第5話:交差する決断


横浜での小旅行デートから戻り、さくらはスマホでチンアナゴの可愛いスタンプを見つけた。


「ねぇ、海斗、これ! 私たちみたいじゃない?」


さくらが見せた画面に、海斗も思わず笑う。


「ああ、ほんとだ。じゃあ、お互いコレ使おうか」


「うん!お揃いだね!」


それ以降、二人のメッセージのやりとりには、頻繁にチンアナゴのスタンプが登場するようになった。

特に用事がなくても、暇を見つけてはガンバレーのスタンプを送ったり、今日あった他愛ない出来事を送り合ったり…。


既読がつくとすぐに返事をし、新着メッセージがないか、ついスマホを何度も確認してしまう。

チンアナゴのスタンプを見るたびに、水族館での二人の秘密の「キス」を思い出し、さくらの胸は温かい気持ちで満たされた。


互いに忙しい日々は相変わらず続いていたが、そうしたたわいない時間の中で育まれた絆は、確実に深まっている。

このまま、ゆっくりと、しかし確実に、二人の関係は進んでいくのだろう──そう信じていた矢先だった。


穏やかなある日の午後、聞き慣れた着信音が鳴り、さくらは「海斗かな?」と期待を込めてスマホを手に取った。


画面に表示されたのは、父・一平の名前。

胸騒ぎを覚えながら電話に出ると、父の声は震えていた。


「さくら、すまん。ももが、入院した…」


さくらの日常は、この一本の電話で一変した。

妹のももが、急な体調不良で入院したのだ。


ももは、さくらに移植するため、腎臓を提供した後も、定期的に通院していた。

亮からも最近仕事が忙しく疲れ気味だとは聞いていたが、どうやらそれだけではなく、元々、亡き母やさくらと同じ遺伝的な疾患をももも抱えていたようだ。


それに最近の忙しさや接待による過労が重なっていたことが、病状悪化の引き金になったのだろう。


さくらの胸に、再びあの「呪縛」が重くのしかかる。


『私が先に幸せになってはいけない』


ももが苦しんでいることに気づかず、自分だけが海斗との穏やかな時間を楽しんでいたことに、深い罪悪感が募る。


そうして週末はほとんど山梨の実家へ戻り、ももの病院に付き添う日々が始まった。


そんな中、海斗の元にも大きな転機が訪れる。


「吉岡先生、おめでとうございます。先生の論文、査読を通過しました。アメリカの研究機関から、共同研究の招聘が来ています」


青山スミレからの報告に、海斗は複雑な表情を浮かべた。

自身の研究成果が認められた喜びと、腎臓病を持つ患者さんのための治療法確立への大きな一歩を踏み出せた安堵。

それは、さくらとももへの、彼なりの献身の形だった。


だが同時に、海外への招聘は、さくらとの間に再び物理的な距離を生むことを意味していた。

ようやく縮まり始めた二人の距離が、また遠ざかってしまうのではないかという不安が募る。


海斗はさくらに電話をかけた。


「さくら、ももさんの容体はどう? 」


「うん、まだ油断はできないけど、少し落ち着いてきたかな…。でも、亮先輩がね、毎日お見舞いに来てくれてて。本当に助かってる」


さくらの声は疲れているようだったが、亮の話をする時には、どこか安心しているように聞こえた。

海斗の胸に、再びちくりとしたものが走る。


亮がももに献身的に付き添っているのは理解できる。

だが、彼の存在が、さくらとももの距離を縮め、以前のようにさくらと自分の距離を広げているのではないかという、漠然とした不安が頭をよぎる。


一方、ももの病室では…。


亮は仕事終わりに毎晩、ももの病室を訪れていた。

ももの顔色はまだ優れないが、亮の来訪はいつも彼女を笑顔にした。


「もも、今日もお疲れ様。これ、差し入れ」


そう言って亮が差し出したのは、無塩のキャロットジュースだった。

ももは食事制限があり、飲めるものが限られている。

亮はいつも、ももが飲めるものだけを選んで持ってきてくれていた。


「亮さん、いつもありがとうございます!でもこれ…亮さん、絶対内緒ですよ?」


ももは、こっそり亮の耳元で囁き、ジュースをさくらに手渡した。


「お姉ちゃん、これ、私が飲んだことにしておいて!亮さんには絶対内緒ね!」


さくらは苦笑しながらそれを受け取る。

ももは、亮の優しさに甘えつつ、しかし食事制限を破らないように、亮からの差し入れをさくらに渡していたのだ。


亮は、そのやり取りを全て聞いていたが、何も言わずに微笑んでいた。


『もっと心を開いてくれたら良いのにな…』


亮は心の中で呟く。

ももが無理をしていることに、自分も責任を感じていた。

ももが回復するまで、自分がそばで支えようと、心に決めていた。


同時にさくらのことを支えたいという気持ちも変わらないが、今はももを優先すべきだと亮は考えていた。

亮はももの病室を出た後、見送りに来たさくらにこう漏らした。


「ももさんはさくらさんのことをとても頼りにしているし、家族として尊敬してるんです。だから今は彼女のためになるべくそばにいてあげてください。僕もいっしょに支えさせてください!」


さくらは亮の昔から変わらぬ深い優しさに心から感謝していた。

それと同時にこんな想いも交錯するのだった。


『海斗もこうやって側にいてくれたらな…』


過去の自身の入院していた頃のことと、もものことが重なって、ついそんな想いが込み上げてくる。


「亮さん、本当に何もかもありがとうございます。あの時の私もどれだけ救われたか…」


さくらはあの時の感謝をももにお返ししなくてはという想いをさらに強くしていた。

しかしそれは、海斗と会える時間を奪う決意でもある。

さくらの心は、ももの容体、研究への情熱、そして海斗への募る想いの間で揺れ動いていた。


互いに、大切なもののために、それぞれの場所で奮闘する二人。

だが、その努力が、今は二人の距離を再び遠くへと引き離していくように感じられた。


(第5話 終)


次回:「待つための決心」

海斗は渡米が目前に迫る中、互いに大切なもののための努力が、それが二人の時間を奪う。

心がすれ違う中、さくらは待つための決心を海斗に伝えることができるのか?

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