第九章

(1)




『私の心は持っていっていいよ。私の全部、貴方にあげる』


 その言葉の意味を、ずっと探している。




 宵が消えて5日が経った。僕はあの日に囚われたまま、動けないでいる。


 ポシュッ。ポシュッ。

 音を立てて、勉強机の上のスマホがメッセージを受信している。

 きっとイチだろう。学校に行ってもずっとぼーっとしている心配して、どこか遊びに行こうとか、そんなメッセージを送ってくれているのだろう。

 でも僕はなにをする気力もなかった。幼稚園にお迎えに行って学校から帰ると、自室に直行してベッドに突っ伏す。家事はすべて、体調が悪いと理由をつけて、母さんに任せきりになってしまっている。


「はあ……」


 ため息が、自室の壁に吸い込まれていく。

 このままじゃいけないと思っている。

 けれど胸にはぽっかりと喪失感という名の大きな穴が空いていて、それを埋める術がわからないのだ。


 するとそのとき、自室のドアが躊躇いがちにギイッと音を立てて開いた。続けて聞こえてくる、まだあどけない声。


「にーちゃん? だいじょぶ?」


 ベッドに埋めていた顔をのっそりと上げれば、希が心配そうに立っていた。


「希……」


 希はこちらに歩いてくると、背中に隠していたものを僕の前に差し出した。それは赤い折り紙だった。


「おはな! まれがつくったの! あげる」

「え、にいちゃんに?」

「うん! しょぼしょぼしてるから。にーちゃんがげんきないと、まれもしょぼしょぼしちゃうから」


 赤い花の折り紙を受け取る。これはきっとチューリップだろう。

 僕は折り紙を持つのと反対の手で、希の頭をぽんぽんと小さく撫でる。

 その温度が妙に心地よく、心を落ち着かせた。


「ごめんな、希」


 けれど希がきょとんと僕を見つめている。多分希にとって、チューリップをあげたのに"ごめんな"は理解のできない会話の流れだったのだろう。

 僕は笑って見せる。


「違うな、こういうときはありがとう、だよな。ありがとう、希。希のおかげで元気出た」

「ほんとう?」

「うん、ほんと」


 希にまで心配させているようじゃいけない。こんなんじゃ希に示しがつかない。

 僕が笑っているのを見て安心したのだろう。希は笑顔を弾けさせると、「じゃあ、くまさんもつくってくる!」と嬉しそうに部屋を出て行った。


 希が出ていくのを見送ると、手の中の折り紙を見つめる。僕にとっては数では表せないほどの価値が、この一枚の紙にはある。

 勉強机の上に、希が作ってくれた折り紙や絵を飾っていくスペースがある。このチューリップもそこに並べようと、さっきまでは鉛のように重かった腰を上げると。


「……ん?」


 ベッドと本棚の間に、小さな紙が落ちていることに気づいた。

 拾い上げると、それは写真だった。海を背に、僕がピースをしている写真だ。この前――宵がこの部屋に来たとき、ふたりでアルバムを見た。そのときにアルバムから落ちたのだろう。

 あのときは宵が隣にいたのに。

 じんじんと胸が疼く。大切にしたいのに、宵の記憶が棘になっているようだ。


 紙を持つ手に、親指の先が白くなるくらいぎゅうっと力を込めたときだった。


「――ササキトモル」


 不意に声が聞こえてきた。まるで空気を介さず、耳の奥に流し込まれたような感覚。


 顔を上げる。そこには、見たことのない人が立っていた。音も気配もしなかったのに、いつの間にかそこに立っている。

 あまりに驚いたとき、人って声なんて出ないものなのだ。ぽかんと間抜けに口を開けたまま、その人を見つめる。


 黒のロングコートに黒い髪、黒い靴。顔は前髪とコートの襟に隠れて見えない。低い声からかろうじて男性だということだけがわかる。


 あんた誰だ、とか、なんでここにいるんだ、とか。そんな当たり前のように浮かぶはずの疑問はわかなかった。

 その存在自体が、ひとつしかない答えを導いていたのだ。


「……死神……?」


 ありえないはずなのに、正に人間離れした彼が纏うオーラは言葉を要さないほどの説得力だった。あまりに無機質で異質なのだ。


 宵から聞いた、死神さん。きっと彼はその類なのだろう。

 すると死神は胸に手を当て答えた。


「ええ。人間の言葉では我々はよくそう呼ばれています」


 ――やっぱりそうなのだ。

 宵が死神さんって呼んでいた、その意味がわかる気がする。なんとなく死神と名称で呼び捨てにするにはおこがましい気になるのだ。


 ふと、壁にかけた時計の秒針の音が止まっていることに気づいた。時が止まっている。僕と死神さんを包む空間だけが、世界と隔絶されているかのように。


 頭が混乱していた。目の前の存在が死神だということはなんとか理解したものの、だからといってこの状況にはまだついていくことができない。


「死神が、なんでここに……」

「そう怯えないでください。今日はお返しするものがあって降りてきただけですから」


 幽霊が見える霊感のある僕だから、死神まで見えるのか……?

 そんなことを思うと、直後僕の脳内の言葉が聞こえているかのようなタイミングで、答えが提示された。


「違いますよ。あなたは一度死にかけているからわたしが見えるのです」

「え?」

「そして、タカツキヨイのことが見えたのも、あなたに霊感があるからではありません。その逆で彼女があなたにだけ見えて触れることのできる霊体だったのです」

「は……?」

「彼女はあなたに会うために、この世に降りてきたのですから」

「どういう、意味ですか」


 意味がわからなかった。頭に直接流れ込んでくるのに、その言葉は脳を滑っていくばかり。

 死神さんはなおも波のない声で続ける。


「彼女は成仏しました」


 なにをもって成仏とするのか、成仏したらどうなるのか、よくわからない。でもきっともう宵には会えないのだと、それだけはなんとなくぼんやりとわかってしまった。


 心が大きく脱力するような、そんな感覚に立ち尽くしていると、死神さんが顔を動かなさい代わりにミュージカルを演じるように腕を大仰に動かしながら語る。


「力のない人間がどのように愛を貫くのか、その生きざまを見せてもらいました。満足させてもらったので、あなたの命の担保にお預かりさせていただいていたものをお返しします」

「命の担保?」

「はい」

「それは、いったい……」

「あなたにとって一番大切なものです。それは、」


 続く言葉は、あまりに信じられないものだった。


「は……? なに言って……だって、そんなわけ……」

「一気に戻ってくると混乱するかと思いますが、元あった場所に戻るだけですのでどうか落ち着いて受け止めてください」


 混乱する僕に、死神さんは手を差し伸べてカウントダウンを開始する。


「3,2,1」


 その直後、ぶわっと心の中で頭の中で、なにかが弾けた音が聞こえた。

 そのなにかをわかりつつあった僕は、手にしていた写真におそるおそる視線を落とし、そしてすべてを理解した。


「あ……ああ……っ」


 感情が爆発し、唇が震える。意図するより先に堰を切ったように涙が溢れ出し、嗚咽が止まらなくなって口を手で押さえる。


 手にしていた僕が海を背に写る写真。そこに写る僕の隣には――宵がいた。

 幸せそうな笑顔でふたりで寄り添っている。


 僕のとって一番大事なもの。それは、

『彼女と過ごした日々です』。


「宵……っ」


 一瞬にして目まぐるしく沸き起こるたくさんの記憶。なにより大切で愛おしい日々。

 ばらばらになっていたパズルのピースがすべて元あった場所に戻っていき、全部を思い出した――宵が恋人であったことを。


「ああ、ああっ……」


 なんでこんな大事なことを忘れていたのだろう。なんで、なんで……っ。


 動揺が止まらず、我を失ったように泣き続ける僕に、死神さんは語り掛ける。


「あのバス事故に遭った日、本当はあなたの命は回収される予定でした。しかしあなたの一番大切なものと引き換えに命が救われたのです」

「なんで……。だから、僕は宵のことを忘れていたんですか……っ」

「忘れていた、というよりは、あなたと彼女が一緒に過ごした日々そのものがすっぽりとこの世から失われていたのです。この世を離れた彼女にだけ、その日々が残っていました」

「そんな……」


 僕は思わずその場に膝をつき、泣き崩れた。


「うそだろ……宵……」


 ごめん、ごめん。君のことを気づけなくて。

 君はまた僕の前に現れてくれたのに、僕は君のことを見逃していたなんて。


「うわあああっ」


 絶叫する。心が落下していく。


 ふと、宵と付き合っていた頃の思い出が頭の中を駆け巡る。それはまるで、ずっと空白だった隙間を埋めるように――。


『――宵』


 僕の声が背中にぶつかり、君が振り返る。


『灯!』


 宵の笑顔が咲いて、中学の制服だったグレーのセーラー服が風にそよぐ。宵の髪は、そうだ。肩より少し長いくらいだったっけ。


『学校まで一緒に行こ』

『あれ、灯。朝練は?』

『今日は休み』


 さりげなさを装うようにして並んで歩きながら、宵の手を握る。


『宵の手、いつもあったかいよな』

『そう?』

『うん、寒かったからカイロみたい』

『じゃあよかった。私の手、温かくて』


 僕は先月から宵と付き合い始めた。この前、ふたりで1か月記念を過ごしたばかり。こうして手を繋ぐのも、まだ数回目のことだ。

 少しだけ、というかだいぶ浮かれていた。ずっと想いを寄せていた彼女が恋人だなんて今でも信じられない。手を伸ばせば触れられる距離に、宵がいてくれる。道行く人みんなに、この人が僕の恋人ですって言いふらしたくなる。

 すると同じタイミングで同じようなことを、宵が隣でつぶやいた。


『なんか幸せだね。好きな人が隣にいて、手を伸ばせば触れられるって』


 宵は前を向いたまま。けれど、わずかに僕の手を握る手に力がこもった気がする。


『初恋は叶わないって言うじゃない? だから今もちょっと信じられない』

『え、初恋なの?』

『そうですよ?』

『てっきりモテるから僕じゃないかと……』

『偏見だよ、それは』

『ごめん……。でも嬉しい』

『ちゃんと、正真正銘初めての恋だよ』


 自分の言葉を実感するように、声音を温める宵。

 あ……目が合わない理由がわかった気がする。宵は多分照れてるのだ。


『灯のことを好きになって、この人の未来になりたいと思った。だから私の手、離さないでね』


 宵の声が胸に届いて、鼓動を揺らす。

 僕はたまらなくなって、その体を抱き寄せた。


『え、灯? どうしたの急に』

『愛おしくなったから、つい』


 すると宵は、ふふと笑って僕の肩口に顔を埋めた。僕に体を預けてくれている、その安心感に浸る。

 宵が僕の未来になってくれる。未来でも僕の隣にいてくれる。まだ見ぬ未来が、眩しくて輝かしい。

 これからもずっと、この温かくて柔らかい手を離したくないと思った。


 すると、そのとき。


『あーっ! 佐々木灯ー!』


 聞きなれた声が聞こえて、宵から体を離しつつそちらを見る。

 するとそこには、仁王立ちしてこちらを指さすイチの姿があった。


『げ、イチに見つかった』

『こんな公共の場でいちゃつくな! ずるいぞ、灯ばっかり!』


 僕は宵の手を握った。『え?』と宵が驚く。

 僕はいたずらを企む子どもみたいに笑って宵に耳打ちする。


『逃げるよ』

『わっ』


 宵の手を引いて走り出せば、背中にイチの声がぶつかる。


『みんなのアイドルを独り占めしやがって! くそ~! 幸せになりやがれ!』

『幸せにしまーす!』


 地団駄を踏むイチから走って逃げながら、宵と顔を見合わせて笑い合う。

 宵となら、このままどこまでも一緒にいけるんじゃないかって、そんな錯覚さえ覚える。


 幸せだった。無条件に、ずっとこの幸せが続くと思っていた。


 ――それなのに。あの日の事故で宵は命を落とし、僕はこの大切な日々と引き換えに命を救われたのだ。


「…………」


 記憶の再生が停止される頃には、もう涙を流す気力さえ失っていた。途方もない現実に叩きのめされ、打ちひしがれていた。

 僕は何度宵を傷つけてしまったのだろうか。

 心が空っぽになって、哀しみさえ枯れ果てた。


 ふらふらと立ち上がり、力ない足取りで勉強机と向かう。

 机の上には、宵からお土産でもらった置物やお揃いのマスコットキーホルダー、それから宵との写真が飾ってあった。写真の中の僕たちは、なにがそんなに楽しいのかくしゃくしゃに破顔している。


 宵が僕の日常にいた痕跡を呆然と見つめていると、不意に脳内に声が流れ込んできた。


「これは少々人間に干渉しすぎた死神の独り言だと思って聞いてください」


 死神さんの声に、のろのろと振り返る。

 目は見えないのに、真正面から見据えられている、そんな感覚を覚えた。


「あなたは彼女の思いに寄り添おうとしないのですか」

「え……?」

「悲しみ続けることが彼女への弔いになりますか、これは彼女が願った未来ですか」


 むき出しで投げかけられる死神さんの言葉に息をのむ。

 止まったかのように息を潜めていた鼓動の音が、徐々にどくどくと大きくなっていく。


「彼女がどんな思いであなたに会いに来て、隣で笑い続けていたのか、わたしには計り知れません」

「……っ」


 ふと、気づいてしまった。

 ……そうだった、宵は人一倍涙もろい子だった。

 プレゼントをあげたときも綺麗な曲を聴いたときも希の発表会も、記憶の中の宵はよく泣いていた。目と鼻先を真っ赤に腫らして、なんで灯は泣かないんだって僕を批難して。綺麗な心は、鈴が鳴るように横に振れた。

 それなのに宵は、再会して僕の前では涙を一粒もこぼさなかった。瞳を潤ませながらも、涙をこぼさんとずっと踏ん張っていた。


 宵はいったいどんな気持ちで、なにも知らない僕との時間を過ごしてきたのだろう。

 初めて出会ったふりをして。灯くん、なんて他人行儀な空気を作って。

 宵はこんな大きな秘密をひとりで抱えながら、時には僕を支え、時には痛みを分かち合いながら、僕の心を照らすように僕の分も笑ってくれていた。違和感を抱かせる隙も作らせずに。


『初めまして、不良少年くん』

 出会った日、君は臆することなく"初めまして"と笑った。二度目の初めましてを僕にくれたんだね。


『灯くんが助かってくれてよかった。生きていてくれてありがとう。灯くんが生きていてくれたから、私たちはこうして出会えたんだよ、きっと』

 そうやって、僕が生きていた意味を、何度も惜しみなく肯定してくれた。生きていてくれてありがとう、なんて初めて言われたんだ。


『なんかじんとしちゃって……。ごめん』

 そうだ、手を繋いだだけで君は目を潤ませていたね。けれど僕はその意味に気づけなかった。


『生きてなんてそんなこと軽々しく言えないけど、つらいことも苦しいこともきっとたくさんあるけど、それでもいつか生きていてよかったって思える日がくるはずだから。止まない雨も明けない夜もないから』

 君は何度も僕の気持ちを掬い上げてくれた。いつだって僕が幸せであることばかりを考えてくれた。


『それにね、貴方が私を忘れても、私が貴方の人生に存在したその事実は嘘にはならないから』

 今ならわかるよ、君がこの言葉をくれた理由を。どんな思いでこの言葉をくれたかを。


「宵……」


 逃げてもいいこと、物分かりがいいふりをしなくていいこと、未来は自分で変えられること、自分を大切にすること。

 全部全部、宵が教えてくれたじゃないか。

 

 床のカーペットの上に、ぽたぽたと涙が落ちていく。

 涙を流すことができる。それは手放しかけた心がまた僕の中に戻ってきたことを表すようだった。


「ふ、うう……」


 涙を流すのはもう今日で終わりにするから。だから今日だけは君を想って泣くことを許してほしい。


「僕の心も持っていってくれたかな……」


 泣き腫らした顔で、窓の外を見る。そこにはオレンジと水色が混ざり合った夕暮れの空があった。


 そして今日もまた、静かな夜がやって来る。






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