第1章:眠れぬ都市

 午前四時。

 街は眠っていなかった。ただ、眠った“ふり”をしているだけだった。

 どのビルの窓も真っ暗で、誰もいない道路には霧が横たわっている。

 だけど俺にはわかる。

 この街はまだ目を開けている。息を殺して、こちらを見ている。


 今夜も眠れなかった。

 いや、いつから眠っていないのか、思い出せない。

 時間は折りたたまれた新聞のように、角が破れていて、順序がわからない。

 昨日のことが十年前のようで、十年前のことが、ついさっきのように感じる。


 窓際に座って、冷えたウイスキーを口に運んだ。

 喉が焼ける感覚が、唯一“現実”と呼べるものだった。

 カラスが鳴いているような気がした。けど、音じゃない。

 脳の奥、皮膚の裏、目の裏側——

 そこで、何かがかすかに囁いていた。


 俺の名前を、ゆっくりと、裂くように。


 ジョナサン……


 新聞が床に落ちた。昨日のままの一面。

 「三件目の惨殺死体 喉を裂かれ、内臓を摘出」

 被害者の名はアーロン・マーチン。

 上層階の高級マンションで、血の中に沈んでいたらしい。

 警察は“野生動物による襲撃”の可能性を排除していないと発表。

 笑わせる。ここは都会のど真ん中だ。

 動物なんていない。


 ——俺を除いては。


 なぜそんなことを思ったのか、自分でもわからなかった。

 けれど、喉が異様に渇いていた。

 ウイスキーでは潤せない種類の渇きだった。

 肉が……いや、鉄の匂いが、鼻にまとわりつく。


 机の上の封筒に気づいたのは、そのときだった。

 いつ届いたのか覚えがない。

 差出人も記されていない。

 中には、白黒の写真と、一枚のメモ。


 写真には、マーチンの死体。

 口を裂かれ、顔は見えなくなっていた。

 腹が開かれ、そこに何か文字が書かれていた。


 J.C.


 俺のイニシャルだった。

 まるで獣の爪で書いたような、血のインク。


 メモには、たった一文。


 ——「次はお前の番だ、クロウ探偵」


 脅しではなかった。

 呼びかけだった。


 ふと視界の端で動くものを感じて、窓の外を見た。

 通りの向こう。

 黒いコートの男がこちらを見ていた。

 背が高く、髪は濡れて肩まで流れていた。

 顔はよく見えなかった。ただ、あれが誰かはわかっていた。


 ナイト。

 あの夜の“俺”。

 あるいは、これからの“俺”。


 瞬きのあいだに、姿は消えていた。

 だが、あの目だけは焼きついて離れなかった。


 俺は部屋の奥へ戻り、洗面所の鏡を覗き込んだ。

 見慣れた自分の顔。

 だが、その奥に、もう一つの顔が揺れていた。


 狼のような、夜のような、血に濡れた顔。


 それが、微笑んだ気がした。

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