君への想いを花束にして

(1)




 雪は溶けて、春になった。

 白の気配を覆うように街中を桃色が彩る。


 3月末のある日、私は映の乗る車椅子を押し、舗装されていないでこぼこの田舎道を歩いていた。


 だれにも触れないと決めた映の命が、日に日に削られていくのが、見ているだけで分かった。

 少しずつ弱っていく映を見ていることしかできないのはあまりにもどかしくて歯がゆくて、思わず私に触れてほしいと請うたけれど、映は頑として首を縦に振らなかった。私の命を食べてほしいとお願いすることは、映の思いを裏切ること。だから私にできることは、映の思いを汲むことだけ。無情な運命を前に私はあまりに無力であることを思い知る。


 うららかな日差しの元、毛糸の手袋をする映の姿は、傍から見れば少しアンバランスだろう。でも、映はあの日から一度も私の前で手袋をとることはなかった。


「桜、咲いてるかな」


 車椅子を押しながら、映に話しかける。


「ああ。きっと、咲いてる」


 微かな力で、でもたしかな確信を声に乗せて、映が返してくる。


 今日、私たちは"逃避行"の時に見かけた桜を見にきた。

 春になったら見に行こうと約束をした桜。でもあの日、映は私の約束に答えなかった。多分あの時にはもう、自分ひとりで死ぬことを決めていたのだろう。


 なんとなく、映の命の灯が間もなく消えてしまうことが、心では受け入れられなくても頭でわかっていた。

 だからなんとしてもその前に映と一緒に桜を見に来たかったのだ。一秒でも長く、映の瞳に映るものを綺麗なものだけで埋め尽くしたかった。


 河原を進むと、車輪に湿った土が絡みつく。車椅子を押した経験がない私は、土の上を歩くことにさえ苦戦してしまう。けれど今はただ、映の重みが愛おしかった。映がすべてを私に預けてくれている、その実感が私に力をくれる。

 なるべく大きな振動を起こさないよう、力を込めながらも慎重に車椅子を押していくと。


「わ……」


 ピンク色の大きな花火のような輝きが見えてきて、私は思わず声を漏らした。

 桜は、見事に満開だった。豪華絢爛な満開ぶりは圧巻としか言いようがない。


 桜の木の下に車椅子を押していき、映とふたりで頭上のピンクを見上げる。

 ピンク色のカーテンは、私たちをすっぽりと覆い尽くしてしまう。


「綺麗だね……」

「ああ」


 視界を染めるその景色を、瞳の奥に刻み込んでいく。

 映と見ている桜だと思うと、いっそうの感慨が生まれる。


 するとその時。大切なものを慈しむような響きで、私の名前が奏でられた。


「……日依」

「ん?」


 私は映の前にしゃがみ込み、映を見上げる。

 視線が交わった。今日まで何度も目を合わせていたのに、それがひどく久々な気がしてしまう。

 すると映は、悲しみを抱きしめるようにそっと微笑んで囁いた。


「ごめんな。そろそろ限界かもしれない」

「はゆ……」


 唐突に映の口から放たれた言葉に、心臓が大きく揺さぶられ、ひどい息苦しさを覚えた。

 ぷつんと悲しみの糸が切れ、涙がこぼれる。映の前ではもう泣きたくないと思っていたのに、熱くこみ上げてくるそれをこらえることはできない。悲しみと切なさは大粒のしずくとなってとめどなく溢れ、その止め方を忘れてしまった。


 たまらなくなって、ぐしゃぐしゃな泣き顔で映の膝元に泣きつく。


「もっと余命をあげたかった……、私のせいで、」


 けれど映は私の頭にぽんと手を置いた。

 映は私に、その先を言わせてくれない。


「俺の命が終わるのは日依のせいじゃない。日依のおかげで俺は今日まで生きることができた」


 そして。


「好きじゃもう足りないくらい、愛してるよ、日依」


 陽だまりが笑うような柔らかく優しい笑みと共に、輝きに満ちた愛の言葉を授けてくれる。

 私にはもったいないくらいのその言葉を、両腕をいっぱいに広げて受け止める。


「私も……愛してる。だれよりもずっと、今日までずっと、愛してた。これからもずっとだよ」


 幼心に芽生えた恋は、いつしか愛に変わっていた。

 こうして口に出して初めて、自分はこんなにも映を愛していたのだと改めて気づかされる。


 涙に濡れてよれよれで、全然格好のつかない愛の言葉。でも映はそれを両腕で抱き留め、


「幸せだ」


 柔らかな吐息と共にじんわりと呟く。


 その笑顔があまりに儚くて綺麗で、つんと鼻の奥が痛む。まるでそれがお別れの言葉のように思えたから。

 ……やっぱり私は、映みたいに強くなれない。

 映に縋りつき、泣きながら子どもみたいにいやいやと首を振る。


「やだ……やだよ、映、行かないで……」


 ああ、待って。春風が映を連れて行ってしまう。


 すると、切なさに歪んだ私の頬に毛糸の手袋があてがわれた。


「ごめんな。でも、日依がひとりで立っていられる強さを持ってること、俺は知ってる」

「映……」


 そして私の涙を拭いながら、映が最後の力を振り絞って囁いた。


「笑って、日依」

「……っ」


 ……そうだ。笑わなきゃ。心配性な映が心配しないように。映の世界が温かく綺麗なもので満ちるように。


 込み上げる熱いものをこらえるように下唇を噛みしめ、それから涙でくしゃくしゃに濡れた笑顔を作った。

 映の瞳にへたくそな笑顔を作った私が映る――と、映が幸せそうに淡く微笑んだ。

 映の笑顔が、春風に溶けていく。そして瞳がゆっくりと閉じられた。押し出されるようにして透明な雫が映の瞳からこぼれ、頬を伝う。白い肌を滑り落ちる涙は、この世のなによりも透明で綺麗で。


 刹那、風の音すら聞こえない恐ろしいほどの静寂が私を包み込む。


「……は、ゆる……、映……?」


 私の口から行き場をなくした弱々しい声が漏れる。でもそれは、もうだれにも届くことはない。

 すべてを理解した途端、涙が次から次へと絶え間なく溢れ、頬を伝う。


「映、映……映っ……!」


 車椅子に突っ伏し、私は今度こそ大声をあげて泣いた。


「ああぁぁっ……」


 胸に大きく空いた喪失感を、魂の片割れを喪った傷を、いつか私は乗り越えられるのだろうか。

 まだわからない。でも今だけは大声をあげてただひたすら泣いてもいいかな。


 走馬灯のように、映との思い出が瞳の奥を駆け巡る。


 遠足で迷子になった私を、泥だらけになりながら見つけ出してくれたね。

 高校受験の時は、私の勉強を夜遅くまでつきっきりで見てくれたね。

 私が陰口を言われた時、助けに入ってくれたね。

 お気に入りのキーホルダーをなくした時、あたりが真っ暗になるまで一緒に探してくれたね。

 塩と砂糖を間違えた私の料理を、文句も言わずうまいって言って完食してくれたね。

 一緒に花火大会に行ったことも、雪合戦をしたこともあったね。


 数えきれないほどの思い出が胸の中で煌めいている。

 田畑が続く田舎道、寂れた公園、ひとけのない無人駅。生まれ育った小さなこの街で、私たちは数えきれないほどたくさんの想いを重ね合った。


 ねぇ、映。いつだって私の隣にいることを諦めないでくれてありがとう。

 そしてなにより君に贈りたい言葉は。


「生まれてきてくれて、ありがとう……」


 頭上で桜の木がざわざわと揺れる。桜の木だけが、静かに私たちを見下ろしていた。




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