交差点の向こう側

荒晴/衣川鈴瑚

交差点の向こう側


 佐藤悠人は、スマートフォンの画面に表示された着信履歴を、もう何度目か分からないほど見つめていた。表示されているのは、たった一つの名前。


「美咲」


 妹からの電話だった。それも、この数年まともに会話もしていない、疎遠になっているはずの妹から。着信は三度。留守電メッセージも二件入っていた。無視した。いや、正確には、無視せざざるを得なかった。今、自分は仕事の真っ只中だ。大切なプレゼンを控えている。家族のゴタゴタに構っている暇などない。


 悠人は、都心の高層ビルが立ち並ぶオフィス街のど真ん中にいた。彼が勤める大手広告代理店は、常に最先端のトレンドを追いかけ、競争の激しい業界でトップを走り続けている。悠人自身も、入社以来、寝る間も惜しんで働き、ようやく掴んだチームリーダーの座だった。


「佐藤さん、資料の最終チェック、お願いします!」


 部下の声に、悠人はハッと我に返った。携帯をポケットにしまい、何事もなかったかのように平静を装う。

「ああ、すぐ行く」


 彼は完璧主義者だった。仕事においては一切の妥協を許さず、常に最高の成果を追求した。それが、彼がこの場所で生き抜くための唯一の術だと信じていたからだ。私生活を犠牲にすることも厭わなかった。家族との関係が希薄になったのも、そのせいだと分かっていた。だが、後悔はなかった。少なくとも、これまでは。


 プレゼンは無事に成功した。クライアントからの評価も上々で、チームのメンバーは安堵の息を漏らし、互いの健闘を称え合った。悠人も、ようやく肩の力が抜けるのを感じた。


 その日の夜、自宅マンションに帰り着くと、疲労がどっと押し寄せた。シャワーを浴び、コンビニで買ってきた弁当を温める。一人きりの食卓は、いつもと変わらない静けさだった。


 食事が終わり、ふと携帯に目をやると、また美咲からの着信が入っていた。今度は五度。そして、新たな留守電メッセージ。


「……ったく、しつこい奴だな」


 悠人はそう呟きながらも、なぜかメッセージを聞くボタンを押していた。スピーカーから流れてきたのは、焦燥と不安に満ちた美咲の声だった。


『兄さん、お願い、電話に出て!お母さんが……お母さんが倒れたの。今、病院にいる。早く、来て……!』


 その言葉を聞いた瞬間、悠人の手から携帯が滑り落ちた。ガシャン、と鈍い音が部屋に響く。

 母が、倒れた?

 頭の中が真っ白になった。仕事の成功も、日々の疲労も、すべてが遠いものに感じられた。


 悠人は、床に落ちた携帯を拾い上げ、震える指で美咲に電話をかけ直した。何度かコール音が鳴り、ようやく繋がった。


「美咲……母さんが、どうしたんだ?」


 声が震えていることに、悠人自身が驚いた。平静を装う仮面が、一瞬にして剥がれ落ちていく。


『兄さん……!』


 電話の向こうで、美咲が泣き崩れる声が聞こえた。その声を聞いた途端、悠人の脳裏に、幼い頃の家族の記憶が鮮明に蘇った。賑やかだった食卓。優しい母の笑顔。そして、いつも自分の後ろをちょこちょこついてきていた、小さな美咲の姿。


 長い間、目を背けてきたものが、一気に押し寄せてくる。

 悠人は、ただ一言、絞り出すように言った。


「……今から、そっちへ行く」


 都会の喧騒から離れ、故郷へ向かう夜行バスの中、悠人は窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。高速道路の照明が、まるで過去の走馬灯のように、次々と目の前を通り過ぎていく。


 彼は、自分が何から逃げていたのか、ようやく理解し始めていた。成功という名の仮面の下に隠していた、家族への罪悪感。そして、何よりも、自分の弱さから。


 バスが、見慣れたインターチェンジを降りる。故郷の空気が、どこか懐かしく、そして重く感じられた。

 彼は今、人生の大きな交差点に立っている。

 この交差点の向こう側には、何が待っているのだろうか。

 彼はまだ知らない。だが、立ち止まることは、もうできなかった。

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交差点の向こう側 荒晴/衣川鈴瑚 @koromogawa

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