第9話 昇心
夜明け前の空は、まだ少し眠たげな灰色をしていた。
目覚ましの音よりも早く目が覚めて、そっと布団を抜け出す。
家の中にはまだ誰の気配もない。
文が起きるには、まだ少しかかりそうだ。
洗面所の鏡に映った自分の顔は、昨日よりは少しだけ、目元がやわらかくなっている気がした。
シャツを着て、髪を整えて、玄関の鍵を静かに開ける。
朝の空気は澄んでいて、昨日の夜よりも、ずっと透明だった。
風が頬に触れるたびに、胸の奥がすうっとして、まだ何も始まっていない今日に、ほんの少しだけ期待が生まれる。
坂道を登る足取りは、ゆっくりだった。
あの丘の上の公園。
昨日、大和が「見せたい」と言った景色。
僕はそれがどんなものか、まだ知らない。
もしかしたら、たいしたことじゃないかもしれない。
でも、大和が「見せたい」と思ってくれたことが、もう僕には十分だった。
東の空が、ほんのりと朱を差していた。
地平線の向こうに、今日がゆっくりと顔を出そうとしている。
階段を登りきると、公園の入り口が見えてきた。
ベンチのあたりに目をやると、そこに――いた。
大和が、先に来ていた。
背中を向けて、空を見上げるその姿は、昨日と変わらないようでいて、どこか少しだけ違って見えた。
近づく足音に、大和が気づいて、くるりと振り向く。
「おはよ」
「……おはよう」
少し照れくさそうに笑ったその顔を見て、僕も小さく笑った。
大和が隣のベンチをぽんぽんと叩いた。
僕は無言でそこに腰を下ろす。
沈黙が、ぜんぜん苦じゃなかった。
「……見て」
大和が顎で空を指した。
その先には、朝焼けが、ゆっくりと世界を染め始めていた。
灰色だった空に、朱色が混ざり、橙が流れ、やがて金色へと変わっていく。
その光が町並みをゆっくり照らして、屋根も道路も、まるごと一枚の絵のように見えた。
「すげぇ、綺麗……」
僕がつぶやくと、大和がうんと頷いた。
「ここさ、バスケやれてた頃の朝練のときによく通ってたんだ。朝が始まるとこ、ちゃんと見たのって、久しぶり」
そう言いながら、大和はまた空を見上げた。
その横顔に、僕は言葉を失ってしまう。
見せたかった景色。
それはたぶん、空そのものじゃなくて。
この時間を、僕と一緒に見るってこと――それ自体だったのかもしれない。
しばらく、何も言わずに並んで座っていた。
まだ朝の匂いが残る風が、頬にあたる。
町の輪郭が少しずつ明るくなっていくのを見つめていると、頭の中のざわざわも、少しだけ静まっていく気がした。
その静けさの中で、大和が声を出した。
「……あの手紙さ」
声のトーンは、低くて、けれどちゃんと届く。
「昨日も言ったけど、最初は正直、何て返せばいいかわかんなかった」
僕は黙って、目線を下に落とした。
それでも、大和は続ける。
「でも、読んでるうちに、思ったんだよ。なんかこう……嬉しいって感情よりも先に、ちゃんと考えなきゃって思った」
そう言って、大和は手のひらをぎゅっと握るような仕草をした。
「尚のこと、ずっと友達だと思ってたし、何でも言い合えるやつだと思ってた。だけど、手紙を読んで、そういう見方だけじゃ足りなかったのかもしれないって気づいた」
大和は僕の方を見ない。僕も顔を上げられない。
けど、その言葉だけは、まっすぐ心の奥に届いていた。
「……恋愛とか、好きとか、同性とか。正直、そのへんはまだ整理ついてないんだ。でも、尚のことをずっと考えてたよ。あれからずっと」
僕の喉がきゅっと詰まる。
言葉を返そうとしたけれど、声にならなかった。
「思い出すこと、いっぱいあった。一緒に遊んだ日とか、笑ったこととか……尚の目とか、話し方とか」
風がふっと、ベンチの背を越えて吹いた。
「俺さ、人の気持ちってもっと単純だと思ってた。好きなら好き、違うなら違うって。だけど、手紙読んで、そんなに簡単じゃないってやっとわかった。……尚が、どんな気持ちであれを書いたのかって、何度も何度も考えてた」
僕の胸が、またじわりと熱くなる。
ひとりでぐるぐる考えていたのは、僕だけじゃなかったんだ。
「だから、今日こうして会えてよかったよ。……尚が、ここにいてくれて、よかった」
それは、たった一言の安心だった。
期待じゃなく、答えでもなく。ただ、僕の存在を肯定してくれる言葉。
「あのとき、手紙を受け取ってすぐに返事できなくて、ごめん。……でも、俺なりに、すげぇ大事に読んでた。ちゃんと、真面目に考えてたから」
僕はようやく顔を上げて、大和を見た。
表情は、きっと自分でもわからない。
けど、今なら言える気がした。
「……ありがとう」
僕がそう言うと、大和は少しだけ笑った。
あの、いつものガハハって笑いじゃない。
どちらかというと、困ったような、それでいてどこか安堵したような笑み。
その顔を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
だけどそのあと、言葉は続かなかった。
どちらからも、何も出てこなかった。
風が、また吹いた。
木々の葉が小さく揺れて、影を作る。
そんな音だけが、丘の上に残された。
沈黙が苦しいわけじゃない。
だけど、ほんの少し前まであんなに迷って、悩んで、震えていた自分を思うと、今ここにいることが夢みたいで、胸の奥がちくりとする。
心臓の鼓動が、なぜか少しずつ早くなっていくのがわかった。
言ってくれた。ちゃんと考えてくれた。大和は逃げなかった。
それだけで、本当なら十分だった。
だけど、どこかでまた欲張りになってる自分がいた。
手紙に書いたのは、あくまで僕の気持ちで。
それを伝えることで、大和がどう受け止めるかは、僕にはどうしようもないはずだった。
でも、大和は今日ここに来て、こうして話してくれている。
それだけで、期待してしまう。
何かが始まるかもしれない、そんな淡い幻想を。
……違う、そうじゃない。そうじゃなくていい。
でも、大和が僕のことを思い返してくれたように、
僕も大和のことを、ずっと思い続けてきたんだってことだけは、ちゃんと伝えたい。
大和が膝に置いた両手を、そっと見た。
いつもボールを掴んでいた、大きくて、強くて、でも今日はどこか頼りなさげに見える手。
僕の心の中で、言葉にならない感情が、また波のようにざわついた。
「……ねえ、大和」
僕は、意を決して名前を呼ぶ。
大和が、ゆっくりとこっちを見た。
「もしさ、手紙に書いたこと、迷惑じゃなかったんなら――」
そこまで言って、喉が詰まる。
言い切ることが、こんなに難しいなんて思わなかった。
でも、大和は、ほんの少しだけ、うなずいてくれた。
その動きだけで、また胸がいっぱいになる。
ほんの小さな頷きだった。
けれど、それは僕にとって、これまでのどんな言葉よりも重く響いた。
何も断言されていない。
「好きだ」と言ってくれたわけでも、「これからどうしよう」と約束が交わされたわけでもない。
でも、僕の気持ちは――否定されなかった。
そのことが、胸の奥の固くなっていた何かを、そっと溶かしていく。
うまく呼吸ができなかった肺に、ようやく新しい空気が流れ込んでくる。
僕はぎこちなく笑ってみた。
たぶん、変な顔だったと思う。目元も、鼻の奥も熱くて、にじんでしまっているし。
それでも、大和は顔を背けたりしなかった。
まっすぐ、僕を見ていた。
風がまた吹いた。
遠くで誰かの笑い声がした気がしたけれど、それが幻かどうかすら曖昧だった。
「ありがとう」
さっきも言った言葉を、もう一度口にした。
今度は、さっきより少しだけ深く、そしてちゃんと自分の意思を込めて。
大和は眉をほんのわずかに下げて、口元をぎゅっと結んだ。
それが、彼の中で何かを堪えている合図のようにも見えて、僕の胸がまた騒ぎ出す。
「尚」
静かな声だった。
「……今すぐに、全部に答えられる自信はない。でも、俺、逃げたくないんだ」
それだけだった。けれど、言葉以上の何かがこめられていた。
今ここで言えない感情、言葉になっていない想い、それらが大和の中で確かに動き始めていることを、僕は感じた。
もしかしたら、ほんの少しずつ、歩き出せるかもしれない。
僕らなりのペースで。僕らなりのかたちで。
ゆっくりと、大和の隣に座る背中に寄り添うような、そんな距離感を思い浮かべる。
今はまだ、それだけで十分だった。
空の色が、少しずつ青に染まり始めていた。
雲の輪郭が濃くなって、まるで水彩画の中に自分が入り込んだみたいだった。
いつもならただの夏模様だった景色が、今日はやけにまぶしかった。
「そろそろ、帰るか」
ぽつりと大和が言った。
その声は、いつものように大きくもなく、小さすぎもしなかった。
ただ、等身大の声だった。
「うん……」
僕も立ち上がる。
気づけば、ずっとベンチに座っていたことに、少し驚いた。
荷物を手に取り、並んで歩き出す。
でも、まだどこか手足の動かし方が不器用なままだった。
それでも、不思議と足取りは軽かった。
さっきまではあんなに重たかったのに。
歩きながら、ふと、大和が僕の方をちらりと見たのが分かった。
「……また、会おうな」
たったそれだけの言葉に、僕の喉の奥が熱くなる。
「うん、もちろん」
返した声が震えなかったのは、たぶん風のおかげだ。
吹き抜けていった夏の風が、胸の中のざわめきを一瞬だけ連れ去ってくれた。
並んで坂を下りながら、僕はふと考える。
――この先、どうなるんだろうって。
でも、今はまだそれでいい。
不安も、期待も、全部背中に背負ったまま、前を向けたことが、何よりの一歩だったから。
もう少しだけ、この夏が続いてくれたらと思う。
ほんの、少しだけでいい。
そんなことを思いながら、坂の下に広がる町の様子を、僕は見つめていた。
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