」

真央。

その名前を聞いた瞬間、隣にいる雪菜の肩が、ビクッと大きく跳ねたのが分かった。

真央。雪菜の一番の親友で、いつも二人で笑い合っていた、物静かだけど優しい、あの女の子。

「……真央さんが、自宅で……亡くなっているのが、見つかった」

時間が、止まった。

いや、世界から音が消えた、と言った方が正しいのかもしれない。

風の音も、部活の音も、何もかもが遠くに聞こえる。

先生の言葉が、脳の中で意味を結ぶのに、ひどく長い時間がかかった。

亡くなった? 真央が? なんで?

最初に沈黙を破ったのは、金切り声のような悲鳴だった。誰のものかは分からない。ただ、その悲鳴を皮切りに、教室は一気にパニックに陥った。

「え、嘘……」「なんで……」「昨日、普通に話したのに……」

すすり泣く声。嗚咽。机に突っ伏す女子。呆然と立ち尽くす男子。

俺は、ただ目の前の光景を、まるで他人事のように眺めていた。現実感が、ない。まるで質の悪い映画を見せられているような、奇妙な浮遊感。

その中で、隣の雪菜だけは、声も出さずに固まっていた。

その目は大きく見開かれ、焦点が合っていない。呼吸も忘れているかのように、その肩は微動だにしない。

俺は、そっと彼女の肩に手を置こうとして、やめた。今の彼女に、どんな言葉も届かないだろう。

「……警察の、見解では……」

佐伯先生が、涙で濡れた声で続ける。その顔は悲痛に歪み、今にも崩れ落ちそうだった。

「……自ら、命を……絶った、と……」

自殺。

その一言が、とどめだった。

「……あ……」

隣から、か細い声が漏れた。

雪菜だった。

さっきまで真っ白だった彼女の顔から、一気に感情が抜け落ちて、能面のような無表情になる。そして、次の瞬間。

「……なんで……?」

ぽつりと、呟いた。

その声は、静かな教室によく響いた。

「なんで……なんでよ……!」

声が、少しずつ大きくなる。

「昨日、『また明日ね』って、言ったじゃん……! いつも通りだったじゃん……!」

その瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。ぼろぼろと、次から次へと。

「なんで相談してくれなかったのよぉ……! 親友だって、言ったじゃん……! なんでも話すって、約束したじゃん……!」

嗚咽が、絶叫に変わる。

雪菜はその場に崩れ落ち、床に手をついて、子供のように泣きじゃくった。その背中は、見ているこっちの胸が張り裂けそうなくらい、小さく、頼りなく震えていた。

教室中に響き渡る、魂からの慟哭。それは、守られるべき日常が、理不尽に、あまりにも突然に破壊されたことへの、純粋な怒りと悲しみだった。

「みんな、辛いだろう……悲しいだろう……。先生も、同じだ……」

佐伯先生が、涙を拭いながら、震える声で生徒たちを慰め始めた。

「今は、何も考えられなくて当然だ。でも、どうか、自分を責めないでくれ。そして何より、命を、絶対に粗末にしないでくれ……。先生との、約束だ」

その言葉は、優しく、誠実で、悲しみに満ちていた。

泣きじゃくる生徒たちに、そっと寄り添う、完璧な「良い先生」の姿だった。

だが。

俺は見てしまった。

泣きじゃくる雪菜を見下ろす、佐伯先生のその顔を。

その瞳は確かに悲しみの色をたたえ、頬には涙が伝っている。

しかし、その口元が。

ほんの僅か、コンマ数ミリだけ、弧を描いていたのを。

それは、笑顔の残滓だった。

悲しみの仮面の裏に隠しきれなかった、ほんの微かな、歪んだ満足感のようなもの。

他人の苦しみや混乱を、心のどこかで楽しんでいるかのような、「愉悦」の欠片。

社会のルールや秩序が壊れていく様を、嘲笑っているかのような、不気味な笑みの痕跡。

全身に、鳥肌が立った。

なんだ?

今のは、なんだ?

見間違いか? あまりのショックに、俺の脳がバグを起こしているだけなのか?

いや、違う。

雪菜の慟哭は、本物だ。その悲しみと怒りは、腹の底から絞り出した、紛れもない真実だ。

だが、佐伯先生の悲しみは、どこか薄っぺらい。まるで、用意された台本を読んでいるかのような、借り物の感情。

正義の味方は、いつも怒っている。

今、まさに理不尽に打ちのめされ、怒りと悲しみで泣き叫んでいる雪菜のように。

では、悪者は?

悪者は、いつも笑っている。

今、俺が見てしまった、あの不気味な笑顔のように?

ホームルームの終わりを告げるチャイムが、やけに間延びして鳴り響いた。

重い足取りで、生徒たちが一人、また一人と教室を出ていく。誰もが俯き、その顔は絶望に染まっていた。

最後まで泣き崩れていた雪菜は、数人の女子に支えられて、ふらふらと教室を後にしていく。その目は虚ろで、光を失っていた。

やがて、誰もいなくなった教室に、俺一人だけが取り残された。

西日が、血のように赤い光を投げかけ、長い影を作っている。

風が止み、蒸し暑い空気が、死んだように澱んでいた。

俺は、さっきまで佐伯先生が立っていた教壇を見つめた。

そこに、先生の姿はない。

だが、あの笑顔の残像だけが、網膜に焼き付いて離れなかった。

あれは、本当に悲しんでいる人間の顔だったのだろうか?

一つの疑念が、夏の日の夕闇のように、ゆっくりと、しかし確実に、俺の心の中に広がっていく。

真央の死は、本当にただの自殺なのか。

そして、あの先生は、本当に俺たちの「味方」なのだろうか。

答えの出ない問いだけが、むせ返るような夏の匂いと共に、静まり返った教室を満たしていた。


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