第2話
麗華が去って数時間後、悠人は講義の合間に中庭のベンチで、ぼんやりと今日の出来事を反芻していた。麗華の言葉が、まるで呪文のように耳の奥で反響する。
「まさか、あの氷室麗華が、ねぇ……」
隣に座ったのは、友人の健太だった。彼の視線も、悠人の向こう側を泳いでいる。
「何がだよ」
「いや、あの麗華様が、お前に興味津々って話。学内で噂になってるぞ。朝から秘書課の花村さんまで連れてきて、お前を探してたって」
健太の声には、驚きと少しばかりの羨望が混じっていた。
「そんな噂、すぐ広がるのかよ……」
「そりゃ広がるだろ。学園の女王様だぞ? しかも、あの麗華様が、特定の男に執着するなんて、前代未聞だ」
「執着って……」
悠人は頭を抱えた。執着。まさにその言葉がしっくりくる。昨夜の麗華は、まるで飢えた獣のようだった。そして、今朝の彼女の瞳も。
「お前、麗華様と何かあったのか?」
健太が興味津々といった様子で身を乗り出す。悠人は、昨夜の出来事をどう説明すればいいのか分からず、言葉に詰まった。言えるはずがない。あの夜の狂乱を、誰かに話すことなんて。
「いや、何も……ただのバイト先のお客さんだよ」
「ふーん……ならいいけどさ。でも、あんまり深入りしない方がいいぜ。氷室家は、この辺りじゃ絶大な力を持ってる。逆らったら、何されるか分かんねーぞ」
健太の忠告は、善意からくるものだろう。だが、悠人にとってはその言葉が、まるで遠い世界の話のように聞こえた。すでに、深入りどころか、深淵に片足を突っ込んでいる自覚があったからだ。
その時、悠人のスマホが震えた。画面を見ると、知らない番号からの着信だった。訝しげに電話に出る。
「もしもし、神崎悠人さん、ですか?」
上品で落ち着いた女性の声。
「はい、そうですが……どちら様でしょうか?」
「私、氷室家の執事を務めております、橘と申します。麗華様から、お話があるとのことで、少々お時間をいただけますでしょうか?」
橘。その名前に、悠人の心臓がまた跳ね上がった。氷室家の執事。つまり、麗華の命令で動いているということだ。
「えっと、今からですか?」
「はい。つきましては、大学の正門前にお車を手配いたしましたので、そちらへお越しいただけますでしょうか」
有無を言わさない口調に、悠人はごくりと唾を飲み込んだ。健太が心配そうに悠人を見つめている。
「悪い、ちょっと急用ができた」
健太にそう告げ、悠人は足早に正門へと向かった。正門前には、真っ黒な高級車が停まっていた。運転席から降りてきたのは、先ほどの花村だった。彼女は一礼すると、後部座席のドアを開けた。
「お待ちしておりました、神崎様」
花村の顔は、朝と同じく無表情だ。しかし、その瞳の奥には、何かを隠しているような気配があった。悠人は、促されるまま車に乗り込んだ。車内は、革の香りが漂い、外界の喧騒とは隔絶された空間だった。そして、悠人の向かい側には、やはり麗華が座っていた。
「早いじゃない、悠人」
麗華は優雅に微笑んだ。その隣には、先ほどの藤原陸が座っている。彼は悠人を見るなり、無言で鋭い視線を向けてきた。敵意、いや、警戒心か。まるで麗華の番犬のような視線だ。
「橘さん、運転手さんに伝えて。目的地は、例の場所で」
麗華の声が車内に響く。橘という執事は、助手席に座っているようだ。
「かしこまりました、麗華様」
車が滑るように走り出す。外の景色が、どんどん見知らぬものへと変わっていく。一体、どこへ連れて行かれるのか。悠人の不安と、微かな期待が胸の中で入り混じる。
「ねぇ、悠人。私、あんたのこと、もっと深く知りたいの。あんたの全部を、私のものにしたい」
麗華の声が、甘く響く。その言葉に、悠人は抗うことができなかった。いや、もしかしたら、抗う気力すら失われていたのかもしれない。この悪夢のような、甘美な誘惑に、彼はもう囚われてしまっていたのだから。
車は高級住宅街を抜け、さらに奥まった場所へと進んでいく。やがて、人里離れた場所に建つ、広大な敷地と重厚な門が見えてきた。門の奥には、まるで城のような洋館がそびえ立っている。
「ここが、私の別荘よ」
麗華が満足げに微笑んだ。悠人の心臓は、警鐘を鳴らすように激しく打ち始めた。この場所で、何が始まるのか。彼には、まったく想像できなかった。しかし、もう後戻りすることはできない。そう、直感的に悟っていた。
(俺は、どうなるんだ……?)
この、あまりにも非日常的な状況に、悠人の思考は停止しかけていた。ただ、麗華の熱っぽい視線だけが、彼の脳裏に焼き付いて離れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます