第31話 折れても、強くあれ

 季節はすでに春を迎えていたが、ここ数日はさらに暖かく、風にもやわらかな陽気が混じりはじめていた。

 朝の陽射しはやや強く、土の匂いに春の湿り気を感じる。


「よし、やるか」


 稲夫は本田の脇を流れる水路から水を引き入れる。

 すると、明確に高低差があらわになった。

 苗代よりも広い分、わずかな傾きがはっきりと浮き出ていた。


「こりゃ、見た目より厄介だな」


 鍬で泥を掬い、足で踏み固め、また掬ってはならす。

 少しでも高い場所を削り、低いところに土を寄せていく。

 どこまでも地味な作業だが、これを怠れば、あとで水が偏り稲がまともに育たない。


 陽は高くなり、汗が首筋を伝い落ちる頃、後ろから、柔らかな声がかかった。


「お疲れ様です。稲夫様」


 振り向くと、白衣の裾をたくし上げたミズキが立っていた。

 薄く汗を浮かべた頬が陽光を受け、わずかに赤みを帯びている。


「よろしければ、苗代の状態を確認していただけますか?」


「ああ、すぐ行く」


 稲夫は鍬を置き、水路を渡って苗代へ向かう。

 整えられた苗代は穏やかで、水が浅く張られた。水の下では、小指ほどの長さまで成長した稲がまっすぐに立っていた。


「水位は丁度いいな。今後もしばらくは浅く水を張ってくれ」


「よかった……」


 ミズキが胸を撫で下ろし、稲の葉先をそっと指を滑らせた。

 その仕草には、まるで子をあやすような優しさがある。


 だが、稲夫はふと違和感を覚えた。

 ミズキの細い指先に映える稲の茎――それが、細長く節の間が妙に間延びして見えた。


「これは、徒長(とちょう)かもしれない」


「徒長……とは一体?」


 ミズキが不安げに首をかしげる。


「簡単に言うと、茎ばかり伸びて長細くなる現象だ。茎が細く根も浅いから、雨風で倒れやすくなる……最悪、稲が駄目になる」


 説明を聞いたミズキの表情が青ざめる。


「そんな……私の育て方が、悪かったのでしょうか?」


 肩を落とし、視線が稲へと落ちる。

 稲夫は慌てて首を振った。


「いや、違う。水の管理は完璧だった。ミズキのせいじゃない」


 そう言いながら、稲夫はしゃがみ込み稲をまじまじと観察する。


(細いけど、弱ってはいない。日当たりも悪くないし、土が栄養過多ってこともないだろう。じゃあ何が――)


「どうして……こうなってしまったのでしょうか?ここ最近、暖かくなって稲がよく育っていると思っていたのに……」


 その言葉に、稲夫ははっとした。


「それだ」


「え?」


「ここ最近、急に暖かくなったろ?それまで気温が低くて成長が抑えられてた稲が、一気に伸びちまったんだ。それで根より茎ばかり成長したんだ」


 ミズキは目を見開く。


「この暖かさが原因……ですが、どうすれば……」


「こういう時は――こうする」


 稲夫は苗代に生えている稲を手の平を被せて、そのまま軽く押し倒した。

 ぐわしゃ、と茎が途中で折れ曲がる。


「い、稲夫様!?何をなさるのですか!?」


 ミズキが驚き、青ざめた顔で叫んだ。

 だが、稲夫は落ち着いた声で答える。


「押苗(おしなえ)って言ってな。こうやって軽く押して、茎の伸びを抑えるんだ。折れた茎は時間をかけて自力で起き上がる。その間に根が強く張って、茎も太く成長する」


「本当に大丈夫なのでしょうか?枯れてしまったりしないのですか?」


 ミズキは半泣きの顔で不安そうに稲を見つめる。


「大丈夫だよ。五日もすりゃ折れた部分も真っすぐ戻るさ」


 ミズキは小さくうなずいたが、それでも不安そうな表情は消えなかった。


 ――それから五日後。


「本当に、元に戻ってます!」


 ミズキの声が弾んだ。

 押し倒した苗はすべて立ち上がり、前よりも茎が太く、葉の色も濃く成長していた。


「だから言っただろ?大丈夫だって」


 この五日間、ミズキが心配で何度も何度も苗代を見に来ていた。

 稲夫はその度に「大丈夫、心配しすぎだ」と笑っていた。


 ——だが。


(良かった!ちゃんと成長してくれて、本当に良かった!!)


 実際いちばん気が気じゃなかったのは、稲夫だった。


(あぶねぇ。もし押苗が原因で枯れてたら、俺の命がなかった……)


 稲夫はほっと息をつき、腰を伸ばした。心の底から安堵が込み上げてくる。


 ふと——ミズキが表情を曇らせ、消え入りそうな小さな声で話す。


「やはり、私では稲を育てることはできないのでしょうか……?」


 ミズキが自分を責めているのが伝わる。

 稲夫は泥のついた手を振って、首を振った。


「そんなことはない。水の管理も、草抜きも、ミズキがやってくれるおかげで俺は本田作りに専念できる」


「……そう、でしょうか?」


「そうだ。ミズキの支えがあるから、こうして稲も育ってる。本当に感謝してるよ」


 ミズキが不安そうに稲夫を見上げた。その瞳は揺れ動き、罪悪感と迷いが宿っていた。


「たとえうまくいかない時があっても、そのたびに少しずつ強くなれる。これからも頼むぞ、ミズキ」


 短い沈黙の後、ミズキは微笑みまっすぐに頷いた。


「……はい。これからも、がんばります」


 春の風がふたりの間を抜け、苗代の水面を静かに揺らした。

 苗代に逞しく育った稲は、まるでそれに応えるように、まっすぐ空を向いていた。

――――

※徒長(とちょう)とは、茎ばかりが細く長く伸びてしまう現象のことです。

また、根も浅く、雨風で倒れやすくなってしまいます。

主な原因として日照不足、水分過多、肥料過多(窒素)があります。

また、冷えで根が育たぬまま、急に暖かくなって地上部だけが伸びすぎた事により徒長が誘発される場合もあります。

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