第7話「おかえり」がほしいだけ



夕暮れ時のカフェで、コトハは一人、食器を磨いていた。


昨日の氷の嵐から一夜明けて、王子の透明度は少し回復していた。でも、48時間を切ったタイムリミットが、重く心にのしかかる。


カランコロン


扉の鈴が鳴り、王子が入ってきた。


「今日も、来てくれたんだね」


コトハが振り返ると、王子はいつもの席に座りながら、ぽつりと言った。


「ここ以外に、行く場所がないから」


その言葉に、コトハの手が止まった。


行く場所がない——その言葉の重さが、胸に突き刺さる。


「今日のスイーツは何?」


王子の問いかけに、コトハは我に返った。


「塩キャラメル。甘さの中に、ちょっとしょっぱさがあるの」


「しょっぱさ?」


「うん。甘いだけじゃない味って、なんだか人生みたいでしょ?」


皿に乗せた塩キャラメルは、飴色に輝いている。表面にちりばめられた塩の結晶が、夕日を反射してきらきらと光った。


王子が一口頬張ると、意外そうな顔をした。


「本当だ。甘いのに、しょっぱい」


「変?」


「ううん。なんだか……懐かしい味がする」


王子の表情が、少しだけ和らいだ。塩キャラメルの効果だろうか。孤独を和らげる不思議な力が、ゆっくりと心に染み込んでいく。


コトハは王子の向かいに座った。二人の間に、静かな時間が流れる。


「ねえ、王子」


コトハが口を開いた。


「王宮に、帰りたい?」


王子の手が止まった。青い瞳が、じっとコトハを見つめる。


「……わからない」


「わからない?」


「帰らなきゃいけないのは、わかってる。でも……」


王子は窓の外を見た。魔法の森が、夕闇に包まれ始めている。


「帰っても、誰も『おかえり』って言ってくれない」


その言葉に、コトハの心がきゅっと締め付けられた。


「お母さんが、いなくなってから……王宮は大きな箱みたいだ。豪華で、立派で、でも空っぽ」


王子の声は、とても小さかった。でも、その中に込められた寂しさは、カフェ全体を包み込むほど大きい。


コトハは、自分のことを思い出していた。


学校から帰っても、誰もいない家。


「ただいま」と言っても、返事のない玄関。


冷蔵庫に貼られた、お母さんからのメモ。


『遅くなります。ご飯は温めて食べてね』


——私も、同じだ。


「実は、私も……」


コトハが口を開いた。王子が顔を上げる。


「私も、帰りたくないんだ。元の世界に」


「どうして?」


「だって……」


コトハは両手をぎゅっと握りしめた。


「帰っても、何も変わらないから。友達もいないし、学校も楽しくないし」


初めて口にする本音だった。


「親友だと思ってた子に裏切られて、それから人を信じるのが怖くなって。学校に行くのも嫌になって」


王子が静かに聞いている。その瞳に、非難の色はない。


「でも、ここは違う」


コトハは顔を上げた。


「ここでは、私にも役割がある。王子のためにスイーツを作れる。誰かの役に立てる」


「だから、帰りたくない?」


「帰りたいけど、帰りたくない」


コトハは苦笑した。


「変だよね。矛盾してる」


「矛盾なんかしてない」


王子の言葉に、コトハは驚いた。


「僕も同じだから。帰るべき場所はあるけど、そこに自分の居場所があるかは別」


王子は立ち上がり、窓辺に歩いていった。その後ろ姿が、夕日に透けて見える。


「でも、コトハ。君には帰る場所がある」


「え?」


「君のことを心配してる人が、きっといる。君が『ただいま』って言うのを、待ってる人が」


コトハは首を振った。


「そんな人、いないよ」


「本当に?」


王子が振り返る。その瞳が、不思議な光を帯びていた。


「君のお母さんは? お父さんは?」


「仕事で忙しいから……」


「忙しいのと、君を大切に思ってないのは、違うよ」


王子の言葉が、コトハの心に響いた。


そういえば、お母さんはいつも遅くまで働いているけど、朝ごはんだけは必ず作ってくれる。


お父さんも、口数は少ないけど、学校のことを聞いてくる時の目は心配そうだった。


「僕には、もう『おかえり』を言ってくれる人はいない」


王子の声が、震えた。


「でも君には、いる。それを……大切にして」


涙が、コトハの頬を伝った。


いつの間にか泣いていた。


しょっぱい涙が、唇に触れる。


——ああ、これが塩キャラメルの「しょっぱさ」なんだ。


「ごめん……王子の前で泣いちゃって」


「いいよ」


王子が近づいてきて、そっとハンカチを差し出した。


「泣いてもいい。僕も昨日、泣いたから」


二人は顔を見合わせて、小さく笑った。


泣いて、笑って。


しょっぱくて、甘い。


まるで塩キャラメルみたいな時間。


「ねえ、王子」


涙を拭きながら、コトハが言った。


「私、決めた。王子を絶対に救う。そして……ちゃんと帰る。『ただいま』を言いに」


「うん」


「でも、その前に」


コトハは立ち上がった。


「王子にも『おかえり』を言ってくれる人を、見つけよう。きっと、どこかにいるはずだから」


王子の瞳が、大きく見開かれた。


「そんな人……」


「いるよ、きっと」


コトハは力強く言った。


「だって、こんなに優しい王子のことを、誰も大切に思わないなんて、そんなのおかしいもん」


夕日が、カフェを金色に染めていく。


二人の影が、長く床に伸びた。


「コトハ」


「なあに?」


「ありがとう」


王子の言葉は、シンプルだった。でも、その中には言葉にできない想いが詰まっている。


黒猫のシェルが、カウンターの上でそっと微笑んでいた。


——子供たちは、自分で答えを見つけていく。


孤独を知る者同士だからこそ、分かり合えることがある。


帰る場所を求める心が、二人を結びつけた。


「帰りたいのに、帰れない気持ち……わかる」


読者の皆さんの中にも、そんな気持ちを抱えている人がいるかもしれません。


でも、大丈夫。


居場所は、きっと見つかる。


「おかえり」と言ってくれる人は、必ずどこかにいる。


今日、二人がそれを教えてくれました。

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