(2)



 放課後。高校を出た足でそのまま幼稚園に希のお迎えに行く、それが僕の欠かせない日課だ。


 今日もいつものように幼稚園の門をくぐり、園庭ではしゃぎまわる大勢の子どもたちの中から妹の姿を探していると、希のクラスの先生が園舎の方から駆け寄ってきた。


「あ! 希ちゃんのお兄さん」

「こんにちは。お世話になりました。えっと、希は……」


 希の姿を目で探す仕草をすると、先生が気まずそうに顔を寄せてきた。


「希ちゃん、実は今日友達と喧嘩してしまって……」

「え? 希が?」


 思いがけない話に、僕は目を見張った。ざわざわしたなにかが背筋を這い上がる。

 希は僕と違って明るく快活で、友達関係も幼いながらに上手に構築していると思っていた。だから友達と喧嘩なんて、もちろん初めてのことだ。


「原因は話してくれないんですけど、お友達を突き飛ばしてしまったみたいで」

「……」


 絶句した。

 原因がなんであれ人に手を出してはいけないと、そんなことは希だって理解していると思っていたのに。

 

 父さんがいたら、こんなことにはならなかったのだろうか――ふと頭を過ってしまった考えを、僕は必死に振り払う。

 いくら父さんのことを考えたってあの人はもう戻ってこないのだから、僕がしっかりしないと。


 そうしているうちに他の先生が、園のバッグを掛けた希と手を繋いで園舎から出てきた。希は首を斜めに曲げ、わかりやすく下を向いている。ご機嫌ななめのサインだ。


 先生たちに「ありがとうございました」と頭を下げると、小さなその手を取った。


「希、帰ろう」




 いつもはその日にあった出来事を楽しそうに聞かせてくれる帰り道。でも今日は俯いたまま一言も発さない。

 手を繋ぎ、希にペースを合わせて歩きながら、僕はそっと問いかけてみる。


「なあ、希。今日、なにかあった?」


 ふるふる。頭を横に振り、無言の否定。


「お友達と喧嘩しちゃった?」

「……言いたくない」


 ため息をつきたくなった。なんだか今は根気強く希に向き合う気力もない。


「……おんぶ」


 希が俯きながら両手を伸ばしてくる。

 こんな時どうするのが正解かわからなくて、僕はしゃがみ込むと希を背負い、またとぼとぼと歩き出す。


 とりあえずその友達の家に謝罪しにいかないとだよな……。あ、菓子折りも持っていくべきなのか……?

 頭の中では、そんなことばかり考えていた。




 家に帰っても、希はじっと俯いたまま元気がない。いつもはテレビの前で一緒に歌って踊ってはしゃいでいる教育番組をつけてやっても、反応ひとつ示さない。

 そんな元気のない妹を気がかりに思いがらも、時間は待ってくれないので急いで夕食を準備する。

 昨日の鍋の残りを加熱し、豚肉の生姜焼きを作っていく。生姜焼きは何度か作ったことがあるので、スマホでレシピを見なくても作れるから楽だ。

 母さんの分を取り分け、そして僕たちの分を配膳しながら、希を呼び寄せる。


「希ー! 夕食だよー!」


 ソファーでうとうとしていたらしい希が、目をこすりながらやってくる。


「ほら、椅子座って」

「ん……」


 希を一旦椅子に座らせると、僕はまだ調理器具の後片付けがあったため洗い物をしながらキッチンの出窓から顔を出す。


「希、先食べてて!」


 けれど椅子に座った希は微動だにしない。いつものいただきますの声もなく、フォークを持つような素振りもない。


「希?」


 不思議に思った僕は、エプロンを外しながら希の元に近づく。そうして「どうした?」と希の顔を覗き込むと、希はきゅうっと下唇を噛みしめ、生姜焼きの乗ったお子様プレートを睨みつけていた。


「……やだ」

「ん?」

「ぱぱが作ったご飯がいい」

「え……?」


 ひんやりとしたナイフで心の輪郭をなぞられたような不快感。

 希の言葉が理解できなかった。それくらい衝撃的で、信じ難い言葉だった。

 これまでなんとかなんとか積み重ねてきたものが一瞬で崩れ落ちる感覚。プレートの上の生姜焼きが、ひどく憐れに見えた。

 せっかく作ったのに。勉強だってサッカーだって返上して、僕は毎日家事をしているのに。なんで……? なにが足りなかった? 僕じゃ、なんでだめだった……?


 呆然とする僕を前に、希がぐずりだす。


「やだ、やだ、ぱぱに会いたい!」


 その瞬間、張り詰めていたものがぷつんと音をたてて切れた。


「父さんは帰ってこないんだよ!」


 初めて希に対して大声を張り上げた。

 突然の怒声に希がびくんと肩を揺らす。僕を見上げる瞳にみるみるうちに恐怖が滲んでいき、それは涙の膜となって目を真っ赤に染め上げる。直後、大声をあげて泣き始めた。


「うわあああん」

「泣きたいのはこっちだよ!」


 僕は頭を抱え、それからまた怒鳴っていた。

 僕だって父さんに会いたい。でも僕は、悲しむ間さえもらえなかった。


 希なんていなきゃよかったのに。

 希がいなければ、僕は今頃サッカーを続けられていた。この幼い妹のために、僕は自分の夢を諦めざるを得なかったのだ。

 ……希さえ、いなければ。


 このまま希の泣き声を聞いていたら頭がおかしくなりそうで、リビングを離れようとした時、廊下に置いてある家の電話が鳴った。

 こんな時に……。無視しようと思ったのに、電話は一向に止まる気配がない。ため息を吐きたくなるのをこらえ、鳴り響く電話に出る。


「もしもし」


 電話の向こうから返ってきたのは、女性の声だった。


『もしもし……』

「どなたですか?」

『私、楠と申します。えっと、希ちゃんと仲良くさせてもらっているリリの母なんですが……』

「ああ、楠さん……」

『希ちゃんのお兄様ですよね? 実は今日うちのリリが希ちゃんと喧嘩をしたらしくて』


 楠さんの声に、ひゅんっと背筋が伸びる。

 こっちからお詫びに行こうと思っていたのに、まさか電話で突撃されるなんて。怒鳴られるのを覚悟し、目の前に相手がいないにも関わらず深々と頭を下げる。


「すいません。希がリリちゃんを突き飛ばしてしまったらしくて……」

『違うんです』

「え?」


 僕を遮った否定の声に、僕は少し上体を起こして固まり、続く楠さんの言葉を待つ。


『リリが希ちゃんに言ったらしいんです。希ちゃんの家はお兄ちゃんが送り迎えしてて変だって』

「え……」

『それが原因なんです。だから希ちゃんはなにも悪くないんです。謝るのはこちらの方なんです』


 ……知らなかった。そんな理由があったなんて。

 希は希なりに、闘っていたのだ。

 それなのに僕は希のことをわかってあげようとしただろうか。最初から希が悪いと決めつけて、話をちゃんと聞こうともしなかった。


『とてもいいお兄さんなんですね。希ちゃん、園で会うと私にもよく話してくれるんですよ。私のお兄ちゃんはかっこいいんだよって』

「……」


 込み上げてくる思いに喉が詰まって、声が出なかった。

 希がそんなふうに思っていてくれたなんて。僕はこんなにだめだめな兄なのに。


「――はい、ではまた。今後もよろしくお願いします」


 電話を切る。と、途端に静寂と共に自責の念に飲み込まれ、僕は天井を仰いだ。

 ……最低だ、僕。なにも知らずに、まだ5歳の希に当たってしまった。希を傷つけてしまった。


 その時ふとリビングの方から聞こえていた泣き声が、いつの間にか聞こえなくなっていることに気づいた。


「希……?」


 不審に思いながらリビングに戻る。……と、僕は目を見開き、思わず駆け出していた。

 テーブルにぐったりと上体を倒す希の姿がそこにあったからだ。

 

「希!」


 希を抱き起こすけれど、希は目を瞑り苦しそうに荒い息を繰り返すだけ。

 体が熱い。熱があるのかもしれない。


 心臓が嫌な音をたてて暴れだす。希は丈夫な子だったから、こんなことは父さんがいなくなってから初めてだ。

 つらそうな希の顔を見ていると、不安がこみ上げ食道のあたりが気持ち悪くなる。

 ……どうしよう、どうしよう。希にもしものことがあったらどうしよう。

 いてもたってもいられず、バッグを肩に引っ掛けると、希を抱きかかえたまま家を飛び出していた。


 すっかり暗くなった夜道を、僕は希を抱きかかえて走る。

 時折車が行き交うけれど、当たり前のようにみんな見知らぬ顔をして通り過ぎていく。


「ごめん、ごめん……」


 ぐるぐる頭を巡るのは後悔の念だ。

 僕が希を怒鳴ったせいだ。僕が希の体の異変に気づかなかったせいだ。僕のせいでこうなったんだ。そんな強迫観念に囚われ、まるで真綿で首を絞められているかのように窒息しそうになる。

 混乱しているせいで、正常な判断をする頭のどこかの機能が停止していた。

 ただただ妹を助けなきゃ、その一心で、かかりつけの病院へと夜道を走る。希の重さで腕が麻痺してきても、サンダルが脱げそうになり転びかけても、僕はひたすら一心不乱に走り続けた。


 その時だった。


「灯くん……!」


 なんで君の声だけは、僕の意識を掴むのだろう。それはまるで真っ暗なトンネルの中に一筋差し込む光のようだった。


「宵……」


 立ち止まり、振り返れば、宵がこちらに駆け寄ってくるところだった。


「どうしてここに……」

「希ちゃん、大丈夫……!?」


 目の前に宵がいる。僕はひとりじゃなかった。それだけで心を締めつけていた緊張の鎖が解けて、思わず泣きそうになる。


「熱出して、倒れて、どうしていいかわからなくて……」

「病院に行こう。もうすぐそこだから」


 宵が震える僕の手に、手を重ねる。そして強い眼差しで、ぐらぐら揺れていた僕の弱い心を受け止めた。


「大丈夫。私がついてるから」






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