第9話
父さんとその賑やかな一行がいない一週間は――どこか奇妙な感じがする。家の中はやけに静かで、耳に届くのは俺自身の(ますます意図的になってきた)喃語、母さんの鼻歌交じりの仕事の音、錬金道具のカチャカチャという音、そして本のページをめくるかすかな音だけ。俺はもう生後七ヶ月。この赤ん坊としての転生生活にも、すっかりベテランだ。
そんな日々の中で届いた父さんからの手紙は、まさに心の支えだった。軍の伝令兵が、ヴァレリウス将軍の公式印が押された封筒を持ってきたのだ。母さんは震える手でそれを開封し、読み進めるにつれて顔に安堵の笑みが広がっていく。
「いい知らせよ、レクソ」と言いながら、母さんは俺を抱き上げ、額にキスをする。「父さんたち、全員無事だって。先遣隊を何組か撃退して、今はこの地域の要塞の防衛強化に協力してるんですって。ボーリンは食事に文句ばかり、ライラは高い木々が恋しいって、カエルはもう余分な食料をいくつか“見つけた”らしいわ」
母さんの肩から緊張がすうっと抜けていくのが、目に見えるようだった。彼らが元気でいてくれる、それだけで今は十分だ。
俺の「診療所でのお手伝い」も順調だ。母さんが必要としている布を渡したり、薬瓶を指差したり(もちろん手の届く範囲内で、母さんが目線で指示してくれる前提だけど)、だいぶ手際よくなってきた。時々、母さんが癒しの光を注いでいる間、俺は目を閉じて、自分の核に意識を集中する。80%まで成長したその核は、まるで使われるのを待っている緊張した筋肉のように、しっかりと安定している。あの急激な飛躍は一時的なものだったようだ。残りの20%を完成させるには、意識的な努力か、あるいは――何か別の“きっかけ”が必要になるだろう。
比較的落ち着いた日々が続く中で、俺はもう一つの重要なテーマに取り組むと決めた。そう、知識だ。聞くことはすでに理解できるのに、自分の意思を伝える手段はまだ未熟。そしてこの世界の歴史、地理、魔法についても、会話の断片以上のことを知りたい。
こうして始まったのが、「赤ん坊の秘密図書館作戦」だ。母さんは居間に小さな本棚を持っていて、医学書や植物学の本、歴史書らしきもの、そしてルーン文字と図表が「いかにも魔法!」という雰囲気の本が数冊並んでいる。この本棚の近くで「遊ぶ」許可をもらうには、相当な粘り強さと(ついでに椅子の脚にかじりついてみせる演技力)を必要とした。
いざ目的の場所にたどり着けば、俺の“本当の仕事”が始まる。床に座り、ひっくり返らないよう壁にもたれつつ、重たい本をなんとか開こうとする。ぽっちゃりした指では不器用そのもので、厚いページは扱いづらい。錬金術の図表にヨダレを垂らすことも、一ページの角をうっかり破ってしまうことも、一度や二度じゃなかった(うわっ、ごめん…!)。
それでも、俺の意識は集中していた。前世のアルファベットの名残をいくつか見つけはするが、ここの文字はやはり違う。ラテン語に似た構造があるものの、根本的には異なるのだ。俺は母さんが頻繁に使う単語、「癒し」「光」「ハーブ」「王国」「国境」などと、目に映る記号を一つずつ照らし合わせていった。
古びた地理の百科事典らしき本に描かれた地図を見て、この世界の輪郭を頭に叩き込もうと試みる。医学書の図表(今はまだ意味不明だが)と、自分の記憶にある人間の解剖図――それに、この魔力核を持つ今の自分の身体――とを比べながら、じっくりと観察を重ねる。それは驚くほど時間のかかる、骨の折れる作業だ。赤ん坊の身体に制限されながらも、一つの発見、一つの記号の理解が、何よりの勝利だった。
要するに、俺は“ウムモ”という地球に似た惑星に住んでいるようだ。ほとんどが海に覆われ、中心にはパンゲアのような巨大な大陸が一つ。その大陸には七つの領土があり、どれも明確に区切られている。母さんが本に書き込んだ大きな赤い矢印から察するに、俺たちは「クインタス」という領土に住んでいるようだ。
理由は分からないが(いずれ調べる必要があるだろう)、それぞれの国や領土は、どうやら座標の位置関係に従って数字で命名されているようだ。「プリムス」から始まり、「セプティムス」で終わる。北から時計回りに並んでいて、俺たちのクインタスは南西に位置し、北側で「セクスタス」と国境を接している。周囲にはのどかな草原と山脈が広がる、ほぼ牧歌的な地だ。
この新たな生活――受動的な核の精錬、診療所でのお手伝い、そして秘密の勉強会――が始まって一週間、核自体の数値的な進歩はなかったが、俺の意識はこの世界により深く根付いているように感じた。大人としての記憶と、この環境との結びつきが強まっている。
それが何らかの数値として反映されているか気になった俺は、目を閉じ、青白いインターフェースを呼び出す。
【レクソ】
レベル:0.80
HP:16/16(+1)
MP:21/21(+1)
筋力(FUE):2
体力(VIT):2
知力(INT):??(言語処理:有効)
知恵(WIS):??(環境分析:基礎有効)
器用さ(DEX):2
魔力(MAG):2
状態:意識覚醒中、マナ核安定(約80%)、自学習中
おおっ。INTとWISに、面白い変化がある。依然ロックはされているものの、「言語処理」や「環境分析」といった具体的な活動が表示されている。そして新たな状態:「自学習中」。どうやら、システムは俺の“独学”をきちんと認識しているらしい。基礎ステータスとHP/MPも、成長に合わせて少しずつ上昇しているようだ。核は80%のまま、安定している。
俺は内心、満足げに微笑む――けれど、その勝利の気持ちもつかの間、毛布のやさしい匂いと心地よい眠気に勝てず、そのまま意識を手放した。…まあ、俺はまだ、赤ん坊だからな。
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