第四章

(1)




「やべー。この間の模試、そろそろ却ってくるよな」

「たしかに」


 朝のSHR終わりの休み時間。

 イチと軽口を叩き合いながら、トイレに向かって廊下を歩いていた時のこと。


「佐々木」


 背後から声がかかり、振り返るとそこには担任が立っていた。


「ちょっといいか」


 深刻そうな担任の声に、イチが僕にこそっと耳打ちしてくる。


「なんかやらかしたん?」

「いや……」


 口ごもりながら、けれど心当たりはあった。


「悪いけど先にトイレ行っててくれる?」

「んー。頑張れ」


 イチを見送り、僕は担任の方に歩み寄る。

 担任の手に持っている紙が目に入り、心の中で嘆息する。……やはりか。

 担任の手にあるのは、さっき提出したばかりの進路希望調査票だった。


「はい。なんですか?」


 わかっていながら、白々しくもわかっていないふりをして話を促す。


「いや、ごめんな、呼び止めて。ちょっとな、佐々木に聞きたいことがあってな」


 40代後半の男性教師はすこし苦みのある笑みを浮かべ、進路希望調査票を差し出してきた。


「なんで就職を選んだ? 佐々木なら大学を目指せるだろう」


 担任の言葉は、想定通りだった。

 この高校は県内有数の進学校であるため大学進学を希望する生徒しかいないし、先生たちも大学進学に向けて指導をおこなう。そのため進路希望調査票には最初から進学しか想定していないというように、第一志望学校、第二志望学校、第三志望学校と枠が設けられている。


 そして僕はその進路希望調査票の第一志望学校の枠に、就職とだけ書いた。

 どうせ呼び出されるだろうなということは薄々わかっていたけれど、そうとしか書きようがなかった。高校を卒業したら、僕だって仕事をして金を稼がなければいけない。家族を守るために僕に残された選択肢はひとつなのだ。


 行き交う生徒たちの視線をちらちら感じながら、僕は平静な声で答えた。


「大学には行きません」

「どうして……。いや、就職しなきゃいけない理由があるなら仕方ないが……親御さんとはちゃんと話し合ったのか?」


 穏やかな声音で、けれど的確に担任に問い詰められ、僕は言葉を詰まらせる。


 いつまでも心を囚えて離さない、子どもじみた夢はいい加減手放さなければいけない。好きという気持ちだけでは、現実はままならないことを知ったのだ。……もう僕は大人だから。


 するとその時、背後から声がかかった。


「お、佐々木じゃないか」


 ……ああ、さらに最悪な展開だ。崖っぷちに追い込まれるような感覚。

 振り返った先にいたのは、サッカー部の顧問である若い体育教師だった。出席簿の角で肩を叩きながら僕の方に歩いてくる。


「どうしたんですか。佐々木が呼び出しなんて珍しい」


 顧問の問いに、担任がぽりぽり頬を掻きながら苦笑する。


「いや、進路希望調査票にね、就職って書かれたもんだからどうしたのかと……」

「え、就職?」


 顧問が目を丸くする。そして僕の方にずかずか歩み寄ってきたかと思えば、片手で俺の肩を掴んできて大きく揺さぶる。


「サッカーはもう本当にあきらめるのか? もったいないよ、佐々木。あんなにサッカーを愛していたじゃない!」


 部活を辞めてからも、この熱心な顧問は僕に再三、もう一度サッカー部に戻らないかと根気強く声をかけてきた。

 僕だってできるものならサッカーを続けたかった。今だって夢に見るほどには、サッカーができる日々を渇望している。でも仕方ないじゃないか。僕にはその資格が与えられなかったのだから。


 でも担任や顧問に現状を訴えたところで、その大人が今の生活を助けてくれるわけではない。なにかが変わるわけでもない。


「いいんです」


 自分の顔に笑みが浮かんでいることに気づいたのは、数秒経ってからだった。

 多分僕は、平気じゃないくせに、本心を押し殺すことが得意すぎたのだと思う。






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