(5)



 まだ夢を見ているようだった。

 初めて映とキスをして、息が止まりそうだった。何度も夢じゃないかって疑った。

 映が私のことをどう思っているかわからない。映がもし同じ気持ちだったら、多分それはこれ以上ないほどの幸せだ。

 けれど――。


「じゃあ、また明日な」

「うん、また明日」


 ぎこちなさは拭えないまま映に送られ、私は家に着いた。


「……ただいま」


 家に入りドアを後ろ手に閉める、とその直後、糸が切れたように無理やり作っていた笑みがくしゃりと歪み私はその場で泣き崩れていた。


「……ふ、ぅう……」


 好きだって言いたかった。でも言えなかった。

 どうして、想いすら伝えられないのだろう。どうして、私は映の彼女になれないのだろう。

 もしかしたら近づきすぎないない方がよかったのかもしれない。手が届かないままなら、これ以上は望まずにいられた。可能性があるかもしれないと思ってしまったら、単純な私の心には勝手に期待が膨らんでしまう分余計につらい。


 あんなにどきどきしたのに、心臓はまさに今も動いているのに、遠くない未来でこの心臓は息をすることを忘れる。

 私は、映を置いていくことしかできないのだ。


 私には10年後がない。その容赦のない事実が立ちはだかって打ちのめされそうになる。

 なんで同じ思い出を積みあげていけないんだろう。

 なんで一緒に年を重ねられないんだろう。


「日依?」


 私の声を聞きつけ、お父さんとお母さんがリビングからやってきた。


「どうしたの、日依……」


 お母さんが私を抱きしめてくる。

 夕食と柔軟剤の匂いに包まれ、さらに涙腺が緩んだ。


「死にたくないよ……」


 気づいたら、涙と共にこぼれていた。

 縋るようにお母さんの腕に抱きつく。

 映の彼女になりたい。まだまだお父さんとお母さんの優しい温もりに包まれていたい。


 それは、初めて口にした言葉だった。

 まるでお父さんとお母さんの心臓を突くナイフのように思えて、言えなかった。


 私はずっと家の中で天真爛漫に振る舞うひとり娘だった。そんな私がお父さんとお母さんの前で弱い部分を見せたら、ふたりを悲しみに引っ張ってしまいそうで悪い気がしていた。


「死にたくない……」


 いっそ今すぐ死んでしまいたいと思っていたくせに。

 でも、生きていなければ手に入らないものが、あまりに多すぎた。


 ひとつ本音を漏らす大きな躊躇いを越えてしまえば、胸の底に溜まっていた本音が連鎖するようにずるずるとこぼれる。


「ごめんね、お父さんとお母さんより先に死んじゃう娘で」


 余命宣告されたことについて、両親と腹を割って話すことはなかった。私の前では悲しみを見せずに気丈に振る舞ってくれるふたりの、悲しい顔を見るのが怖かったから。

 でも謝りたかったのだ、ずっと。大事に大事に育ててくれたふたりに、最大の親不孝をしてしまうことを。


 するとお母さんが笑った。その声はいつの間にか涙で濡れていた。


「なに言ってるの。日依が私たちの娘でよかったって毎日思ってるのよ?」

「私でよかったの……?」


 よれよれの声をこぼせば、お母さんが私の頭にすりすりと頬を寄せた。


「当たり前でしょ? 日依が産声をあげた日から、お父さんもお母さんもこの世で一番の幸せ者なのよ。17年前、私たちをお父さんとお母さんにしてくれてありがとう」

「……っふ、う……」


 いよいよ最大の涙波が押し寄せてきて、私はお母さんの腕の中で泣き崩れた。

 すると静かに見守っていたお父さんが、私とお母さんを包み込むように抱きしめてきた。


「そうだよ、日依。生まれてきてくれてありがとう、お誕生日おめでとう、日依」


 その声もまた涙に濡れていた。お父さんの涙声を聞くのは、私が余命宣告をされた日以来、2度目だった。


「産んでくれてありがとう。お父さんとお母さんの娘で幸せだよ、私……」


 嗚咽の狭間にそう言ったけれど、ちゃんと言葉になったかはわからなかった。

 けれど、産んでくれてありがとうと、なんの躊躇いもなくそう言えた自分が嬉しかった。


 ふたりの腕の中、私は子どもに還ったようにわんわん声をあげて泣き続けた。




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