ー夢枕ー

八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)

ー 悪夢と今とその先に…… ー

 早朝の薄暗い一室、そのドアノブに縄が掛かっていた。

 畳の上に敷かれた布団は二つ、一つは大きくて、一つは小さい。

 窓辺から漆黒グラデーションがゆっくりと時間をかけるように遠ざけられてゆく。

 二人の人影があった。

 パジャマ姿の子供が、縄に首を掛けた人影を見上げては、呆然と、ただ呆然と、捉えている。

 私は窓を背にしたその姿を、真後ろから眺めて、呆然とそこに立っていた。

 部屋には洞窟のひんやりとした感触が満ち、身の毛がよだつほどの薄ら寒さに背筋を震わせて、両手で我が身を抱きしめる。

 貌のない子供が振り返った。

 のっぺりとしたそこに何かを伺い知ることはできない。

 いつもの一言が響く。


『お前のせいだ』


 鮮血のように赤い口が開き、そう、呟く。

 壊れたテープレコーダーで再生されたような声が、幾度となくリピートしてゆく、

 私は身じろぎ一つできず、束ねられた神経が、ぷつり、ぷつり、とその一言で途切れてゆき、やがて、最後の一本と共に気を失う。


 もう何年と、私を苛み続けている、悪夢だった。


 やがて目を覚ます。

 エアコンを入れているのに、ぬめりを帯びた酷い空気が、部屋に満ちていた。

 時計は午前三時を刻み、振り子時計の人形たちが音を出さずに動いている。

 木こり人形が大木に斧を穿つ、重たい一撃で木が身震いをして、そして傾いてゆき、やがて大木は倒れて時を告げるのだ。仕事を終えた木こりたちが全てを忘れて人形へと戻りゆけば、大木も元に戻り、再び切り倒されるのを待つ。

 倒される木はきっと私なのだろう、幾度も捨ててしまおうと思ったのに、結局、それをすることはできないでいる。あの楽しかった日々の、残照のような温かさを秘めているためだ。


 きっと失えば後悔する、その残照に縋ることで、私は生きているのだから。


 ベッドからシャワールームへと向かい、そこで重たいほどに汗を吸ったパジャマを脱ぐ、べっとりと肌に張り付いた生皮を剝ぐように脱ぎ落とせば、フローリングの足元にぽたぽたと雫が垂れた。

 洗面台の鏡に映るのは、みすぼらしく痩せ衰えた貧相な体だ。

 柳の枝のような色の悪い細腕、張りを失った乳房、皮が弛んだ腰、そして、小皺の増えた貌、二人が褒めてくれた流れるような黒髪は、指櫛のなぞりに悲鳴を上げる。

 こんな私を好いてくれる人も確かにいた、けれど、年齢を問われる度に、聞いた相手は驚き、そして去っていった。

 浴室でシャワーを頭から滝行のように浴び、鏡で自らと視線を合わせては、語らぬ問を繰り返してゆく。


 何が正しいのか、何が正しくないのか、答えの見つからぬ問の採点は毎回、毎回、0点だった。


 身の一切を清めて、水の張られた浴槽に我が身を落とした。

 穢れを清めるように、夏でも冬でも、冷水に身を浸して悪夢を打ち払うのだ。

 鳥肌がたち、心臓が早鐘を打つ、身に宿す熱は水へ溶けゆき、ぼんやりとしながら天井を見上げる。

 浴室の清掃は行き届いていて、天井の白さが眩しい。思わず目を晒してしまうほどに純白で綺麗だ。


 いつものように瞼を閉じて過去を思う。


 若かりし頃の幸せな過ち、高校二年生であった私の罪は、妻に先立たれた担任教諭との秘密の関係だった。

 これといった特徴のない、平凡な男だった。

 出会いもロマンチックからほど遠く、日曜日の図書館で勉強をしていた私の椅子に三歳の子供がぶつかった。

 床に倒れこんでしまったその子を慌てて抱き起すと、やがて、探していた担任が現れた。妻に先立たれて男手一つで幼子を育てる姿は、それから幾度となく図書館で出会う度に、父性の強さ優しさと子供の無邪気さが、心の寂しさを癒すまでに、そう時をかけることもない。

 母性のような好意を抱いて子供と手を繋ぎでは絵本の読み聞かせや公園で遊び、異性への好意を抱いて担任から彼になった男と過ごしてゆく。

 とても満ち足りた、とても幸せな日々。

 勉強だけで暮らしてきた私の日々を蜜で包んで、琥珀色の刻で癒してくれる。

 最初は見つからぬ遠くで、二人の関係を悟られぬように過ごし、子供の寝静まった夜に肌を合わせては、二つのぬくもりに満たされる。

 私の両親は多忙故に、問題を起こさぬ娘に安心しきって、私は時間なんて幾らでも作ることができた。病気になった彼を見舞い、子供の世話をするまでの、あたりを伺いながらの大胆ささえも身につけて、この時間がずっと続いていくのだと、疑うことすらせずにいた。


 ぽたりと天井から水滴が、ぽちゃんと音を立てて浴槽の水面を叩く。まるで浸るのを許さぬように、水面と心をざわめかせてゆく。


 三年生の秋、その満ち足りた関係は突然に終わりを迎え、そして、三人の大切な時間は永久にその歩みを止めることとなった。

 遠方に止まった旅館で、偶然に母が私を見つけた、多忙であった母は、その合間合間に父以外の男と逢瀬を重ねていて、驚くことにばったりと鉢合わせをしたのだ。


 母は私に平手打ちをし、私は母を罵る。


 母の不倫と私の純愛を汚されるのだけは許せなかった。


 母の裏切りも、娘の不祥事も、父はさほど気に留めることもなく、最初で最後の家族会議で、母から差し出された離婚届に流れるようなサインを記し、家を出て行った。


 私が純愛と頑なに信じたそれは、世間一般での不道徳となり、蛙の子は蛙となって世間はそれを嘲笑う。


 それが不倫か不倫でないか、人々の物差しはその程度のものだった。


 私は彼の声と姿を失って、二か月の停学処分が終わりを迎える頃、早朝に届いた謝罪のメッセージで焦燥感に駆られ、居ても立っても居られなくなり、虚無の家を飛び出して、彼の元へと息継ぎも忘れて走った。

 数か月ぶりの玄関を隠し通した鍵で開くと懐かしい香りが鼻を擽った。その空気はどこか冷めているような感触を帯びて背筋を凍らせる。靴のまま寝室へと駆け込むと、広がっていた取り返しのつかない悪夢に、私は蝕まれ続けている。


 再び、ぽちゃんと水滴が落ちて、私の体を𠮟りつけるように冷たく叩く。


 その冷たさに深い底にまで落ち込んでいた思考を浮かび上がらせてゆく、それと共に浴室の扉が開かれた。視線を向ければ、成長してあの頃の私のような若さを伴った肉体がそそり立ち、私を一瞥するとシャワーを浴びてゆく。


「また、みたのか?」


 そう短く問われた。


「うん」


 短く答え、男の手が浴槽の水に触れて、その冷たさに驚き引っ込めると、深いため息が吐き出されて、身を清める所作がほんの少しだけ早まってゆく。

 いつぞやの柔らかな声は、成長と共に、のどぼとけの高さと共に、男となっていた。彼が顧問も務めていた柔道部で鍛え上げられた肉体は瑞々しく輝き、意思が込められているように強固だ。

 何事にも負けはしないと、沈黙で語るその背に、甘えて可愛らしかった面影は失われて久しい。

 日課である早朝のバイトを終えて帰宅した男は、手短に浴室内での決まりを終え、たくましい両腕と手が浴槽に沈んで冷やされていた我が身を軽々と支え上げるのに、逆らうことなく委ねて水を滴らせながら、私はゆっくりと洗い場へと出て、そのまま男が座った上に腰を下ろしてゆく。内と外から肌を合わせれば、血潮の熱が冷えた芯までを、じんわりと熱で満たしてゆく。

 私はそれに縋り、男もそれに縋る。

 互いに声はない、唇を合わせて、表情を見つめ合って、やがて、男の温かさを我が身で最後の最後まで受け止めるのだ。


「冷やしすぎだろ」

「ごめんなさい」


 達した後も離れることなく私達は抱き合ったまま、温水のシャワーと共に背を優しく摩ってくれる男の手に甘えて、私はそのぬくもりを求めるように、さらに身を預けてゆくのだ。


 悪夢の中の子供は成長して、数か月前、私の前に姿を現した。


 フリーターとなり新しい家族になじめない私が家を出てから、どれほどの月日が過ぎたのか、三年ほど勤めているコンビニのバイト、そのレジでのことだ。

 煙草を一つと声を掛けられ、そして、互いの視線が交差したときには、もう、互いが互いの関係を理解した。そう、風が吹いて草花が揺れるみたいに、私たちはその風を浴びたのだ。

 合わせる顔などないというのに、男からの「父の話を聞きたい」との申し出を断ることはできず、待ち合わせたファミリーレストランで、私達は会い、そして、数十年ぶりに、私の知っている彼のすべてを男に誠心誠意に包み隠さずに聞かせた。


 そして、詫びた。


 心の底から詫びた。


 それが男を傷つけることになるなどと考えることなく、私は身勝手に詫びたのだ。お金でもなんでも、と対価までを口にしたところで、無表情だった男が強固な言葉を口にした。


「お前をすべて寄越せ」


 その日のうちに私はすべてを差し出し、男はそのすべてを受け取った。

 以来、私は彼と傍らで起き、彼と傍らで眠る。


「あがって一緒に眠ろう」


「ええ、眠りましょう」


 軽くシャワーで身を流して柔らかなタオルで身を包む。

 冷え切った体は熱を再び帯びて、纏ったタオルのように心地よい。

 ふらつく足取りでベッドへと向かい、男がベッドメイクを済ませた爽やかな布団で、抱き合うようにして眠りへとつく。


 瞼を閉じながら小さなリビングの写真立てを思い浮かべる。


 三人で撮った一枚、全員が満たされた笑顔で映り込むそれは、決して手放せなかった一枚で、男もその時をしっかりと覚えていた。

 幼子を二人で抱きしめて笑っているだけの、ありふれた写真。

 私は母親の代わりとして傍に寄り添っていた、今はどう表現したらよいのだろう、その答えを見つけられずにいる。


 幸せの日々を噛みしめて、消せない傷を抱えながら、私達は生きてゆく。


 閉じた瞼の赤みが増してゆく、どうやら朝日が部屋を照らしたらしい。





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ー夢枕ー 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki

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