第22話 森の牙
拠点の端から、白い煙がゆらゆらと空へ昇っていた。
「……あれは」
稲夫は煙の出元へ行くと、土と石を積み上げた簡易の窯に、アキとヒナタが火をくべていた。
窯の口からは赤い炎とともに、土器らしき形がちらりと見える。
「おはようございます、アキさん。土器を焼いていたんですね」
「おはようございます。乾かしておいた器を試しに焼いてみてるんです」
窯の中では、薪がぱちぱちと弾け、赤々とした火が土器の表面をなめていた。薪を継ぎ足すたびに炎は勢いを増し、赤い渦となってゆらめく。
「薪が心もとないね……ヒナタ、悪いけど薪がもう少し欲しい。拾ってきてくれないかしら?」
「うん、わかった!」
ヒナタは胸を張って返事をすると、駆け足で森へ向かった。
※※※
森は昨夜の雨をたっぷり抱き込み、土はやわらかく、落ち葉はしっとりと湿っていた。 足を踏み入れるたび、足の裏にぺたりと湿りがつく。
「うーん……ぜんぶ濡れてる」
小枝は折れば『ぽきっ』ではなく『くにゃ』と曲がるだけ。どれも薪には適さない物ばかりだった。
「もうちょっと奥まで行ってみようかな」
ヒナタは普段立ち入らない森の奥へ足を延ばした。
斜面の下は水気がたまっている為避けて少し高い位置の木の下を選んで歩く。
幹に寄り添う枝は雨を避け、乾きが早い。薪拾いのたびに、お母さんが口にしていた言葉だった。
そうして選り分けていくうちに、両手いっぱいに薪が集まった。
「これだけあれば足りるよね」
十分に薪を集め、拠点に戻ろうとした時だった。
草むらの奥から、湿った土を踏みしめる重い音がした。
振り返った瞬間、灰色の毛並みとぎらつく瞳が視界いっぱいに迫る。
――狼だった。
「グルルルルル……」
「……っ!?」
息が喉に詰まり、声にならない。
足が勝手に後ずさりし、背中が湿った幹にぶつかった。
唸り声が胸の奥まで響き、耳が熱くなるほどの恐怖が押し寄せる。
「やっ……いや……!」
集めた薪を盾のように前に構える。手は小刻みに震え、薪同士がこすれカタカタと鳴る。
「た、たすけ……!」
声はかすれ、唇は乾ききって動かない。
狼は地を擦るように歩を進め、喉の奥から唸りが響く。その口元で覗く牙が、ぎらりと光を弾いた。
その時――草むらを裂いて、一つの影が飛び込んできた。
「ゔぁあああ!」
少年だった。
腰まで伸びた黒髪を振り乱し、四つん這いに近い姿勢で狼に飛び掛かった。
そして、手に持った鋭利な骨片で、狼の目を突き裂いた。
「ギャウッ!」
獣は絶叫し、血を滴らせながら暴れる。その隙を逃さず、少年は獣の首筋にのしかかり、狼を骨片で何度も突き立てた。
ズブッ、ズブッ――。
必死に抉るたび、赤黒い飛沫が少年の顔を濡らす。
だが、傷を負った狼の力はなお強かった。鋭い爪が横薙ぎに振るわれ、少年の体を容赦なく弾き飛ばす。
「あぐっ……!」
地面に転がった少年が身を起こすより早く、狼はよろめきながらも立ち上がった。
片目から血を垂らし、喉や肩に深い傷を負いながら、それでも獣は鋭い唸りを残して森の奥へ駆け去って行った。
風が葉をゆらし、血の匂いだけが辺りに濃く残った。
「あ、あなたは……」
ヒナタは恐怖で声が上ずりながらも、少年に声をかける。
少年は、衣類も身にまとわず、まるで人ではなく獣そのものの動きで近寄ってきた。
「うー?」
少年は赤い飛沫に濡れたその顔で、ペタペタと顔や腕に触れてくる。
「ひっ……!」
ヒナタは震え上がり、肩をすくめ、恐怖でぎゅっと目を瞑る。
「く、くく……!」
ところが少年は、そんなヒナタを見て小さく笑った。
それは人をあざけるような笑いではなく、ただ面白がっているような、子供が悪戯を成功させた時の笑みだった。
「な、なに笑ってるの!」
怖さが頂点に達した反動で、ヒナタは思わず声を張り上げた。頬を赤らめて、むっと睨み返す。
「ゔぅ?ゔうぁ?」
けれど少年は意に介さず、ヒナタを興味深そうにあちこちを見て回る。その視線に殺気も敵意も感じられない。
「た、助けて……くれたの……?」
ヒナタが恐る恐る問いかけると、少年は「ゔぁうあう?」とつぶやき小さく首をかしげた。
その仕草に、ヒナタの胸の奥で詰めていた息が零れ落ち、じわりと緊張が解けていく。
「助かったんだ……」
その実感がようやく胸に広がる。
ふと腕に温かいものが垂れてくる。
——血だった。
視線をやると、少年の腕に赤黒い傷跡が走っていた。
そこから滴った血が、ヒナタの腕に落ちていた。
「け、怪我してる……!」
焦って周りを見回したヒナタの視線は、自分の膝にとまった。
そこには、転んで擦りむいた時に巫女様に付けてもらった傷当て(幅広の葉にヨモギをすりつぶしたものを当て、蔦で巻いた物)があった。
ヒナタはぐっと歯を食いしばり、それを自分の膝から外した。
じんわり沁みていた痛みが、途端にむき出しになる。
「これ、あげるから、じっとしててね」
そう言って、まだ温もりの残る葉と蔦を少年の傷口に当て、ぎこちない手つきで巻き付けた。
血がじわりとにじみ出していたが、不思議と赤みが落ち着いていく。
「うあ?」
ヨモギの青臭い匂いが漂い、少年は腕を見下ろして目を瞬いた。
痛みがほんの少し和らいだのを、初めての経験のように首をかしげている。
その反応を見て、ヒナタは胸をなで下ろし微笑む。
「ちょっとは、楽になった?」
返事はない。少年は小さく息を吐く。
しかし次の瞬間、少年はヒナタの手をつかんで森の奥へと引っ張っていった。
「えっ、な、なに!?どこ行くの!?」
転びそうになりながらついて行くと、やがて開けた場所に出た。
そこには、先ほどの狼よりも二回りほど大きな灰色の狼が、どっしりと横たわっていた。
「ハァッ……ハァッ……」
全身に無数の傷跡を刻み、荒い呼吸を繰り返している。
「ひっ……!」
ヒナタの喉から小さな悲鳴が漏れる。体が固まって足がすくむ。
けれど少年はヒナタの手を引き、そのまま狼の側まで進む。
「う!ゔぁ!」
少年は先ほど自分の腕に巻かれていた傷当てを乱暴に剥ぎ取り、それを狼の胸の傷に押し当てた。
「ぅー、うぁ……」
そして、少年はヒナタを見つめる。
ヒナタには少年が何を言っているのか分からないが、その視線が訴えていることは分かった。
(……手当、してほしいのかな……)
ヒナタは息を呑む。確かに少年の視線は必死だ。けれど――。
「で、でも……無理だよ。やり方なんて知らないよ……」
情けない声が自然と漏れる。
傷の手当をしてくれるのは、いつも巫女様だった。自分でやったことなんて一度もない。
「ハ……ハァ……」
狼の荒い息づかいが耳に迫る。大きな体に、無数の傷跡。自分の手でどうにかできるなんて思えない。
困惑するヒナタを、少年は黙って見つめ続けていた。
頼るように。訴えるように。
その真剣さに、ヒナタの胸がぎゅっと締めつけられる。
「……わ、わかった。やってみるから……ちょっと、待っててね」
ヒナタはそう言って、足早にその場を後にした。
頼りない声に反して、背中は不思議とまっすぐだった。
(怖いけど……あの子が助けてくれたんだもん。今度は、わたしの番だ)
そう心の中でつぶやくと、ヒナタは息を吸い込み、駆け足で拠点の方へ向かった。
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