君の手を離さなきゃと思っているのに

(1)




希山きやまさん!」


 化学の移動授業が終わり、夏葉と並んで廊下を歩いていると、突然背後から私を呼ぶ声があった。

 教科書を胸元で抱きしめたまま振り返ると、白衣を纏った音無おとなし先生が立っていた。わが校の数少ない20代の女性教員で、丸い眼鏡がトレードマークの音無先生は、美術科の教師だ。

 きゅっと教科書を抱く腕に力が入ってしまったのは、嫌な予感が胸を掠めたから。

 立ち止まったままでいる私に、音無先生は邪気のない笑顔で近づいてくる。


「久しぶりだね、希山さん。最近全然美術室に顔出さないじゃない。どうしたの?」

「そ、それは……」


 油絵のつんとした匂いが鼻先に触れる。白衣のあちこちにカラフルな絵の具がついている。

 それらは懐かしさを刺激すると共に、酸素を失っていくような息苦しさとなる。あんなに夢中で大好きだった絵を描くことを手放した、あの日の思い出が苦々しくせり上がってくる。


「年明けすぐにコンクールがあるんだけど、希山さんも出すよね?」

「……ちょっと今忙しくて、まだわからない、です」


 出さないと言い切れず言葉を濁してしまったのは、断る勇気のない私の弱さだ。

 本当はもう心の内では決まっている。今後絵を描くことはないと。余命を宣告されたあの日から、私は筆を握れなくなってしまったのだ。それまでの情熱は跡形もなく枯れ果ててしまった。だって10年後にはどうせ終わるこの人生、絵を描くことに打ち込んだって、なんの意味も成さないことを知っている。夢をみるだけ虚しいだけだ。


「そうなの? 忙しいのかぁ……。でも期待してるよ。希山さんだったら絶対上位目指せるから」


 眼鏡の奥の瞳を細めて笑う音無先生に、私は曖昧でぎこちない笑顔を返すことしかできなくて。

 私よりも小柄な音無先生が、私の肩にぽんと手を置き、「じゃあまたね」と歩いて行ってしまう。

 

 すると、そのやりとりを見ていた夏葉が感心したように口を開く。


「美術部じゃないのに、すごいなぁ。特待生みたいなことだもんね」


 私は美術部には所属していないけれど、中学の美術の先生の推薦があり、音無先生には目をかけてもらっている。コンクールなどがあるたびに、今年の夏までは私も出展していた。

 けれどそれはもう過去のこと。

 私は無理やり話題の舵を切る。


「それよりさ、今日の体育なんだろうねっ」

「えっ、日依氏、そんなに体育に前のめりだったっけ!?」

「えへへ」


 そうして作り笑顔をしながら唐突に気づいてしまった。生きる意味を見失い、絵への情熱も失くした今の私は、空っぽなのだと。




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