第7話:真夜中の電話


海斗がアメリカへ渡って数週間。

物理的な距離は、想像以上に二人の関係に試練をもたらした。

互いの存在を感じられた、あの温かい日常が、まるで遠い夢のようだ。


さくらは、ももの看病と自身の遺伝子治療の創薬研究に没頭することで、海斗への募る想いと、心に巣食う不安から目を背けようとしていた。


二人の連絡は、もっぱら『真夜中の電話』が中心となっていた。

海斗はいつも、さくらのお昼休みを狙って電話を掛けてきてくれた。

さくらに負担をかけまいと、自分の睡眠時間を削ってでも、日本の生活リズムに合わせた時間を選んでくれていたのだ。


ある日、ピロン、とスマホが鳴る。

画面には海斗からのメッセージ通知。

時刻は日本の午後3時を過ぎていた。


『今から電話してもいいかな?』


海斗からのメッセージに、さくらは少し心配して電話をかける。


「海斗? 大丈夫? そっちはもう、深夜なのに…」


さくらが心配そうに尋ねる。


「ああ、さくら。ごめん、今日はちょっと忙しくていつもの時間に電話できなくて…。でも、どうしても君の声が聞きたくて」


海斗の声は、だいぶ疲れているようにも聞こえた。

それでも、彼が異国の地で奮闘していることを思うと、さくらは何も言えなくなる。


その後も、電話での会話はほぼ毎日のように続いた。

海斗は研究の進捗や、アメリカでの生活について淡々と話す。

さくらも、ももの容体や研究の状況を伝えた。


会話は以前よりもたしかに重ねている。

しかし、日に日に言葉にならない、もやのようなものが心にかさぶたを作り始めているように感じる。


画面越しでは伝えきれない、言葉にならない感情が、会話の節々に漂っていた。

会えない日々で募る不安や寂しさは、日に日に増していく。

互いに相手の気持ちを測りかね、不安が深まっていくのを感じる。


ある日の午後、さくらはいつもの時間にスマホを握りしめていた。

海斗からの電話を待つ。

しかし、その日は一向に着信がなかった。

夕方になっても、夜になっても、スマホは沈黙したまま。


『どうしたんだろう…? 寝ちゃったのかな。それとも、何かあったとか…?』


心配が募り、さくらの心はざわつく。

眠れないまま、スマホを何度も確認する。

もう待つだけの恋なんてもう出来ない、そんな切実な思いが、さくらの胸に芽生え始めていた。


その翌日、偶然、スミレのSNS投稿をさくらは見てしまった。

そこには、アメリカの海斗の研究室のメンバーと、海斗、そしてスミレがテレビ会議をしている様子がアップされていた。


時間はまさに昨日、海斗からの電話を待っていたまさにその頃だった。


『…海斗、昨日の夜、スミレさんと打ち合わせしてたんだ…』


さくらの心に以前も感じたことのある、暗い感情が芽生えて、自己嫌悪に陥る。

心配して眠れずにいた自分と、海の向こうで当たり前のように仕事をしていた海斗。

もちろん、仕事なのだから仕方がない。

海斗とスミレが共同研究者であることも、十分に理解していた。


それでも、ほんの少し、胸の奥がえぐられるような痛みを覚えてしまう。

…そんな自分が嫌だった。


その日の昼休み、海斗から電話をうける。


「昨日、ごめん。どうしてもはずせなくて電話できなかったんだ」


海斗が謝った。


「ううん、全然平気だよ。忙しいんだから仕方ないよ。スミレさんとの打ち合わせ、遅くまでしてたみたいだね」


さくらは、つい意地悪な口調になってしまった。

海斗は一瞬、言葉を詰まらせる。


「ああ、そうなんだ。急なテレビ会議が入って。…SNS、見たんだね…」


海斗の声が少し苦笑交じりになる。


「うん。なんか、楽しそうだったね。もう遅いし、おやすみなさい。じゃあ!」


さくらは、拗ねた気持ちをこれ以上抑えられず、自分から電話を切った。


電話を終えた海斗は、スマホを置くと写真に目をやった。

毎日、寝に戻るだけの殺風景な部屋だが、デスクにさくらと横浜でデートした時の写真を飾ってあるのだ。


チンアナゴの水槽の前で、さくらが微笑んでいる。

海斗は自分の小指をそっと唇に当ててから、写真の中のさくらに触れる。

彼は遠い異国の空の下で、さくらのことを深く想い続けていた。


さくらもまた、電話を切った後、スマホの中の『思い出』が映る待ち受け画面をじっと眺めていた。

そこには、海斗への募る想いと、会えない寂しさ、そして、この距離をどう乗り越えていくべきかという、終わりのない問いが込められていた。


(第7話 終)

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