第7話 澱心

手紙を渡してから、数日が過ぎた。


けれど、大和からは一通のメッセージもなかった。LINEの通知は来ない。既読の表示すらつかないまま、画面にぽつんと僕の最後の「またね」が浮いている。僕はその吹き出しを、何度も開いては閉じた。意味もなく既読がついていないか確認したり、プロフィールのアイコンが変わっていないか覗いたりした。そうしては、そっ閉じして、また次の日も同じことを繰り返した。


期待と、諦めと、怖さと、後悔が、ぐちゃぐちゃに喉の奥に詰まっていた。


胸のあたりに何かが沈んでいるようだった。息が詰まって、何をしていても上の空で、机の上のノートに書いたはずの文字も、途中で止まって、何を書こうとしていたのかさえわからなくなった。


ふと気づくと、僕は靴を履いていた。手ぶらのまま、丘の上の公園に向かって歩いていた。暑い。セミの声が煩わしく感じた。足取りは重たいのに、なぜか心だけが置いてけぼりで、歩いているのか浮かんでいるのかもわからなかった。


あのベンチに腰を下ろすと、急に心細さがこみあげてきた。じわじわと涙腺が熱くなる。でも泣くのは違う気がして、何度も目を瞬かせた。


目の前には、いつもと変わらない街並みが広がっていた。遠くに見える屋根の列。商店街のあたりには、夕方の光がゆっくりと伸びていて、建物の影がじわじわと地面に溶けていく。


風がほとんどないから、木々は音もなく静かだった。でもその静けさが、逆に胸を締めつけてきた。僕の中のざわざわが、外の音のなさに浮かび上がるようだった。


(なんで、渡しちゃったんだろう……)


胸の奥で繰り返すその問いは、ため息にもならないまま、ただ僕の中に溜まり続けた。


ベンチに座る姿勢のまま、携帯を取り出してみる。画面をつける。通知は、ない。LINEのアプリを開く。大和の名前の横の吹き出しは変わらないままだった。何か書いては消して、やっぱり閉じる。


俯いた拍子に、視界の端に自分の膝が映った。太くて、重そうで、じっとりと汗が滲んでいる。あの日、大和に渡したときの自分の手の震えが、ふっと蘇る。

手は、重ねられなかった。触れてしまいそうだった。


(……気持ち悪かったかな)


自分でそう思った瞬間、胃のあたりがじんと痛くなった。僕は、何をしているんだろう。何がしたかったんだろう。頭の中が言葉で埋まっていくのに、どの言葉にも答えがなかった。


「……尚」


背後から、不意に名前を呼ばれた。


心臓が跳ね上がった。音が聞こえたんじゃないかってほど、大きな鼓動だった。体がびくりと反応するのがわかった。


空気が止まったような気がした。喉の奥がぎゅっと締まって、呼吸の仕方を忘れたみたいになった。鼓膜だけが妙に澄んでいて、その一語がゆっくりと染みてくるのがわかる。


(今の、声……)


振り向く勇気が、すぐには出なかった。


振り向かなくてもわかった。僕の名前を、こんなふうに呼ぶのは、大和しかいない。口に含むような、でもどこか抜けた響き。昔からそうだった。あの日、手紙を渡したときと同じ声の温度だった。


それだけで、目の奥がじんと熱くなった。


安堵、かと思えば、怖さ。会えたことが嬉しいようで、でも、なんて言われるかが怖くて。大和の声が染みてくるたび、心のなかがざわざわと色づいていく。震えるまではいかないけれど、胸がふわふわして落ち着かなかった。


ああ、来てくれたんだ、って思う。けれど、それが嬉しいのか、それとも勘違いでないかと怖いのか、自分でもわからなかった。


僕はまだ、振り返ることができずにいた。


「……ここに、いると思った」


背中越しに聞こえたその声は、以前と何も変わっていなかった。間延びしたような話し方。人懐こい空気。でも、そこにほんの少しだけ、迷いのようなものが混ざっている気がして、僕は肩を小さくすぼめた。


ゆっくりと振り返る。夕暮れの空を背負った大和が、ほんの数歩後ろに立っていた。

いつものTシャツにハーフパンツ、キャップを逆にかぶっていて、相変わらず陽に焼けた肌をしていた。


彼の顔を、まっすぐ見るのが怖かった。


でも、逃げるのはもっと嫌だった。


「……やっぱ、ここ来てた」


そう言って、彼は僕の隣にすとんと腰を下ろした。


隣に来るなり、すぐに何かを言い出すわけでもなくて、僕らの間にはしばらくの沈黙が流れた。ベンチの板が、ふたりの重みでわずかに軋んだ音を立てる。その音が、少しだけ僕を落ち着かせた。


それでもまだ、目は合わない。


大和はポケットから缶ジュースを取り出して、もうひとつ、僕の方に差し出した。


「……飲む?」


頷くだけで、言葉が出なかった。手を伸ばして受け取ると、大和の指先が少しだけ僕の指に触れた。

びくりとしたけれど、大和は何も気づいていないような顔をしていた。


(本当に、渡したんだっけ、僕……)


そんな風にさえ思えてしまうくらい、大和の態度は変わらなかった。


缶ジュースを開けた音が、間の抜けた乾いた響きで空に溶けていった。


「今日、暑かったな」


それが、最初の言葉だった。


僕は頷くだけで返した。どこか遠くでセミが鳴いていた。公園のベンチに並んで座る僕らのあいだに、日常の皮をかぶった気まずさが居座っている。


「部活って毎日あるわけじゃないのか」


「うん、運動部じゃないしね」


「そっか。……いいな、ゆっくりできて」


言葉を交わしているのに、どこかぎこちない。普段通りを装っているようで、どこか噛み合わない。ぎくしゃくというほどではないけれど、呼吸がずれている感じ。話題を探して、表面を撫でるように会話しているのが分かった。


「……」


「……」


沈黙がまた落ちてくる。風が足元を通り抜け、落ち葉がカサッと音を立てた。缶の冷たさが手のひらにじんわりと染みてくる。


「最近、寝れなくてさ。部活やってないのに、なんか疲れるんだよなあ」


大和がそう言って笑った。その声に、僕の心臓が小さく跳ねた。


笑った――それだけで、僕のなかの不安が少しだけ溶ける。でも、まだ聞けない。まだ訊けない。


(読んだのかな、あの手紙)


言葉に出せば、何かが壊れてしまいそうで。口を開く勇気はまだ出なかった。


「尚ってさ、夏休み何してんの?」


唐突にそう訊かれて、僕は少し戸惑った。思い返しても、これといったことはしていない。


「図書館行ったり……散歩したり」


「あー、っぽい」


「っぽいってなに」


「いや、尚って、そういう感じ。図書館似合う」


からかうような、でも悪気のない声色。昔からこうやって、軽く言葉を投げては僕を困らせてきた。そのテンポが、少しだけ懐かしかった。


そして、ふと僕は気づく。


大和は――何も言わない。あの手紙について、一言も。


なのに、こうして、僕の隣にいる。


それが、優しさなのか、それとも何かを避けているのか、僕には分からなかった。


沈黙の中で、風がまた草むらをかすめた。遠くでカラスが鳴いて、すぐに静かになった。


僕は缶ジュースを一口飲んだ。炭酸の刺激が舌に触れた瞬間、なんだか泣きそうになった。


目の前に大和がいる。隣に、ちゃんといる。声もかけてくれたし、笑ってもくれた。なのに。


(どうして、手紙のことを何も言わないの)


言葉にはしない。できるはずもない。だけど、胸の中では何度も叫んでいた。気づいてるくせに、わざと知らないふりをしてるんじゃないかって、疑ってしまう。


いや、読んでないだけかもしれない。あの封筒を、そもそも開けてないのかもしれない。風にでも飛ばされて、届いていないのかも。


そうやって、自分を守るためにいろんな理由を捏ねてみる。だけど、大和が何も言わないことが、現実なんだ。


(言ってよ)


心のどこかで、もう一度叫ぶ。喉の奥が詰まりそうになる。


けど、それでも隣にいてくれることが、どうしようもなく嬉しくて、情けないくらい苦しい。


「なあ」


大和の声が落ちてくる。


思わず肩がびくっとする。


「……ん」


「手紙、ありがとな」


その一言で、視界が滲んだ。夕陽が目にしみるせいにして、僕は瞬きを何度もした。


「うまく言えないけど、ちゃんと読んだ。ちゃんと、受け取った」


言葉が追いかけてくる。そのひとつひとつが胸に落ちて、じわじわと広がっていく。


「ありがと、尚」


名前を呼ばれた瞬間、胸の奥のなにかが、ぽろっと崩れた。


嬉しいのか、恥ずかしいのか、悲しいのか。自分でもよくわからない。ただ、堪えていた感情が一気にあふれ出しそうになって、僕は視線を地面に落とした。


「……どういたしまして」


やっとの思いでそれだけ言うと、また沈黙が落ちた。


でも、さっきまでの沈黙とは違った。どこか、少しだけ温度のある静けさだった。

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